平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

知恩院 法然上人御廟

2009年07月12日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 知恩院は祇園から東へ向かって東山三十六峰のひとつである華頂山の麓にあり、東福寺と並んで日本最大の三門を誇ることでも知られている。 三門とは三解脱門を意味し、空・無相・無作の解脱を意味するという。 法然ゆかりの寺であると同時に将軍家の権威と天皇家の格式を兼ね備えた寺でもある。 徳川家康の手によって整備され、徳川将軍家の菩提寺として栄え、また後陽成天皇の第八皇子・良純法親王を門主に迎えたことから門跡寺院にもなっている。 知恩院の開創は800年前に遡り、法然が開いた念仏道場を起源とする。 現在の知恩院の御影堂あたりを含む一帯にいくつかの坊を設けて専修念仏を伝えたという。 しかし1207年旧仏教勢力からの攻撃を受けて流罪となり坊は荒廃する。 4年後赦免され京都に戻った法然は慈円(法然最大の庇護者・九条兼実の弟)の配慮で南禅院という坊舎にはいった。 現在の知恩院の勢至堂あたりである。 しかしまもなく法然は臨終を迎えた。 日本一を誇る三門には釈迦如来像が安置され、三門を建てた大工の棟梁・五味金右衛門夫妻の棺がある。 巨大な三門を完成はさせたものの予算を超えたために自害したとか、建物の秘密を知っている者は邪魔者として消されたとか、伝説は数多く残されているらしい。 親鸞は法然の教えをこの地で受け継ぎ、蓮如もこの近くで生まれたという。 法然の念仏をより深く親鸞が発展させ、蓮如が親鸞の念仏をより多くの人に広めた。 それはまさに今から800年前の出来事であり、2011年には法然の800回忌と親鸞の750回忌が重なる。

 源 頼朝に仕えた熊谷次郎直実は法然の熱心な帰依者であった。 1184年一の谷の合戦で直実は鎧姿も麗しい若き武者を組み伏せて首を討ち取った。 あいてはもちろん平敦盛である。 武士の身の無常を痛感した直実は後に出家して蓮生と名乗る。 出家の翌年に上洛して法然に対面した直実は、以来熱心な専修念仏の行者として法然に仕えて念仏行に励んだという。 東国の御家人には法然に帰依した武者は数多く、鎌倉源氏政権樹立の影には武者の苦闘がうかがえる。

 

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舞妓はん

2009年07月10日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 京都には 「祇園甲部」「先斗町」「上七軒」「宮川町」「祇園東」の五つの花街があります。 今の季節に手軽に舞妓・芸妓さんに会うなら、「上七軒」でのビアガーデンが最適ではないでしょうか。 因みにセット料金1800円です。 北野天満宮のすぐ東には、「上七軒くろすけ」、「上七軒文楽」、「上七軒四季」、「上七軒ふた葉」などが並び、それぞれの花街の舞妓・芸妓さんにお目にかかることができます。 そして上七軒歌舞練場の日本庭園にて毎年この季節に催されるのがビアガーデンです。 舞妓さんは二十歳までの娘さんに限られ、それ以上の歳になると芸妓さんと呼ばれるのが通例なのですが、最近では年齢に関係なく舞妓さん、と呼んでもさしつかえはないそうです。 舞妓さんの姿は艶やかで、江戸時代の室町通にあった呉服問屋の娘さん達の姿を模して、 頭の花かんざしは一月から十二月まで毎月変わります。 また、日本髪はすべて彼女達の自毛で、その髪型には 「割れしのぶ」、「おふく」、また祇園祭の時の「勝山」など種々あります。 お化粧は自分でし、最初は下唇にしか紅をささず、振り袖にだらりの帯という舞妓さん達が幼く見えるような演出がなされます。 さて、写真の舞妓さんをこのように見てみますと、如何でしょう。 平安時代を感じるには、はやり舞妓さんを見に行くのが一番です。

 

