日常

動物と植物から見た人体

2010-01-13 11:44:41 | 考え
■焦点(フォーカス)

医者になって、あくせくと目の前にぶらさがった仕事ばかりに奔走していたので、最近は少し視点をひいていろんなことを考えなおしている。
<ひとのからだ>もそのひとつ。


顕微鏡は、あるポイントを拡大して正確に見ることはできる。
ただ、同時に周囲の景色はぼやけてくるものだ。
部分にフォーカスを当てること、その周囲がぼやけることは、常に同時に起きている。


仕事もそうだと思う。
現場の仕事ばかりに埋没していると、「あれ、元々なんの仕事してたんだっけ?」とふと気付く。全体像がぼけてしまう。
その部分と全体の間で、常に往復の振り子運動をしないといけないなぁと、ふと思うことがある。


そんな振り子運動で一番大きいものが、生と死の問題なのかもしれない。
「あれ、そもそもなんでひとは生きているんだっけ?」
「あれ、そもそもなんでひとは必ず死ぬんだっけ?」
それは誰にも平等で共通の問題。

それを、一部の人は哲学と言うだけだろう。



■動物性器官と植物性器官

本題へ。
そういうことで、視点をひいて<ひとのからだ>を考えてみる。

人体そのものを、「動物」と「植物」の観点から改めて考え直してみると、色んな発見がある。



人間は、「入れる」「配る」「出す」のサイクルをグルグルと繰り返している。
ひとのからだは、動物性器官と植物性器官に大きく分かれる。

動物性器官は、
1:「受容系(感覚系)」で入れて、
2:「伝達系(神経系)」で配り、
3:「実施系(運動系)」で出す。

植物性器官は、
1:「吸収系(消化~呼吸系)」で入れて、
2:「循環系(血液~脈管系)」で配り、
3:「排出系(生殖~泌尿系)」で出す。

体の中には植物性器官がはいっていて、その体の表面を動物性器官が覆っているデザインになっている。


発生学的に言えば、受精卵は植物性器官の「腸管」という「クダ構造」から始まって、そこに動物性器官が介入してくる。
そんな植物世界と動物世界のせめぎあいが静かに起きている。



「入れて・配って・出す」サイクルを、どんな人もグルグルと永久に繰り返している。

ひとりの人間という個体は、「食」で維持している。
ヒトという種は、「性」で維持している。
食と性の営みはも、個体でも種でも、果てしなく繰り返されている。



■細胞

細胞。
ひとのからだは細胞から構成されている。
ヒトの「個」を維持しているのが「体細胞」。
ヒトの「種」を維持している細胞は「生殖細胞」。


「あらゆる生物は細胞からできている」という考えを『細胞説』と言う。
この『細胞説』の考えは、近代的な生物学の始まりと言われている。
小さいユニットの積み重ねで、ひとつのからだが作られるという考えかた。


1665年にフックがコルクの断面を顕微鏡で観察してそれを「Cell(細胞)」と名付けた。
1838年にヤコブ・シュライデンが植物について、1839年にシュワンが動物について『細胞説』(細胞からできている)が適用できることを唱えた。
そして、1858年に大御所のウィルヒョーが「すべての細胞は細胞から生じる」とお墨付きを与えたことで、細胞説の概念は確立していったと言われている。

「細胞」を単位に考えることで、広い意味での生物という意味で、動物と植物の間につながりが与えられた。



■「あたま」と「こころ」

動物性器官の代表は脳で、植物性器官の代表は心臓だ。
脳と心臓、それは「精神」と「心情」。
それは「あたま」と「こころ」。

動物性器官は「動くもの」であり、「みずから」動くもの。
植物性器官は「植わったもの」であり、「おのずから」動くもの。

動物性器官は「意識」の産物だから、「意識」によって動かすことができる。
植物性器官は「無意識」の産物だから、「意識」で管理することはできない。寝てても起きてても、24時間休みなく働き続けている。


■「従属栄養」と「独立栄養」

人体は植物性器官を基礎のつくりとしていて、その上に動物性器官が介入した形で作られている。
ただ、人間は植物側というよりは、動物側の生命体でもある。


動物は「従属栄養」なので、自分で生命を維持することできない。植物を食べることで、動物は生きてるし、その動物をほかの動物が食べるおかげで生きている。動物は、他の生命を食べることでしか生き続けることができない。そんな業のようなものを最初から植え込まれている。

植物は「独立栄養」なので、無機物、水、二酸化炭素から自分で栄養をつくり、自然のものを受け取るだけで生命を維持することができる。そんな風に、植物は自然の中にある「地・水・火・風」を最大限利用して生命を形作っている。



