やけに直観型の人は、「直観が大事。左脳的思考は駄目!」と相手に説教する。
それを聞くやけに論理型の人は、「直観だけじゃ生きていけないよね。やけにフワフワして現実感ないよね。」と、相手の忠告に耳を傾けない。
こんな光景を目にすることがあるが、これは鏡の間の現象である。
互いが互いの内側を照らし合い、互いが互いから学ぶべき教材として引き寄せ、出会っている。
自分の内的バランスを保つために、外的世界はそのように認識されるようなカラクリになっている。
人体は非常に親切でおせっかいである。その人がバランスよく全体的に成長するよう慈悲深く見守っている存在なのだ。
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右と左について。
右脳と左脳という事柄について考える。
色々と異論もあるようだが、簡単には
左脳は、思考や論理を司り、文字や言葉や論理・・などを司る脳と言われる。
右脳は、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)や直観、イメージ・・などを司る脳と言われる。
左脳は制御しやすい意識世界に近く、右脳は制御しにくい無意識世界に近い。
五感や第六感で僕らは「外」の情報をキャッチし、「内」に入れる。
だからこそ、右脳というスーパーコンピュータは膨大なデータを処理できる。
そして、左脳というミニコンピュータで膨大な情報をセレクションし、自分にあるプログラムやシステムに従ってデータを選別していき、ミニコンピュータの処理能力に応じた程度の情報処理を行う。
自分のプログラムはどこでインストールされたのか。赤子のころ?幼児のころ?成人してから???
おそらく、それはどれも正しい。
毎瞬毎瞬プログラムは更新され続けている。時には良くも悪くも強化され続けている。
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人間と言うシステムを考える。
僕らは、日々起こるデータを保存している。
特に言葉は便利である。ラべリングすれば整理しやすい。
自分の「記憶倉庫」には膨大なものが溢れている。
「言葉」に従ってキレイに整理され格納されているものもあるが、「言葉」でラべル付けできなかったものは、記憶倉庫の中で乱雑に散らかされて置いてある。なかなか見つかりにくいが、適切な概念(言葉)さえあてがうことができれば、それなりに分かりやすい場所へ収納できる。ほとんどが「その他」として乱雑に置かれているだろう。
「言葉」は、そうしてキレイに整理して格納するために便利な道具である。
ただ、「言葉」をあてがうことができなかったものが存在していないわけではない事に注意が必要だ。
単に認識しにくいだけである。
「言葉」は「概念」という括りを使う事で、「違う」ものを「同じ」存在として捉えるために便利な道具である。人間がそれを得たのはラッキーだった。
この世界はすべて「同じ」と言えば「同じ」だし、「違う」と言えば「違う」。
すべて「同じ」というのは、「言葉」で「概念」として同じカテゴリーに記憶倉庫へ収納できるからだ。
庭に咲くバラと野に咲くバラは「違う」存在だけれど、「同じ」バラとして認識できる。
スミレとバラは「違う」存在だけれど、「同じ」花として認識できる。
花も草も「違う」存在だけれど、「同じ」植物として認識できる。
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こういう風に、上位概念で捉える作業を永遠に繰り返していけば、すべてを一つに収斂することが可能である。
それを「神」と呼んでもいいし、「カミサマ」「ホトケサマ」「大日如来」「ブラフマン」「アッラー」「道」「混沌」「霊」「第7層」「悟り」「ワンネス」「宇宙意識」・・・・・・・なんと読んでも差し支えない。
言葉は、最後まで「言葉」であり「概念」でしかないので、「名」自体には意味はないのだ。
むしろ、言霊として音波になったときの振動(波動、Vibration)自体にはエネルギーがあるのだが。
意味付けしているのは自分であったり共同社会であったりする。
だから、「言葉」でその人の内的世界に立ちあがる何かが重要となる。
そして、それは大抵「感情」という生命現象がカギになっている。
言葉や左脳思考はすべてを一つに収斂することが可能だ。逆に言えばそこの限界もある。それは人間のシステム上しょうがないことなのだ。
「言葉」として「概念」として捉える事ができるからこそ、昨日の「わたし」も今日の「わたし」も明日の「わたし」も、すべてを「わたし」という「概念(Concept)」で捉える事が出来る。それにはいい面と悪い面の両面があるのと同じ事だ。不易であり流行であることを不易流行と連結させたのは松尾芭蕉だった。
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便宜的に、人間の脳を「右脳」と「左脳」という概念に分けて考えてみる。
