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東本願寺は元々親鸞の墓

2009年06月30日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 1262年に90歳でこの世を去ったとき、葬儀は娘の覚信尼がとりしきり、遺骨は京都・大谷の地に納められた。 10年後には覚信尼は東山大谷に六角の廟堂を建て、その中に親鸞の墓を移した。 これが現在の本願寺の元となる大谷廟堂のはじまりである。 権威の象徴ではなく覚信尼と東国門徒が協力して建てたものである。 覚信尼は廟堂を守護する役目・留守職に就き、 親鸞の遺族である覚信尼・長男の覚恵、覚如へと継承された。 親鸞が僧侶として初めて妻帯したことで住職の位を世襲で受け継いでいったのである。 しかし、血族である大谷家の内紛などから、覚如は鎌倉幕府に本願寺創設を願いいれたことで、寺院として世に認められるようになり、やがて最高位としての宗主へと発展していった。 大谷廟堂が本願寺となった頃はそれほどの勢力はなかったが、本願寺第八世である蓮如上人の登場により画期的な改革が実行された。 延暦寺からの影響を一掃して本願寺からの重荷も取り去り、動乱の時代の農民や庶民に呼びかけを行ったことで本願寺自身も飛躍的に発展することとなった。

 京都駅のすぐ北に東本願寺はあり、壮大な御影堂門をくぐると世界最大の木造建築である御影堂と南側には阿弥陀堂が並んでいます。御影堂には親鸞聖人の自刻と伝えられている御真影を安置し、阿弥陀堂には本尊の阿弥陀如来像が安置されています。 親鸞聖人御真影には本願寺が東西に分裂して、第12代の教如上人が現在の地に移った(1602年)翌年に、徳川家康の斡旋により群馬の妙安寺から移され御影堂に安置されたという。 御影堂は念仏の根本道場で、東大寺の大仏殿を上回る世界最大の木造建築である。 また、本尊阿弥陀如来立像が安置されている須弥壇の右には聖徳太子、左には法然上人の御影が配されている。(古寺を巡るより)

 

親鸞1173-1263
 ┣範意   
 ┣小黒女房 ┏如信1235-1300(本願寺第2世) 
 ┣善鸞1217-1286
 ┣明信
 ┣有房   小野宮禅念
 ┣高野善尼  ┣唯善1253-1317
 ┣覚信尼1224-1283
恵信尼1182-1268 ┣覚恵1239-1307
        ┣光玉尼 ┣覚如1271-1351(本願寺第3世) 
      日野広綱 中原某娘┗善如1333-1389(本願寺第4世) 
                ┗綽如1350-1393(本願寺第5世)
                 ┗功如1376-1440(本願寺第6世)
                  ┗存如1396-1457(本願寺第7世)
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
┗蓮如1415-1499(本願寺第8世:中興の祖) 
  ┣順如1442-1483
  ┃ 
  ┗実如1458-1525(本願寺第9世)
   ┗円如1489-1521
     ┗証如1516-1554(本願寺第10世)
      ┣顕如1543-1592(本願寺第11世) ⇔ 織田信長
   庭田重直娘┣教如1558-1614(東本願寺第12世)
        ┃ ┣尊如 
        ┃ ┣観如 
        ┃ ┗宣如1602-1658(東本願寺第13世)渉成園は隠居所 
        ┃  ┗琢如1625-1671(東本願寺第14世)大谷大学を創設 九条道房養子
        ┃   ┣常如1641-1694(東本願寺第15世)
        ┃   ┃┗真如1682-1744(東本願寺第17世)
        ┃   ┃ ┗乗如1744-1792(東本願寺第19世)
        ┃   ┃  ┗達如1780-1865(東本願寺第20世)
        ┃   ┃   ┗厳如1817-1894(東本願寺第21世)
        ┃   ┃    ┗現如1852-1913(東本願寺第22世)
        ┃   ┃     ┗彰如1875-1943(東本願寺第23世)
        ┃   ┃          ┗闡如1903-1993(東本願寺第24世)
        ┃   ┃           ┗興如1925-1999(東本願寺第25世)
        ┃   ┃            ┗聞如1965- (東本願寺第26世)
        ┃   ┗一如1649-1700(東本願寺第16世)
        ┃    ┗海彗
        ┃     ┗従如1720-1760(東本願寺第18世)
        ┣顕尊
        ┣准如1577-1631(西本願寺第12世)
     ┏如春尼(三条公頼娘) 
     ┗三条の方(武田信玄室)

