日常

杉本博司:陰翳礼讃 In Praise of Shadows

2015-12-12 03:16:34 | 芸術
(招待状より.In Praise of Shadows 980806, 1998 ©Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi)

11/11と言う象徴的な日に行われた杉本博司さんの新作能「巣鴨塚」。
→○杉本博司 新作能「巣鴨塚」(2015-11-11 23:11:11)

自分がブログに書いた感想を見て頂いたご縁で、今回の「杉本博司:陰翳礼讃 In Praise of Shadows」の一夜限りの能楽パフォーマンスにお誘いいただいた。ご招待頂き本当に有難うございました。
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杉本博司 個展「陰翳礼賛(In Praise of Shadows)」
2015年12月12日(土)‐2016年2月28日(日)
時間:11:00~19:00
会場:コスチューム ナショナル青山(CoSTUME NATIONAL)
東京都港区南青山5-4-30 CoSTUME NATIONAL Aoyama Complex 1F
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コスチューム ナショナル青山では、2016年2月28日まで杉本さんの写真の展示が行われている。
今回はそのオープニングとして、贅沢過ぎる能楽の時間だった。



CoSTUME NATIONALの空間は壁はコンクリートの四角形だった。
テーブルとシャンパンが整然と置かれていた。

店内は暗い。
陰翳が際立つ。

暗い空間の奥に、杉本さんの「陰翳礼讃」シリーズの写真が数点かけられていた。
和蝋燭に火を灯し、火が燃え尽きるまでの蝋燭の一生(Life)を収めた作品群。

蝋燭の火の誕生、成長、死、全体のプロセスを一瞬で目撃するようなもの。
黒の世界の上に、ゆらめいて動き続ける火のいのちが、「白」の世界として刻印されている。


「炎」は、正確に見ると、小さい火・中くらいの火・大きい火が、無数に生成と消滅を繰り返している。
ミクロな火の現象の全体像を、「炎」というマクロな現象として捉えている。

それは人のからだのようなものだ。
ひとのからだは、ひとつひとつの細胞が生きていて、60000000000000個の細胞が集まり存在している。ミクロ世界とマクロ世界とは誰が何も言わなくても当り前のように調和を保ち続けている。


火は生きている。
だからこそ、写真の中の火も止まらずに動いて見えた。
それは視覚の錯覚なのかもしれないし、そうではないかもしれない。




暗闇の中、奥深くに火の生涯をとらえた写真が陳列している。
その闇の中へ、4人の能楽師は静かに侵入した。
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<出演者>
大島輝久(能楽師シテ方喜多流)
藤田貴寛(能楽師笛方一噌流)
田邊恭資(能楽師小鼓方大倉流)
亀井広忠(能楽師大鼓方葛野流)
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笛がはじまりの狼煙(ノロシ)を上げる。空間の変容のはじまりとして。
そこに謡いとして人の声が、小鼓と大鼓の音とが重なり合い、響き合う。
ときには共鳴し、時には反発し、全体の調和と不調和を繰り返す。


聞いた空間がコンクリートであったためか、声や音の波動は直線的にビームのように壁を反射し、自分の体を貫くように振動させた。
振動は、最初はからだ表面の振動として感じられたが、後には体の奥へ奥へと振動を感じた。
自分の内部空間の広がりを改めて体感した。
骨が振動している以上に、骨の髄としての骨髄、奥の奥が振動しているのさえ感じた。