これは階段の一段目に過ぎない。僕らが行く先の階段はもっと続いている。
二元思考は一段目として登りやすい登山口なのだ。
「右脳」(直観や感覚(五感))を指針としている人から見ると、「左脳」(言語や論理や概念世界)にとらわれている人を見ると歯がゆく見える。だから、「難しい事を考えないで、もっと直観的に感情や感覚を重視して生きて行かないといけませんよ。」と言う。
ただ、それは既にその人の思考の癖である「右脳」にとらわれていることの表れなのだ。脳は右脳だけではない。右と左が連結しコミュニケーションしているのだ。
「左脳」(論理や言語(概念))を、主に指針としている人から見ると、「右脳」(直観や感覚)で生きている人を見ると歯がゆく見える。だから、「もっとちゃんと考えなさい。常識や世間を考えなさい。もっと論理的に考える習慣を付けないと生きていけないわよ」と言う。
ただ、それは既にその人の思考の癖である「左脳」にとらわれていることの証拠なのだ。脳は右と左がくっついている。
つまり、右脳をフィルターとして世界を捉える癖(習慣)がある人で、右脳と左脳とのバランスがうまくいっていない場合、「左脳」フィルターが行動原理の人を見ると、その人がとにかく気になるものなのだ。
それは、結局は自分の「穴」を見ているようなもの。自分の未発達の「穴」を見ている。それが自分にとっての「穴」であり自分にとっての開発すべきものとして残存している証拠に、その人は左脳的な人を見てイライラしたりムズムズしたりしているはずだ。
「感情」という生命現象がサインとして発光しだしているということは、一つのシグナルなのだ。
だからこそ、常にそれは「自分にとっての意味」になる。自分の穴が「見て!気付いて!」と叫ぶ沈黙の祈りのようなもの。
左脳をフィルターとして世界を捉える癖(習慣)がある人も同じだ。「右脳」フィルターが行動原理の人を見ると、その人がとにかく気になりだすはずだ。イライラと、ムズムズと。それは一つの親切でおせっかいなシグナルと捉えた方がいい。
感情とは、偉大な教師なのだ。
そして、「親切」と捉えるか、「余計なお世話」と捉えるかは、いつだって自分自身なのだ。教師のせいではない。
どちらか、なのではなく、どちらも、大事なのだ。
そのことを常に口を酸っぱくして言い続けないといけない。
人間と言うシステムの都合上、常にどちらかにとらわれやすいものなのだ。両極を同時に含み、同時並行で共存させることが大事なのだ。それは、人体が60兆個の細胞を同時並行で共存させている事と似ている。
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個人的な話し。
職場では、自分は左脳型と思われる事もある。ただ、自分は昔、極端なほどの右脳型人間だった。
行動原理は直観だったし、そのことを相手に伝える事ができない(する必要もない)と考えていたので、相手に根拠や理由や理屈を説明することをしなかった。
今思えば、自分は内的世界の住人だった(それはミクロコスモスを通して宇宙にも通じうるものなのだが)と言ってもいい。
人間は互いに内的世界でつながっていることを確信していたし(川は海でつながる)、言語で外的世界を経由して伝える事は程度の低いことだと考えていた。今では、それは自分の思い込みであり、思考パターンの癖であったことに気付いている。
ただ、自分はそういう右脳型の直観型の人間だったからこそ、あえて左脳の世界に飛び込んだ。なぜなら、何かバランスが悪い気がしたのだ。この世界の一面しか捉えていない事をも、自分のアンバランスが直感していたからだ。
この世は多様である。
ありとあらゆる人生のパターンがあり、それぞれに深い意味がある。
左脳という論理世界を追及して分かったのは、これはこれとして非常に大事な認識システムだということ。
そんな左脳の強靭な力を開発しながら、自分は「社会」に適応していくことに成功した。
「社会」とは、ひとつの論理的な言語的な秩序でひとつのフレームワークを作り、「秩序(Order)」を作っている空間である。ある程度の言語能力や論理能力が必要とされる。そこで適応と不適応の境界も生まれてしまう。
自分の中で不得意な部分を開発したおかげで、なんとか食らいつきながら「社会」に適応することができたと言える。
ただ、人間は無意識世界と言う大海に浮かんでいる。安住すると、全てが自動でオートになる傾向にある。それを真似て、人間は「機械」を作った。人間の自動現象のアナロジーとして「機械」が生まれた。自分がオートになると、自分が機械となり、社会が作った論理世界に機械の一員として飲み込まれることになる。
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遭難しないように、難破しないように、常に自分の「感情」を一つの方位磁針としながら、その指し示す方角を見る必要がある。
人間は、月を指さしても「指先」を見てしまう癖がある。
本来は、指が指し示す「月」をこそ見ないといけないのだ。
だから、「感情」が指し示す指先を見るのではなく、その先の先の「月」を見る必要がある。