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播州・御嶽山清水寺

2009年07月09日 | 平安時代

 播州清水寺は、西国三十三所観音霊場の第25番札所。 専用道路入り口で入山料300円を払って入山します。 また、登山道から入山することも可能です。 清水寺は、寺伝によると法道仙人開基の寺で、水の乏しいこの地で、法道仙人が祈願したところ霊泉が湧ぎ出たことが寺名の由来とされている。 「縁起」によると、現在失われている大塔・多宝塔は、1157年、平清盛の生母と伝える祇園女御の建立、常行三昧堂は後白河法皇、清盛の養母池禅尼が薬師堂、頼朝が阿弥陀堂を建立したという。 鎌倉期にも後深草法皇の帰依をうけ、播磨国吉田庄が寄進され、将軍宮久明親王、花園天皇、後伏見上皇の奉加寄進をうけた。  根本中堂は推古天皇の勅願により627年に創建され、 本尊は十一面千手観音菩薩(秘仏)で、脇侍としては毘沙門天王、吉祥天女の聖像が安置されている。 実は今年の9月からの三ヶ月間は秘仏である本尊の御開帳時期となっています。 もちろんすばらしい紅葉を楽しむこともできます。 

写真(撮影可能)は大講堂内の本尊・十一面千手観音菩薩(秘仏)の前立ちです。

 

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日本丸

2009年07月08日 | 国内旅行散策

 

 

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一の谷の前哨戦・三草山の合戦

2009年07月08日 | 平家物語

 ここ一の谷北方の三草山は源義経が一の谷に奇襲をかける前の通り道であり、平資盛と弟の師盛は三草山の守りを命じられていた。 しかし、義経に遭遇した資盛、師盛兄弟は敗退する。 資盛はいったん逃れて助かったが、師盛は一の谷で戦った後、沖合いの味方の船に戻ろうとして源氏に討ち取られた。 このとき14歳、平家一門では最年少の死であったという。 あまり知られてはいませんが、平家物語ではちゃんと登場しています。

 1184年2月4日の早朝(一の谷の戦いは2月7日)、都を千騎ほどの騎馬武者と共に出立した義経一行は、現在の住山字ツドイ(社町の東)に集結すると、搦め手の軍勢三千数百騎となって小野原・三草山に向かった。  三草山の合戦(加東郡社町)は、義経の郎党が流した厭戦気分の流言を真に受けた平家が、源氏を打ち砕くのに充分と思って配備した軍勢が、源氏の軍勢より少なかったことと、4日は平相国の三回忌で戦いをしないと言う情報から、戦は翌日と決め込み、鋭気を養うために休んでいた真夜中、5日に入ったばかりと言う時刻に平家は襲われた。 不意を突かれた平家は、義経が囲みの一端を開けていた闇の中を加古川沿いに高砂方面に逃げ去った。 これを襲う義経勢も20里という二日路を一気に走破していた後の合戦であり、木梨まで追ったが、それ以上は体力の限界とばかり、用心にと白旗を無数に掲げて休んだ。

登山道入口から三草山古戦場まで約2.5km

 

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ゆり園・玉水

2009年07月08日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

旦那様と一緒に来ていたアマチュア写真家、お近づきの印に撮らせて頂きました Olympusでした

 

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赤松氏範一族憤死の地

2009年07月07日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 赤松氏範は1329年に赤松則村(円心)の四男として生まれ、則村の命で一人南朝に仕えた。 父則村が没した後の後醍醐天皇の崩御後も南帝に仕え、忠誠を捧げたという。 1351年、兄・赤松則祐が南朝に帰順し、護良親王の皇子陸良親王を奉じて兵を集め、分裂した皇室や公家を元のように一つにして天下の平和をもたらそうとしたが果たせず、再び足利方に与党した。 則祐より、足利将軍に仕えるよう度々言い送ってきたが、南朝帝に仕える。 この氏範の忠義に対して後村上天皇は桐に鳳凰の御旗を与えた。 氏範はその恩に報いるべく京都攻略に加わり、北朝方を散々に破っている。 その後、氏範は南朝御所吉野の赤松宮のもとに仕えていたが、1360年の赤松宮反逆の挙に加わり南朝賀名生宮を焼討ちにしたが、南軍の反撃に総崩れとなった主君赤松宮をみはなすことは武士の本意にあらずと、氏範主従二十余騎は身を挺して防戦につとめ、赤松宮を奈良に落とさせた後に降伏し、吉野を去って兄則祐のもとに帰った。