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2009年06月29日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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2009年06月28日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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真如堂起源の法然・親鸞

2009年06月28日 | 鎌倉・室町時代

 少し東には哲学の道があり、南には金戒光明寺がある。 比叡山の黒谷に篭っていた法然上人が草庵を結んだことから「黒谷さん」と親しまれているところである。 北には吉田山という聖なる領域がある。 真如堂の境内は丘の上にあり、丘は神楽岡とも呼ばれ、よろずの神々が神楽を舞われたという聖地である。 山門を抜けて真如堂の境内に入ると寺の東には白川が流れ、比叡山、大文字如意ヶ岳、鹿ヶ谷、清水谷、伏見稲荷山とつづく東山三十六峰が連なっている。 本堂の南側からは皇室、将軍、武将などの墓碑が並んでいて、藤原家、冷泉家、油小路家などの墓も多くある。 また、衆生救済の菩薩を祀る千体地蔵堂や三重塔も聳えている。 本堂に祀られる本尊は阿弥陀如来である。 うなずき阿弥陀として名高い立像で、もともと比叡山の常行三昧堂の本尊であった。 慈覚大師円仁は天台宗をおこした伝教大師・最澄の弟子であった。834年に円仁は仁明天皇の命で遣唐使に同行し、五台山にのぼったときに生身の文殊菩薩に出会い、浄土念仏の教えを授かったという。 帰国後、自刻の阿弥陀立像に 比叡山をおりて都にいき一切の衆生を、ことに女人をお救いください というとうなずかれたという。うなずき弥陀の所以である。 984年、比叡山で修行をする戒算上人は、 洛中にでてあらゆる衆生を救いたいから山からおろしてほしい という夢を見たために、阿弥陀像を背負って山をおり、お告げに従って神楽岡あたりの真正極楽の聖地へ行ったという。 

 当時、神楽の地は円融天皇の女御であり、藤原道長の姉にあたる藤原詮子の離宮であった。後の東三条院である。 この離宮に阿弥陀を安置することが許され、祀られたのである。 戒算上人は阿弥陀を安置するための真如堂創建にとりかかり、2年後に完成する。円仁から100年以上たった頃、円仁が開いた延暦寺の横川の堂宇にこもり、念仏による極楽往生の方法を書き記したのが恵心僧都源信である。 往生要集には浄土の原点が記され、法然、親鸞へとつながっていく。 法然の頃の延暦寺は権力の象徴であり、法然が若くしてこもった黒谷別所は延暦寺の傍流であり、ここで浄土教にであった。 比叡山をおりると真如堂にこもって阿弥陀仏に祈願し、真如堂のすぐ近くに庵をつくり、浄土宗を開いたのである。 この庵が金戒光明寺である。 この界隈が黒谷さんと呼ばれるのは、こういった由縁による。

 延暦寺の宗門を捨て、法然に師事したのが親鸞であった。 さらに親鸞の教えを受け継いで浄土真宗を広めたのが蓮如である。 法然の教えは帰依する相手に一切をゆだね易行念仏を唱えるものである。 難行苦行の逆で、ただひたすら仏を信じて念仏を唱えるので、広まったのである。 比叡山延暦寺に代表される権威主義が強い仏教界から見れば革命的であり、朝廷は専修念仏に反対する奈良の南都六宗や比叡山の意見を聞き入れ法然一門を弾圧し、法然は高知の土佐、親鸞は越後に流罪に処せられた。 流罪の4年後の1211年、親鸞は赦免され東国を中心に専修念仏を伝える20年間の旅で、門徒は皆同朋として平等でなければならないと繰り返し説き、門徒の数は数万人に及ぶと云われる。 親鸞の教えに帰依する門徒たちは御同朋と呼ばれるようになり、本願寺の境内には同朋会館があり、この精神を継承している。 