■植物に戻れなかった動物

原始的な無脊椎動物は、成人になると「変態」の後に、植物的な生物へと変化するものがある。

例えばホヤ。ホヤは脊椎動物と無脊椎動物の間のような生き物で、大人になると地面にくっついて全く動かない定着生活へと転じる。
ある場所に植わり、触手は消えてなくなり、えらという植物性器官を使って、そこにある餌をなんとなくもらって、静かに余生を過ごす。


僕ら人間を含めた脊椎動物は、そんな原始的な無脊椎動物と違って、「動物」のままで一生を過ごす他はない。
別の言い方をすれば、植物の姿に戻りきれず、動物のまま過ごすようになったのが、そもそもの脊椎動物の始まりなのかもしれない。


弥勒菩薩は眼をつぶり、静かに微笑している。
眼も口も「入れる」器官でだけれど、眼は「受容系(感覚系)」だから動物性器官で、口は「吸収系(消化~呼吸系)」だから植物性器官。
弥勒菩薩は、動物性器官の眼を閉じて、植物性器官の口を開いて静かに微笑している。
動物に絶望し、植物への憧れを示す表情なのかもしれない。
弥勒菩薩には、そんな不思議な温かみがある。




動物と植物という観点で人体を見直してみると、ひとのからだは新しく見え始めて面白い。

僕らのからだには、植物のような生命が静かに住んでいる。

呼吸をすることや考えることは止めることはできても、どんなに念じても心臓も、内臓も、動くのを止めることはできない。
植物的な営みで、静かに寡黙にこつこつと、無意識で働いている。



改めて、ひとのからだは、いろんな勉強をしないとなんにも分かってないなぁと「無知の知」を自覚することが多い。
だからこそ、学ぶってことは永久に面白いんだろうなぁと思う。
永久に続けることができるんだと思う。

<参考文献>三木成夫「ヒトのからだ -生物史的考察」(うぶすな書院:1997)

9 コメント

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Unknown (MY)
2010-01-14 08:48:08
人間という動物の体の中に動物性器官と植物性器官があるということも,それが意識と無意識に関連することも,大人になると植物的な生物に成長する動物がいることも,ものすごく面白く読ませていただきました!すごい,深い~~。
(あまり何も考えずに植物状態とか植物人間という言葉を使っていましたが,それは体のなかの植物性器官だけが動いているという状態ということなのですか?)

植物への憧れ・・・という言葉も新鮮で,なんだかどきどきしました。仏教の世界観には植物への憧れが色濃いのでしょうか。

いやぁ,本当に知らないことばかりです。
続きが読みたくなりました!

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植物への憧れは無意識への憧れ? (YUTA)
2010-01-14 08:52:46
なるほど、寝ている時は植物として生きているのかもしれませんね。動物と植物は別々に進化したのですが、動物が生きているのは呼吸・循環・消化器官のおかげで、その植物的な大きな力の上に動物の行動がある。

そして動物は他の生物を食べ続けなければならないことを、「動物への絶望」と表現されたのですよね。これは宗教的には「原罪」と言えるでしょう。ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』にも、こう述べてあります。

《現象の多様性の度合がますます増大するにつれ、雑踏混乱ははなはだしくなり、その結果、諸現象は相互に邪魔し合うようになって、食糧を得るために当てにしなければならない偶然の機会は、単なる刺戟によって動かされた個体としては、はなはだ恵まれないものとなるであろう。したがって動物は、かつて認識なしに植物的に生きていた卵や子宮のなかから抜け出したまさにその瞬間から、食糧を探し出したり、選び出したりしなければならなくなる。》

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植物への思い (いなば)
2010-01-15 16:03:09
>>>>>>>MY様
いやぁなんか面白くないですか?
植物って身の回りにあふれていて、じっとそこに黙って、動物のように「動いて」餌を求めるわけでもなく、じっと「植わっている」。
静かで大人しくて安定していて、まさしく「自然」の法則そのままの生き方しているような。

そんな優雅な植物、色も美しかったり、いい匂いもしたり、なぜか心が癒されたり。
不思議なものです。

僕は、そんな植物への憧れは、人体の中に潜んでいる気がしてきました。
動物性器官、植物性器官って、最近はあまり使わないコトバではあるんですが、医学書にもちゃんと出てくるんですよね。

この辺、また深く考察していきます。

おそらく、原初の生命そのものをどんどん考えていくことになるんだと思うのですよね。
最初の生命体は藻類のようなもので、光合成して自分で栄養作ってたわけですから。

動物は、いわばそのおこぼれを食物連鎖の果てにもらっているわけで。
勉強の成果は、またブログで!