小鼓と大鼓の音は空間を切り裂く。
切り裂かれめくれた空間がかさぶたのように戻ろうとすると、鼓の音波はまた別の角度から空間を切り裂く。

適度に風邪をひくと体は元気になるように、音により切り裂かれた空間からは自己治癒力が立ち上がり、新しい空間を創造しているかのようだ。




今回の選ばれた曲が「葵の上」の一節だったことも、直線的に引き裂く力を強く感じた一因かもしれない。

能楽での「葵上(あおいのうえ)」は、源氏物語をインスピレーションの源とした能作品。
主人公であるシテは、六条御息所の生霊である。六条御息所は、もとは皇太子妃だったが、未亡人となり孤独な生活を過ごしている。
光源氏の妻である葵上は、物の怪に悩まされていた。
照日の巫女に口寄せで霊を呼び寄せると、そこに六条御息所の生霊が現れたのだった。
なぜ六条御息所は生きたまま生霊となり、葵上にとりついたのだろうか。
そこには彼女なりの理由がある。
六条御息所は賀茂祭に参加する源氏を見ようと、お忍びで見物に行った。
葵上の一行は、御息所の忍び車を後ろの方へ押しやり、車を半壊させてしまったのだった。
御息所の屈辱と恨みは深く、生きたまま生霊となったのだ。

そこで横川の小聖が祈祷していると、鬼の姿になった御息所の生霊が現れる。
横川の小聖と御息所の生霊とは戦い、生霊は敗れる。
御息所は自分を恥じつつも、成仏の身となった事を喜び、去る。


「葵の上」は恨みの念があまりに強く強固な為、生きたまま霊として凝固した。
愛は反転すると憎しみに変わる。エネルギー総量は変わらず、向かう方向性が変化した。
それは光と影の関係に似ている。
光には光なりの、陰翳には陰翳なりの存在理由がある。


闇の中で行われる謡いや鼓や笛のパフォーマンスは圧倒的だった。
この空間を織りなす糸をほどき、新たな空間として編み直して変容させる。
六条御息所の怨念も、その空間の中で同時に編み直して変容させられ、成仏したようだった。




人は心を持つ。
心は、表層意識と深層意識とで全体の調和を保っている。

表層意識と深層意識とでクロストークやダイアローグが行われ、その両者が良好な関係を保てている時は問題ない。
そうすれば、こころは調和としての全体性を維持することができる。
人生はおのずから調和的に運ばれていく。

表層意識と深層意識との対話が全くなく、そこに硬い断層やコンクリートで分断されている人は、心は常に一面的となり、不調和の状態が慢性化してしまう。そして、そのことにも気付いていない。


能楽で行われる世界は、表層意識はそのままにした上で、聞き手を一気に深いの意識層へと誘うものだ。
そこでは死者も自由に往来できるため、死者が残した恨みや悲しみをしっかり受け取ることができる。
そうして、浅い意識と深い意識の間に橋が架かる。


この現実は浅い層だけで構成されているのではなく、深い層が裏打ちして支えているからこそ、この多様な社会が生まれている。

浅い現実の層だけで生きていると、人生は極めて一面的になるが、深い現実の層とも適切な関係性を保てていれば、人生は極めて包括的で多元的で、広く豊かなものになる。



今回のように小さい空間での少人数の席は贅沢な時間だった。

夢は寝て見るものばかりではなく、能楽のように起きて見る夢もある。
浅い意識と深い意識の層をつなぐのは、イメージの領域。

二つの異世界を確実に往来させるイメージの橋として、杉本さんのろうそくの炎のプリントは存在していたように見えた。
それは、炎が天と地をつなぎ直立にゆらぎながら存在しているように、イメージの世界も、天なる世界と地の世界とを、ゆらめきながらつなぎ、支えている。見えない時は、心の眼で見れば、見える。


今回の体験も、自分のからだの中に、いまここの体験として、深く刻印されるだろう。
素晴らしい時間でした。ありがとうございます。
伝統芸能のすごさを改めて感じさせるのに十分な時間だった。


そこでは、美しい余貴美子さんもゲストとして来られていて、すこし会話を交わす事ができた。
このブログでの感想も読んでいただき、喜んでいただいていた。光栄なことだ。

まさに夢と現実とのあわいの世界のひとときだった。
2015年12月11日の19:30は新月だった。きっと何かが動き出すのだろう。