 1262年に90歳でこの世を去ったとき、葬儀は娘の覚信尼がとりしきり、遺骨は京都・大谷の地に納められた。 10年後には覚信尼は東山大谷に六角の廟堂を建て、その中に親鸞の墓を移した。 これが現在の本願寺の元となる大谷廟堂のはじまりである。 権威の象徴ではなく覚信尼と東国門徒が協力して建てたものである。 覚信尼は廟堂を守護する役目・留守職に就き、 親鸞の遺族である覚信尼・長男の覚恵、覚如へと継承された。 親鸞が僧侶として初めて妻帯したことで住職の位を世襲で受け継いでいったのである。 しかし、血族である大谷家の内紛などから、覚如は鎌倉幕府に本願寺創設を願いいれたことで、寺院として世に認められるようになり、やがて最高位としての宗主へと発展していった。 大谷廟堂が本願寺となった頃はそれほどの勢力はなかったが、本願寺第八世である蓮如上人の登場により画期的な改革が実行された。 延暦寺からの影響を一掃して本願寺からの重荷も取り去り、動乱の時代の農民や庶民に呼びかけを行ったことで本願寺自身も飛躍的に発展することとなった。

 

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永観堂・みかえり阿弥陀

2009年06月27日 | 奈良・飛鳥時代

 紅葉で知られる永観堂は禅林寺という正式名称を持っている。 この寺の創建は極めて古く、南禅寺が禅寺・永観堂の南に位置したから命名されたくらいである。 禅の名がついているが、禅寺ではなく最初は真言宗、後に浄土宗の寺となった。 永観というのは、かつてこの寺の住持だった僧の名前であるが開祖ではない。 永観堂の開山は空海の高弟・真紹僧都(797-873)で、清和天皇から863年に禅林という寺名を与えられこのときに開いた道場が永観堂の起源となったという。 真紹僧都から第7代の住持として永観がこの寺にきた。 学問に励む永観は浄土教の影響を受けて念仏信仰の道に入り、平等院鳳凰堂を建てた藤原頼通などの知遇を受けたが、光明山に隠棲生活を送り始めた。 1072年に再び禅林寺にもどった永観は一生をこの地で過ごした。 勧進や地域開発を行った行基のように、永観も衆生救済のために奔走し京都の人々から親しまれたという。

 当時の念仏者たちは恵心僧都・源信の往生要集が説く観想念仏をさらに進めて称名念仏を説き、当時の人々に受け入れられた。 この教えはその後に登場する法然に受け継がれた。 真言宗だった永観堂が浄土宗に変わったのは第12代の住持・静遍僧都(1166-1224)の頃という。 静遍僧都は平頼盛の子であり、池禅尼の孫に当たる。 つまり源頼朝が平家を滅亡させた後も頼盛一族だけは池禅尼から受けた庇護を恩に思い保護さえ行った。 そして静遍僧都は真言密教の僧として 名声を得るようになる。 静遍僧都は笠置の貞慶僧都を師と仰ぎ、論敵の法然を論破しようと貞慶の意思を受け継いだ。 しかし法然の念仏集を読むうちに自分の間違いに気づき、法然の信仰に傾倒していくのである。 この静遍僧都の後を継いだのが善恵坊証空である。 証空は法然の高弟のひとりで念仏は徹底していた浄土宗西山派の開基という。 そして応仁の乱の頃には永観堂は真言・浄土の寺ではなく阿弥陀仏を本尊とする浄土宗西山派の寺にかわっていった。 本尊の阿弥陀如来は「みかえり阿弥陀」として知られており、永観が修行中に合掌をして祈ると阿弥陀は振り返ったことから、その姿をとどめてつくられたという。念仏を唱えて阿弥陀来迎を待ち望むというのは当時の人々には普通のことであり、熱心な浄土教の信者であった藤原道長も臨終の際には阿弥陀如来像から五色のひもを引き、そのひもの先を握り締めて息をひきとったという。

 

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2009年06月26日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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三室戸寺・紫陽花

2009年06月26日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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宝勝牛

2009年06月25日 | 国内旅行散策

 昔、観音詣をしていた富右衛門というお百姓が飼っていた牛がとても弱々しい牛でしたが、観音様のご利益で立派な牛になり、地域一番といわれた権兵衛の牛に勝ち、その後、牛の仲買人として成功したという故事があります。 この故事にあやかり、この宝勝牛がくわれている牛玉の観音様に触れながら願い事をすると、勝運・金運がつくといわれています。

 