>>>>>>>YUTA様
そうなんです!
僕もまさしく、<寝ている時は植物>と思うんですよね。
つまり、無意識ってことです。
意識は動物的で、無意識は植物。実際、寝てるときは無防備で、「植わっている」ものですし。

意識中心になると、その視点を忘れがちなんですよね。
睡眠不足を削ったり、常に明るい光の中で生活したり・・・。


動物は、なんだかんだで他の生物を食べ続けなければいけないし、それを釈迦は不殺生といったのでしょう。
動物であることを意識して、植物を思え、と。

確かに、宗教的には「原罪」かも!
いやぁ、そう指摘していただけると、どんどん空想広がります。

ショーペンハウアーの言葉も深いですね。

『諸現象は相互に邪魔し合うようになって』
『動物は、かつて認識なしに植物的に生きていた卵や子宮のなかから抜け出した』
いやはや、さすが昔の偉いヒトは鋭いー!

また色々教えてください!
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「目を閉じて」 (NATSUKO)
2010-12-03 13:35:46
なるほどです。「射るような視線」「視線がいたい」などといいますが、眼ってそもそも受容器なのにな、と最近考えていました。なんというか、意思をもった受容器ですよね。
だから「原罪」と言えば、見ることさえ原罪のような気がしてきます。

*****
弥勒菩薩は眼をつぶり、微笑している。

元々、眼も口も「入れる」器官であるが、眼は「受容系(感覚系)」のため動物性器官であり、口は「吸収系(消化~呼吸系)」のため植物性器官である。
弥勒菩薩は眼をつぶり、静かに微笑している。
動物性器官を閉じて、植物性器官を開いている。
*****

ルドンの「目を閉じて」を連想しました!
http://www.salvastyle.com/menu_symbolism/redon_clos.html

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エトガー・エンデとか、クレーとか・ (いなば)
2010-12-04 01:36:21
>>>NATSUKOさま
むかしのエントリーを発掘してコメントいただきありがとうございます。
ぼくも、改めて読んで(ディテールは忘れているもので)、自分の文ながら新鮮な思いを感じます。

眼は受ける器官なのに、視線が射すような攻撃的な感じもあるのは、それが動物性のものだからなのかもしれません。
脳という自由意思を生み出す臓器を使って、目に何かの意思を込めることができるもので。
動物性の臓器は、それだからこそ意識にコントロールされうるもので。


たしかに、見ることさえ原罪のような気がしてきますね。
動物である以上、自然から受け身では生きていけなくて、ある程度攻撃的、能動的に働きかけていかないといけなくて、それ自体が他者を侵食する行為にもつながりますしね。

ルドンの「目を閉じて」、いいですよね。
たしか、音楽家の武満徹さんも、ルドンの絵、好きなんですよね。すごく幻想的でメタファーに満ちている感じが、ぼくもとても好きです。

童話モモを書いたミヒャエルエンデのお父さんで、【エトガー・エンデ】という画家がいます。
この方の存在は、神保町で「闇の考古学―画家エトガー・エンデを語る」(岩波書店)という古本を偶然見つけ、それ以降知ったのです。
この本くらいでしか見れないかもしれないのですが(ネットで検索すると少しは絵が出てくる)、このエトガー・エンデも、ルドンの絵と同じく幻想的で好きです。

ルドンの回顧展とか、東京でやらないかなー。

国立近代美術館で、2011年5月31日~7月31日には「パウル・クレー展 ―おわらないアトリエ」もあります。これはほんと楽しみにしてます。クレーの絵はほんとうに不可思議で、イマジネーションを刺激される絵です。
http://klee.exhn.jp/
(どんどん脱線してしまった!)
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Unknown (NATSUKO)
2010-12-07 02:19:18
こちらこそ参加させていただいてとてもうれしいです。蒸し返すようでわるいかしらとも思ったのですが、こうして昔のエントリが浮上してきてまた深くあたらしいほうに発展していくのも、すごくおもしろいですね。

*****
眼は受ける器官なのに、視線が射すような攻撃的な感じもあるのは、それが動物性のものだからなのかもしれません。
*****

そうかもしれません。ここまで白目と黒目がはっきり色分けされ、くるくるとよく動き、パチパチと瞬きする眼をもつ哺乳類は人間だけだ、とどこかで読んだことがあります。
人間の眼は意思によってコントロールできると同時に、その豊かなな動きは他者に読解欲を喚起するものなのかもしれません。そこにさまざまなダイナミズムがあるから、眼って重要なのかなと思いました。

かなり昔の日曜美術館で、武満徹さんがルドンにつて語っているのを見たことがあります!