 1361年、氏範は摂津国を領し、嫡男氏春に道場河原佐々城、次男家則に桑原大浪山城、三男祐春に船坂城、四男季則に福島岡山城を夫々構築させ基盤を警固なものとした。 1368年氏範が摂津国中嶋郡江口五箇荘に踏み入り乱暴すると、幕府は播磨守護職である兄・則祐に命じ氏範の横領を止めさせたが、氏範はこれを不満として、再び南党としてその所領に兵を起こしたが敗れ、三田に帰る。 1386年、氏範は今一度、足利将軍の目を覚まさせ、討ち死にして末代の亀鑑に備えんと、京都に攻め寄せたが、将軍を討ち取ること叶わず、播磨国に引き退いた。 幕府は赤松氏範討伐軍を編成し、山名氏清を大将に軍勢を差し向け、氏範一族の籠もる清水山を包囲して攻略するも、容易に落とすことが出来ず、新たに管領細川頼元を大将に任じ、播磨に下った。 氏範はこれを聞くと、 赤松一門の将が包囲軍に加われば、同族血で血を洗うことになり、悔いを後世に残すことになると、氏範は兵を纏め本陣清水山に引揚げ、子息四人並びに一族郎党ともども今生の別れを済ませ自害した。 氏範討伐軍に従った兄則祐の子、播磨守護職赤松義則は叔父氏範の冥福を祈願して、追善のため供養田を終焉の地・播州清水寺に寄進した。 

村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
          ┣顕房1037-1094-季房-季則--赤松則景-家範-重則→
         藤原尊子1003-1087(藤原道長娘)
→赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘 
   ┗赤松氏範1330-1386      ┣
    ┣氏春          赤松義村?-1521(置塩城主)
    ┣家則           ┣赤松晴政1513-1565
    ┣祐春           ┗赤松政元1500-?(上月城主)
    ┣季則
   ┗乙若丸   

 

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祇園女御建立・清水寺大塔跡

2009年07月06日 | 平安時代

 平安時代後期を院政時代という。 院とは天皇が譲位後になる法皇とか上皇のことである。 したがって院が大きな力を持ち、権力を握った時代ということになります。 当時、豪族はその地方を治める国司(今の県知事)に任命されると、徴収した税金の一定額を中央に支払うと、残りは自分のものとして着服しても良かった。 これを利用して巨万の富を築いたのが平正盛・忠盛なのです。(因みに若狭、因幡、但馬、丹波国司などを歴任) 院政期にはこうした受領層が政治の中心にのしあがる時代でした。何故政治の中心か、といいますと着服して得た巨万の富を中央に献上することにより、院に近づき官位を頂くという構図です。上流貴族でもなんでもない平正盛が従四位上、平忠盛が正四位上というのは異例のことだったようです。 殿上人とは宮廷の清涼殿へはいる許可がある人で、基本的に五位以上の資格が必要なのですが、平家は財にものをいわせてこの官位を授かったのです。 こうして平家は白川上皇の側近として不動の地位を獲得していきます。当時の左大臣(今の総理大臣)藤原頼長は正忠の巨万の富を日記に記しているらしい。 当時白川上皇には東山・祗園の近くに住む祗園女御という女性を寵愛していました。しかし女御ではありません。女御は中宮の次の天皇のお后の位で、貴族出身でないとなれませんので愛称として呼ばれていたと考えられます。平家物語では祗園女御は、その後平忠盛の妻になったとあります。1105年、祇園社の南東に堂を建立して、丈六阿弥陀仏を安置し金銀珠玉で飾り立てるなど「天下美麗過差」の様は人々の耳目を驚かせたという。身辺には平正盛が早くから仕えていて、藤原璋子(待賢門院)を養女としていた。また、祗園女御には兵衛佐局という妹がいて、姉同様白川上皇と関係があったが、身篭ったまま忠盛に嫁ぎ男子を産むと、その子は祗園女御に養われ後の平清盛となったというのである。 西国三十三ヶ所巡りの二十五番所・播磨清水寺には祇園女御縁の大塔跡があります。 その横には珍しい真っ白な紫陽花が咲いていました。 

 