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柳生一族と剣聖・上泉秀綱の墓

2009年06月25日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 柳生の里は徳川家の兵法指南役を代々務めた柳生家及び柳生新陰流の発祥の地です。 墓所の中には歴代の柳生家の墓があり、墓所奥の南東には剣聖・上泉伊勢守秀綱1508-1577の菩提塔・柳眼塔があります。 上泉秀綱(後に信綱)は、新陰流の開祖で石舟斎の師匠でもあり、秀綱から免許皆伝をもらい、柳生新陰流を開きました。

 上泉秀綱は赤城山南麓にある大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏が起源とされ、一族が大胡城の西南上泉の地に砦を築いたことから上泉氏と称した。 通称は伊勢守、本姓は藤原氏である。 上泉城主であるとともに、兵法家として陰流、新当流、念流などの諸流派を学び 新陰流を大成した。 信綱は戦国武将としても名を残し、長野業正、長野業盛親子に仕え、武田信玄、北条氏康の大軍を相手に奮戦し、長野の16人の槍と称えられたという。 長野家滅亡時には、武田信玄の仕官要請を断ったものの信玄の信を貰い受けて信綱と改めたという。 1564年の上洛時には、13代将軍足利義輝に兵法を伝授したほか、1565年に柳生宗厳に相伝を伝授し、北畠具教などの多くの高弟に新陰流を伝えた。 嫡男・秀胤、その子・泰綱の子孫は米沢藩士として存続した。

   

   

  

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奈良二上山・鹿谷寺跡

2009年06月24日 | 奈良・飛鳥時代

 聖なる二上山を登頂したあと、通称竹内街道・国道166号線(推古天皇の時代に造られた官道第一号) への帰り道は鹿谷寺経由のコースをとった。 まさに奈良時代には石棺や石塔に使われた凝灰岩の産地という雰囲気いっぱいの岩肌下山である。 二上山の雄姿、雄岳(517m)と雌岳(474m)を後に 30分ほど降りると 「史蹟 鹿谷寺跡」に到着し、巨大な多層塔があった。 わが国最古の十三重石塔(8世紀・5.45m)だそうだ。 そこは寺院建設のため、尾根を切り出して造った造成地で、十三重石塔は、凝灰岩性の地山を堀り残して造ったもので、塔自体が地面と地続きになっているという。 木造では三重塔・五重塔がほとんどであるが、石造では三・五・七・九・十三重塔と各種あり、層数は奇数が原則である。 飛鳥時代に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒す計画を練った所として有名な多武峯・談山神社にある木造十三重塔は1532年の再建で、世界唯一のものとしてしられており、十三には特殊な意味合いがありそうであるが、今はよくわからない。

  

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女人高野・室生寺

2009年06月23日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 室生寺は奈良県宇陀郡の山中にあり、伽藍が山肌に張り付くように散在する。本堂を過ぎると日本一小さい五重塔が眼に入ってくる。高さは僅かに16mで、東寺の五重塔が五十数メートルあるからかなり小さく、周囲には杉の巨木が聳えているので余計に小さく感じる。 女人高野を象徴する建物である。 高野とは816年に空海が建立した総本山金剛峰寺で代表される高野山のことであるが、この真言宗の聖地で多くの僧侶が修行を積んだ。 ところが不浄のものとして扱われてきた女性は入山を許されず、高野山は明治の初めまで女人禁制が守られてきたのである。 そんな時代に悩み多き女性を受け入れた真言宗寺院が室生寺である。 室生川にかかった橋を渡ると女人高野室生寺と刻まれた石柱を見て俗世を離れ、結界を越えて聖なる地へと足を踏み入れるのである。 女人高野と称されるようになった経緯は定かではなく寺伝によれば鎌倉時代以降であるという。元禄年間には桂昌院という徳川五代将軍・綱吉の母の寄進により堂塔の復興などが行われ、これがきっかけで女性に門戸を開いたという説もあるらしい。  室生寺は681年に天武天皇の願いで役行者小角が創建し、のちに空海によって真言宗の道場の一つになったという。 それから100年後にこの霊山で、五人の僧侶が山部親王の病気平癒を祈願した。室生寺草創のきっかけである。 

 

 仁王門をくぐり鎧坂を登ると、正面には金堂があり釈迦如来像を中心に薬師如来、地蔵菩薩、文殊菩薩、十一面観音像が安置されている。 弥勒堂、五重塔を過ぎると奥の院へは約400段の石段が延びていて、鎧坂からは合計700段の石段となる。