それからエトガー・エンデ!
Googleで画像検索して何枚か見れたのですが、いいですね!あの画風のままモモの灰色の男たちが出てきそうです。クレーもみにゆきたい。。だんだん目が欲深くなってきました笑。

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霊長類 (いなば)
2010-12-08 02:13:08
>>>>NATSUKOさん

自分としても、昔書いたものを再度読む機会ができて、嬉しいものです。
書きまくっていると、どんどん埋もれて行きますからね。

文章を書くとき。
何かで熱を得て、その熱がなくなってしまうのがもったいなくて、その熱を有効利用するように文章を書くことが多いのです(合気道の感じで)。
見返すと、そのはじめの熱も思い出すのです。
これを書いた時期は、三木成夫「ヒトのからだ -生物史的考察」含め、三木先生の本とか発生学の本をすごく読み込んでいたので、こういう内容になったのだといまさらながら思い出しました。


「ここまで白目と黒目がはっきり色分けされ、くるくるとよく動き、パチパチと瞬きする眼をもつ哺乳類は人間だけだ、とどこかで読んだことがあります。」

僕も似た記憶があります。
僕が大好きなDVDで、NHKスペシャルの<地球大進化>というものがあります。
DVDボックスを二つ合わせて全部で6枚で2万円しました。
でも、何度も見たし、いい買い物でした。

今、友人の誰かに貸していて、どこかに回っているはずなのですが、そう言えば、今どこにあるのかよくわかりません。(おーい、どこにあるんだー!このブログ読んでる友人の誰かのとこかな。忘れた。)

そのDVDの中に、哺乳類の中で、霊長類(サルとかヒト)への進化のとこで出てきたのが、その「黒目」の話でした。
動物は、黒目がキョロキョロしていると、獲物を狙ってるのがばれたり、狙って殺されたりするから、キョロキョロするための黒目がない。
でも、霊長類(特に、ヒト)は、集団で生きていくことを選んだ。コミュニケーションを、より重視したから、黒目が動くようになったんだ。みたいな説明があったんですよね。
リスクを取っても、コミュニケーションをしたり、個人で生きていくのではなく社会をつくる道を選んだと・・・・。


このDVDはすごくいいDVDです。
ひとつひとつの説明が、4,600,000,000年(46億です)の地球の歴史を受けて説明してくれてる気がして、なんだか深い感動を受けた覚えがあります。
今年の正月も病院で当直してましたが、家に帰ってから、このDVDとダウンタウンのDVDを見たのを覚えてます。(どうでもいい記憶ですが、なぜか覚えてました)

眼くばせとか、アイコンタクトとか。
目つきだけで、意思疎通をできるから不思議なものです。
人の目から、その人の心理状況を無意識で考えているような気がしますし。



エトガー・エンデの絵、とても奇妙で面白いですよね!
気に行ってもらえてうれしい。
単なる気持ち悪い絵!って一蹴されなくてよかった。

息子のミヒャエル・エンデの作品にも、かなりの影響を与えているようです。

画像探してたら
http://www.edgarende.de/
http://www.edgarende.de/Englisch/Home.htm
に、エトガー・エンデのサイトがあって、
絵がいっぱい見れますね。
妙な絵だー。夢の世界みたい。村上春樹的!


wikipediaで見ると、
************
新進の画家として注目されたが、帝国文化会への入会を拒否したことから、ナチス政権下、退廃芸術家の烙印を押されて芸術活動を大幅に制限された。1940年には徴兵され高射砲部隊に配属される。その年齢から、懲罰的な徴兵であったと思われる。
************
ってありました。かわいそう。
時代の闇を背負って、時代の闇を描いたのかもしれません。
岩波書店のエドガーエンデの本も、まさしく「闇の考古学」ですし!