堀河天皇             
  ┣鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚                 
藤原苡子┃      ┃    佐藤義清(後の西行)も護衛             
     ┃      ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)             
   祇園女御    ┣顕仁親王75崇徳1119-1164         ┣              
    ┣清盛?   ┃    ┣重仁親王1140-1162   源渡            
    ┃      ┃    ┃     乳母:有子           
    ┗━━━┓  ┃    藤原聖子1122~1181藤原忠通娘 皇嘉門院               
藤原基子1049-  ┃  ┣雅仁親王後白河天皇77代1127-1192(藤原通憲(信西)側近)         
 ┣実仁親王    ┃  ┣禧子内親王1122-         
 ┃(白河皇太子) ┃  ┣覚性入道親王1129-1169仁和寺門主         
 ┣輔仁親王    ┃ 藤原璋子(待賢門院)1101-1145公実・娘         
後三条天皇   ┃  ┃  (祇園女御,白川に寵愛)                
 ┣白河上皇72代1053-1129貞仁親王 六条帝                    
藤原茂子

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丹波立杭登窯

2009年07月05日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

丹波立杭登窯 その2

 登窯の中の壺・茶碗までしっかり見せていただきました。偶然煙を見つけた後、近くまで行ってみようと大変な坂道を登って辿りついたのは普通の民家。 丁度家族でなにやら団欒をしているような。 ちょっと声をかけてみたことで、登窯の講義を聞かせていただいただけではなく、火をくべるところも見ることができました。 あと4時間くらいで三日間の工程が終了するという偶然にも驚かされた一日でした。

 

 

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丹波立杭登窯

2009年07月05日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

丹波立杭登窯 その1

 西国二十五番札所・御嶽山清水寺でご本尊・十一面千手観世音菩薩を拝んだ後、見つけたのがこの丹波立杭登窯で、日本六古窯の一つです。 そして山の中腹から煙が見えています。 年に一度の窯焼きなので、 さっそく現地にいってみますと窯焼きの最中でした。 窯焼きは三日間ぶっとおしで行われます。 長さ15mにも及ぶ窯の下部から順に上部に火が入れられ、内部に並べられた何百もの陶器が徐々に焼きあがっていきます。 完成品はピンからキリまで。 500円くらいの手頃なお茶碗から数十万円にもなる花瓶まで、 天のみぞ知る偶然から価値は分かれるそうです。 うまくいけば京都の陶器伝統工芸品展に出品するそうです。

 

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日本丸出航

2009年07月04日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

 

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神戸・生田神社

2009年07月04日 | 平安時代

 1184年元暦元年二月七日、一の谷の合戦の火蓋はこの神戸、三宮神社付近で始まった。源氏方のさきがけとなったのが、この河原神社に祀られる河原兄弟であった。先陣をなした河原兄弟であったが、この地にて討ち死にする事となる。また、平氏方の平知盛(清盛四男)と平重衝(清盛五男)は生田の森に布陣し、正面の敵主力・源範頼相手に一歩も退かない戦いぶりを見せた。 神戸、かつての福原は平清盛が一代で築き上げた拠点である。1180年まで、ここに都があったが京都に移された。宋船も入ることのできるように造られた港は平家の力を示すものであった。都落ちの際、平家は泣く泣く福原にも火を掛けるのだが、今平家はまさに都へ上らんと、軍勢をそろえて、平家の都福原に舞い戻ってきたのだった。山と海にはさまれた福原、一の谷は難攻不落の要害でもある。 まさに、合戦のスポットでもあったのです。 この生田神社付近には、平家の生田方面の本陣があった。生田の森には、大将軍平知盛ら平家方の名だたる武将が布陣していた。 後白河法皇と和議の話などがあり、平家方には少し油断があった。それでも、この一の谷の城郭は山と海にはさまれた難攻不落の要塞であり、平家方には源氏との戦いに備えていた。まさか、義経の鵯越があるとは知らずに・・・。 平家はこの奇襲によって総崩れとなり、海上へと逃れていこうとする。その戦いの中でも、熾烈を極めたのが、戦の浜付近であった。今の須磨浦公園。浜では、平知章が父平知盛の代わりに討ち死にするなど、悲劇が繰リ広げられた。平敦盛の最期は平家物語の中でも最も有名で、涙を誘う話である。(熊谷次郎直実との須磨波打ち際での個人戦は、以前の紹介参照)平家が壇ノ浦で滅亡するのは、この1年後である。 一の谷の合戦で捕虜となって鎌倉に送られた平重衝については、頼朝の随一の白拍子・千寿との悲しい恋物語が涙を誘います。

 