 無明橋を渡り杉木立の中、石段は続き奥の院にたどり着くと御影堂の弘法大師像がある。 実は室生寺は創建以来1300年間、兵火に会わなかったという。 興福寺や延暦寺のような僧兵がたむろするような強い寺ではなく、室生の村人によって支えられひっそりと佇んでいたためだという。

 

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柳生一族墓所・芳徳禅寺

2009年06月22日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 芳徳禅寺は 柳生但馬守宗矩が亡き父・石舟斎宗厳の供養のために創建したもので開山は沢庵和尚。宗矩のの死後まもなく、将軍・家光の内意によって二百石を寺領として付与され、当時11歳の列堂和尚義仙が 当寺の第一世となった。 列堂時代の堂宇は1711年に焼失したが、飛騨守・宗冬が父・宗矩の七回忌のために作らせた宗矩像と沢庵和尚像は厄を免れ、現在も本堂釈迦如来左右の壇に安置されている。 廃藩後は寺は荒れ、廃寺の危機にさらされたが、1911年、尾州 柳生の末裔にあたる基夫氏は亡き父の遺志によって本堂を修復し、寺運回復に至ったという。 芳徳禅寺は奈良駅から369号線で東へ進んだ柳生の里にあります。 このロマンあふれる山里には柳生藩家老屋敷、陣屋跡、十兵衛杉などをはじめ、柳生新陰流を学んだとされる正木坂道場などもあります。 そして柳生一族の墓所があるのが芳徳禅寺の境内です。 墓所の入り口には歴代の住職の塔所があり、さらに奥にはいったところには柳生一族のお墓が所狭しと並んでおりました。 ほぼ中央には柳生三代の墓 (柳生宗冬 柳生宗矩 柳生三厳)があり、これを取り囲むように代々の柳生藩主のお墓が並んでいます。 その数は約70墓所くらいでしょうか。 部分的に系図を作ってみましたが、そのうち全墓所の系図を作ってみたいと思います。 かの有名な柳生列堂の墓所がみあたらず、不思議におもっておりましたが、列堂は第一世住持となっており、一族の墓所ではなく、寺の住職の塔所にあったのかもしれません。  実はこの柳生の里までの途中に後醍醐天皇の宮があった笠置へ抜ける33号線が続いており、是非ともいってみたかったのですが、時間の都合で次回に行きたいと思います。

  

柳生三代の墓 (柳生宗冬 柳生宗矩 柳生三厳)

  

柳生新陰流祖 (柳生家厳 柳生宗厳 柳生厳勝)

  

柳生家厳1497-1585(菅原氏支流、赤松氏同族)
 ┗柳生宗厳1527-1606(石舟斎)柳生新陰流(上泉信綱)後継者
  ┣柳生厳勝
  ┃ ┗柳生利厳1579-1650(兵庫助)尾張柳生家初代 加藤清正,徳川義直に仕える 
  ┃   ┣柳生利方 家督を継ぐ 
  ┃   ┗柳生厳包1625-1694 尾張柳生流派2代 徳川義直に仕える 
  ┣柳生宗章1566-1603 小早川秀秋に近侍
  ┗柳生宗矩1571-1646大和柳生藩初代 但馬守 家康に仕える
    ┣柳生三厳1607-1650(十兵衛)第2代 徳川家光剣術指南役
    ┃ ┣跡部良隆室
    ┃ ┣渡辺保室 
    ┃秋篠和泉守娘 
    ┣柳生友矩1612-1639(母側室)徳川家光に寵愛される
    ┃ ┗不明
    ┣柳生宗冬1613-1675徳川家綱の兵法師範 柳生藩3代
    ┃ ┣柳生宗春1649-1675第4代(室:九鬼久隆娘) 
    ┃ ┃┣柳生俊方1673-1730第5代
    ┃ ┃┃┗養子:柳生矩実,俊平(松平定重11男)1699-1768第6代(室:稲葉恒通娘)
    ┃ ┃┗九鬼副隆     ┗柳生俊峯(養子)1719-1763第7代(室:牧野康重娘)
    ┃ ┣柳生宗在1654-1689第4代┣娘(池田政朗室) 
    ┃ ┃┣九鬼隆久      ┗娘 
    ┃ ┃五条為庸娘       ┣柳生俊永,俊睦(廃嫡) 
    ┃ ┃          柳生俊則(養子)1730-1816第8代 家斉剣術指南  
    ┃ ┣小出尹重室       ┗俊豊(養子)1790-1820第9代
    ┃ ┣朽木則綱室        ┣俊章1809-1862第10代(室:田沼意正娘)
    ┃ ┣曽我近祐室      堀直方娘┗俊能(養子)1830-1850(田沼意正次男)第11代
    ┃京極高通娘             ┗┏俊順(養子)1836-1862第12代
    ┃                   ┃ ┣三条公恭室
    ┃                   ┃木下俊敦娘
    ┣柳生義仙1635-1702(列堂)大和 芳徳寺住持┗俊益(俊順弟)1851-1927第13代
   おりん・松下之綱娘             ┣娘(柳生俊久室)
                         富子,多鶴子(四辻公績娘)