「月」が円であることや、地球を越えた次元の観察点であることも重要な示唆を与える。
そうすると、自分の「感情」が指し示す深い洞察へと至る事ができる。
それは、色んな場面で色んなパターンに変えながら、自分への出来事として何度も訪れているはずだ。
ただ、何度も変奏曲を取りながらそのメロディーが多様に聞こえてきていると言う事は、まだその指し示す指先しか見ていないとううことをも意味している。
その指先が示している「月」を見るのだ。
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右脳や左脳をひとつ上の次元から捉える事ができるとき、それは一つになる。
右と左という概念は消える。月のようにひとつの円となる。
指の針(指針)が指し示したとき、指先ではなく「月」を見る事ができれば、右脳と左脳は結婚し一つになる。円となると「概念」として認識できずに、脳の表面から泡のように消えていく。成仏。南無阿弥陀仏。
だから、相手の考え方や思考癖が気になる時は、自分がそのことを学ぶチャンスなのだ。指先ではなく「月」を見るのだ。身についてないから気になる。身になれば気にならないはずなのだ。身になれば、自分の中で一つになっている。
チャンスは常に訪れている。チャンスをチャンスとして認識した時、「奇跡」のような現象として感知されるだけなのだ。
人間はそういう風に「奇跡的」に変わりうる存在なのだ。
そういう無限の知恵を、人間は内蔵している。
それを信じ抜く事がその人の人生での仕事だし、それを信じる力を与えるのが医療のプロであるはずだ。
それは単純に「自分を信じる」という言葉に凝縮されているのかもしれない。
ただ、「自分」という概念が指し示すものがあまりにも謎に満ちているので、なかなか身につかないだけなのだと、思う。
いい言葉ですね。
明日、本を送ります。
おたのしみに!
(^-^)p
仙義梵の 「指月布袋画賛」という絵が大好きです。指と月の話は禅に出てきます。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/collection/introduction/sengai/
禅の世界では指は経典で、月は悟り。経典ばかりを見ていても、悟りは開けないという意味が込められているのですが、仙は悟りを示す月さえも消し去ってしまっていて、そこが自由で最高です。ことばに捕らわれてはいけないんでしょうね。それこそZEN!
スイッチさんの本、楽しみです!
本当に有難うございます!(^^
岡本太郎の「縄文土器論」を読んでる30代って
希ですよね。(笑)
十年以上前の美術手帳に載ってたヤツ。見つけた時は興奮しました。
実は、青森県の縄文情報総合サイトというところで、
ずっと縄文のエッセイを書いているんです。
今回で60回目。太郎さんの「美の呪力」はいいですよね。
去年、長野の原始感覚美術祭に持って行ったら、すんなりと太郎さんの言うことが入って来ました。
よかったら縄文エッセイ読んでけさまい♪ スイッチより☆
岡本太郎と縄文
http://aomori-jomon.jp/essay/?p=509
岡本太郎に学ぶ
http://aomori-jomon.jp/essay/?p=501
ブログ読みました。
まさか美の呪力が出てくるとは!驚愕。
建築家の渡辺さんの「縄文夢通信」によると、縄文人は自然と共鳴したネットワーク技術を持っていたようですね。
鏡岩や太陽の光などで映像や情報を共有していたと。その痕跡として縄文文化が残っている。
そう考えると、超古代文明も別の次元での「科学」だと思えば、虚心坦懐に学びたいという好奇心がムクムクと湧いてくるのです。この辺りの縄文的な智慧は、諸星大二郎の漫画に通じる気がしますね。
<第8回 岡本太郎に学ぶ>コラムで共鳴しました。
医療においても、常に「何かをする」ことばかりに焦点が当たります。
医療者は僕らは「何かをする」ことが善だと勘違いをして、小さいな親切、余計なお世話、をしてしまう事も多いのです。そうではなく、「何もしない」でたたずみ、共に場を共有することがいかに大事かと思うわけです。そのとき、自然治癒力が最大限に発揮される場合があります。研修医や後輩に、そういうことをよく教えるのですが、そのときにあまりよく伝わらなくとも、10年後くらいにふと分かればいいと思って伝えています。
それは老子が言う道タオの世界に近いです。何か治療するという主体的な行為ではなく、道タオという次元に自分がいれば、「治癒」という現象が共時的に起きる。これは人間を丁寧に観察していると分かります。
このことは、医療の真髄でもありますが、道(タオ)という自然と全共鳴状態にいることが難しい昨今、なかなか伝える事は難しいです。ただ、諦めずなんとか伝えて行こうと思います。
その次元は赤ん坊の状態に近いですね。赤ちゃんが周りにいると、なぜ僕らは和むのか、そのことを理性的に考えると、道タオの次元は縄文や岡本太郎や生命の次元にも通じるように思います・・。