クレーも、大回顧展は、ほんとにほんとにほんとに楽しみです。いやはや。いやはや。
あんだけ絵を集めてくるのは相当大変でしょうし。展覧会は、地道な作業。

ちなみに、国立近代美術館では、5月31日~7月31日には「パウル・クレー展 ―おわらないアトリエ」の前に、3月8日~5月8日「生誕100年 岡本太郎展」もあります!
はー。楽しみすぎるー。どうしよー。
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Unknown (NATSUKO)
2010-12-09 23:37:44
きのうたまたま手にとった茂木健一郎さんの『ひらめき脳』に、ちょうどこんな話が書いてありました。

ある実験で、人間の脳は人物が視線を外している写真に対してはあまり変化が起こらないけれど、こちらを向いている写真を見たときにはドーパミン細胞が活性化することがわかったそうです。
つまり「人と人の目が合うことは脳にとって嬉しい」ということのようです。
ただ、いくら魅力的な相手でもじっと見つづければ不快感を与えますから、互いの視線があったりあわなかったりという「偶有性に満ちたアイ・コンタクト」こそが、脳にとってスリリングな「快」となるのだそうです。(新潮新書『ひらめき脳』p.155-156)。

タイムリーな話題でびっくりしていしまいました!

まさに「リスクを取っても、コミュニケーションをしたり、個人で生きていくのではなく社会をつくる道を選んだ」動物だけあって、脳もちゃんとそういう仕様になっているのですね。

そういう「意味の不確定性」を生む機能がビルトインされているからこそ、人間の脳は「いまここ」を抜けだす想像力を身につけていけたのかも、なんて考えるとちょっと壮大です。

メイクテクニックが目の強調に集中するのも、女性は昔からその魔力を直感的に知っているからですかね(笑)。

「地球大進化」、NHKのオンデマンドで発見しました。おもしろそうです。

エトガー・エンデのHPも見ました。とっても怖いですね。感性のするどい芸術家は時代を背負ったり時代を先取りしたりするものなのだなあ、と最近思います。
戦中や社会が大変革中にうまれた作品は、精神のバランスをとるために作家が命をかけるからか、異様な迫力がありますよね。
これもまたつい最近『果てしない物語』を古本屋でがっしりつかんでしまったばかりで、個人的にとってもタイムリーでした。
いろいろご紹介ありがとうございます!!
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 (いなば)
2010-12-15 12:57:03
>>>NATSUKOさん
「偶有性に満ちたアイ・コンタクト」ですね。
確かに、全然知らない人と目が合うと、脳の中でいろんな回路が高速で動きますよね。
これは誰だろう?という入力を入口にして、自分のあらゆる記憶を根こそぎスクリーニング、スキャンする。 相手の表情を読み取って、笑顔なのか、快なのか不快なのか。よころこびなのかかなしみなのか・・・いろんなものを読み取っていくわけですし。

ふと思い出しましたが、それこそ養老先生が、<死体は表情が読めないからゾッとするのだ>と言っていて、たしかにそうかもなと思いました。無意識に表情を読み取る回路が動き出すわけですが、自分の経験や記憶を総動員しても、相手の表情が読めないのは恐ろしいことなのでしょう。 <能面>もそうですよね。表情が読めない面。表情が読めないってのは怖いのでしょう。

表情が読めないっていうのは、殺されるとか、暴力を受けるとか、刺されるとか、そういう恐怖の感情と結びつくこともあれば、「なんだこれは」という驚きの感情とも結びつくような気がします。この辺は、考えてみるといろいろ面白いのかもしれませんね。



「メイクテクニックが目の強調に集中するのも、女性は昔からその魔力を直感的に知っているからですかね」
たしかにそうですね。目っていうのは、強い威力があるし、相手に対してもいろんな妄想をかきたてますし。

今はあまり手術場にいかないですが、学生のとき、手術室の看護師さんが帽子してマスクしていて、目と声しか見えないのです。
だから、たいていのオペナースの方々は目しか見えないから、目のメイクがばっちりメイクですごかった。
そして、目だけから勝手にいろんな妄想をかきたてるのです。
そういえば、イスラムも女性は目しか出しませんが、そこにはいろんな歴史や意味が込められているような気がしますね。


エトガー・エンデのHP、すごいですよね。
ときどき、見ている自分のほうがおかしいんじゃないかって気がしちゃう。
あっちの世界に吸引されてしまうような。
でも、あのイメージは、やはり社会の奥底にある闇のイメージを掘り出してきたような気もするのです。

偉大な芸術家や音楽家が、その時代の「歪み」のようなものを元に戻すため、その補償作用として作品を作っているような気がします。
『果てしない物語』、僕は、まだ『モモ』すら買っているのに読んでいないのです。積読。
適切な時が満ちたら読み始めようと思って、ワインのように寝かせてあたためてますが、そろそろエンデの作品を本格的に読み込む時期かなぁなんて思ってます。
今は村上春樹さんとよしもとばななさんを読み込んでいる時期なもので・・・。

いやはや、いろんな本があって、そのどれもが興味深くて、これから長い人生、飽きることないなーってよく思いますね。笑
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