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猛将・加藤清正

2009年07月03日 | 戦国時代

 加藤清正は1562年、尾張の鍛冶屋・加藤清忠の子として生まれる。 幼名は夜叉丸。 父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹であったことから血縁関係にあった秀吉に仕え、1576年に170石を与えられると清正はこれに応えて生涯忠義を尽くし続けた。 1582年に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って明智光秀打倒の山崎の戦いに参加し、1583年の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられたことで一気に武名を轟かせた。 1585年、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下に叙され、1586年からは秀吉の九州征伐に従い、肥後に入った佐々成政が失政により改易される(秀吉により切腹させられる)と肥後の半国のおよそ19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とし、治水以外にも商業政策で優れた手腕を発揮した。 1592年からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵する。 文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置き、別路の先鋒を務め、一番隊の小西行長と釜山上陸後の首都漢城の攻略を競ったという。 漢城攻略後は小西行長(一番隊)、黒田長政(三番隊)と共に北上し臨津江の戦いで朝鮮軍を破る。 その後一番隊、三番隊と別れて、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定すると朝鮮二王子(臨海君・順和君)を生捕りにした。 更には朝鮮の国境豆満江を越えて兀良哈へ進攻するなど数々の武功を挙げている。 1593年の第二次晋州城の戦いでは北面からの攻城を担当し、配下の森本儀太夫、飯田覚兵衛が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。 しかしその後1596年には、石田三成と明との和睦をめぐる意見の対立から秀吉の勘気を受けて一時は京に戻され、 小西行長との対立も深刻化していた。 1597年・慶長の役でも再び小西行長とは別路の先鋒となり、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させ、  全羅道の全州を占領し西生浦倭城‎に駐屯し、 城の東方に浅野幸長や毛利家家臣・宍戸元続が清正支配下の蔚山倭城‎を築城した。 しかし完成間近に明の大軍が攻め寄せてきたために清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城し、毛利秀元や黒田長政の援軍の到着まで城を守り抜いたことで、 清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼上官」と恐れられたという。 1598年秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。 1599年前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら6将と共に石田三成暗殺未遂事件を起こした。 1600年石田三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いでは九州に留まり、黒田如水と共に家康ら東軍に協力して行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを調略、九州の西軍勢力を次々と破り、勲功行賞で、肥後の行長旧領を与えられ52万石の大名となる。 本来武断派として家康につくはずのない清正が結果的には徳川についたのは、文治派の石田三成と肌が合わなかったにすぎない。 1605年従五位上・肥後守に叙され、1610年、徳川氏による尾張・名古屋城の普請に協力し、1611年には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中に発病し、6月24日に熊本で死去した。 清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だったため 1632年改易になった。

 

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西本願寺中興の祖・顕如

2009年07月02日 | 鎌倉・室町時代

 2011年は親鸞聖人の750回忌にあたり、親鸞の御真影が安置されている御影堂が三百数十年ぶりに改修されている。西本願寺の南側には唐門といわれる彫刻の門があり豊臣秀吉が建立した伏見城の遺構といわれる国宝である。 本願寺が東西に分裂したのには理由があり、 ひとことでいうと本願寺が強大になりすぎたがゆえのものである。 1465年には強大な本願寺を怖れた比叡山は打ち壊す挙にでた。寛正の法難である。蓮如は河内、近江、堅田などを転々とめぐって1471年越前の吉崎に坊舎を建てた。  1478年第8世・蓮如によって 山科本願寺が起工され、1480年には御影堂を建立して本願寺を再興すると、勢力は拡大していった。 しかし、山科本願寺が細川晴元により焼き討ちにあい、石山本願寺に移ったことで、ここに広大な寺内町を形勢した。 蓮如の死後、実如、証如、顕如の時代には織田信長によって石山本願寺の明け渡しを要求され、約11年もの間争いは続いたのである。 1580年、 織田信長は朝廷・正親町天皇の斡旋によって本願寺の和議が受け入れられ石山本願寺の敷地は明け渡されることとなった。 しかし、強固に退去を拒んだのが第11世顕如の長男・教如であった。 やがて寺を焼き紀州に落ち延び、顕如も転々とするが、豊臣秀吉と友好を結んだこおで、都市計画の際に七条堀川に寺地を与えられた顕如は西本願寺として寺を興した。 顕如が没した後京に戻った教如が後を継ぐが、最後まで明け渡しの反対をした教如は引退を余儀なくされ弟の准如が第12世を継ぐ。 秀吉に代わって政権を握った徳川家康は隠居の身であった教如に土地を寄進し新たにもう一つの本願寺を作らせた。 それが東本願寺で、結果的には家康の家臣・本多正信の進言により東西に分裂した本願寺は強大な勢力をなくしたこととなる。 顕如が門主だった頃には経済的に窮乏していた朝廷に財政援助をしており、1559年には寺格としての最高位である門跡に列せられ、現在本願寺には当時の貴重な品々が国宝として残っている。

親鸞1173-1263
 ┣範意   
 ┣小黒女房 ┏如信1235-1300(本願寺第2世) 
 ┣善鸞1217-1286
 ┣明信
 ┣有房   小野宮禅念
 ┣高野善尼  ┣唯善1253-1317
 ┣覚信尼1224-1283
恵信尼1182-1268 ┣覚恵1239-1307
        ┣光玉尼 ┣覚如1271-1351(本願寺第3世)
      日野広綱 中原某娘┗善如1333-1389(本願寺第4世) 
                ┗綽如1350-1393(本願寺第5世)
                 ┗功如1376-1440(本願寺第6世)
                  ┗存如1396-1457(本願寺第7世)
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
┗蓮如1415-1499(本願寺第8世:中興の祖) 
  ┣順如1442-1483
  ┃ 
  ┗実如1458-1525(本願寺第9世)
   ┗円如1489-1521
     ┗証如1516-1554(本願寺第10世)
      ┣顕如1543-1592(本願寺第11世) ⇔ 織田信長
   庭田重直娘┣教如1558-1614(東本願寺第12世)
        ┃ ┣尊如 
        ┃ ┣観如 
        ┃ ┗宣如1602-1658(東本願寺第13世)渉成園は隠居所 
        ┃  ┗琢如1625-1671(東本願寺第14世)大谷大学を創設 九条道房養子
        ┃   ┣常如1641-1694(東本願寺第15世)
        ┃   ┃┗真如1682-1744(東本願寺第17世)
        ┃   ┃ ┗乗如1744-1792(東本願寺第19世)
        ┃   ┃  ┗達如1780-1865(東本願寺第20世)
        ┃   ┃   ┗厳如1817-1894(東本願寺第21世)
        ┃   ┃    ┗現如1852-1913(東本願寺第22世)
        ┃   ┃     ┗彰如1875-1943(東本願寺第23世)
        ┃   ┃          ┗闡如1903-1993(東本願寺第24世)
        ┃   ┃           ┗興如1925-1999(東本願寺第25世)
        ┃   ┃            ┗聞如1965- (東本願寺第26世)
        ┃   ┗一如1649-1700(東本願寺第16世)
        ┃    ┗海彗
        ┃     ┗従如1720-1760(東本願寺第18世)
        ┃冷泉為益娘(元誠仁親王妃)
        ┃ ┣准尊1585-1622(室:毛利輝元養女)
        ┣顕尊
        ┣准如1577-1631(西本願寺第12世)
        ┃ ┣良如1613-1662(西本願寺第13世)
        ┃准勝┗寂如1651-1725(西本願寺第14世)
        ┃   ┗住如(西本願寺第15世)
        ┃    ┗湛如(西本願寺第16世)
        ┃     ┗法如1707-1789(西本願寺第17世)
        ┃      ┗文如(西本願寺第18世) 
        ┃       ┗本如1778-1828(西本願寺第19世)
        ┃        ┗広如1798-1871(西本願寺第20世)養子
        ┃         ┗明如1850-1903(西本願寺第21世)
        ┃          ┣九条武子1887-1927
        ┃          ┣大谷尊由
        ┃          ┣鏡如1876-1948(西本願寺第22世)室:籌子
        ┃          ┗浄如
        ┃       ┏籌子 ┣勝如1911-2002(西本願寺第23世)
        ┃       ┣九条紝子┗即如1945-(西本願寺第24世)
        ┃       ┗節子(皇后) ┣専如1977-
     ┏如春尼(三条公頼娘)       範子┣
     ┗三条の方(武田信玄室)       古川流豆美     

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ベンツ

2009年07月01日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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