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神戸の夜

2009年06月21日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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坂上田村麻呂の墓

2009年06月21日 | 陵 古墳 墓 遺跡

嵯峨天皇即位の頃

  808年、賀美能親王に仕える春宮亮の冬嗣が侍従という平城の側近に近侍する役目がまわってきた。 これは平城と真夏の間で決定がなされ、真夏も観察使に昇進である。 閣議に列席するするのだから36歳の真夏は閣僚入りを果たしたことになる。 同じ年の緒嗣は昨年観察使に任ぜられていたからついに緒嗣に追いついたのである。 一方侍従・冬嗣は初出仕し、平城天皇不調を目の当たりにするのである。 伊予親王と母を死に追いやった平城は、父・桓武が弟の早良を死なせたのと同じ道を歩んでいた。 怨霊に取り憑かれた平城は、その年皇位を投げ出し賀美能親王が即位し、嵯峨天皇が誕生する。 冬嗣は右衛士督に、三守も内蔵助になり、冬嗣の義弟・良峯安世も従五位下に叙せられた。 平城太上天皇の病状はあいかわらずであるが、まだ天皇と同格の権限を持っており、薬子が尚侍として実権を握っている。 平城の体調が回復に向かうと、東宮を嫌い、住まいを変え奈良の都にもどりたいといい始めた。 こうして藤原仲成の手際よい準備もあって、平城は奈良に、嵯峨は平安京にという二重統治が行われようとしていた。 このときから今度は嵯峨天皇が体調を崩すと翌年は朝賀の儀も行われずじまいとなる。 奈良へ移った平城太上帝は日増しに体調を回復させると、薬子の勢いも増し、服毒死した伊予や吉子の祟りが平城から嵯峨天皇へ乗移ったかのようである。  嵯峨天皇の病める心はいよいよ暗く沈み、逆に奈良にもどった平城太上帝は元気になり、尚侍・薬子は権勢を振るい始めたのである。 側近の葛野麻呂や冬嗣の兄・真夏も奈良行きの中に加わっている。 嵯峨側にとってはやりにくいこと夥しく、薬子の術中にはまった感がある。 そして嵯峨がとった観察使の制度を廃し、もとの参議に戻すと、薬子の兄仲成とともに真夏は37歳にして参議となり、野望であった閣僚の仲間入りを果たした。 薬子の自殺  嵯峨側も尚侍・薬子に対抗して三守とともに思案を巡らし、典侍・小野石子を置き、東宮時代の嵯峨に春宮大夫として仕えていた巨勢野足を蔵人頭として冬嗣とともに典侍を支えようというのである。 しかし参議の多くは奈良の平城の許におり、嵯峨は弱気になり、奈良への遷都も承諾しかねない様子である。 冬嗣はこの危機を乗り越えようと、右大臣である父・内麻呂に申し出た。 奈良遷都が太上帝の意思であれば従うよりほかはなく、ついては奈良の整備のために手伝おうというのである。 つまり殴りこみである。 意を察した内麻呂は、征夷大将軍として聞こえ高い大納言・坂上田村麻呂を同道させようというのである。 坂上田村麻呂が動くということは紛れもなく軍事行動を意味する。 これに賛同したのは桓武に愛され異例の出世をしたために平城に憎まれていた藤原緒嗣である。 嵯峨側は厳戒令を敷いていた。 嵯峨の屈服という誘いに釣られて平安京に出向いていた仲成が、このことに気付いたときには時すでに遅く、平城側は坂上田村麻呂を大将とした軍師に取り囲まれていたのである。 平城側は田村麻呂と護衛兵の姿をみたとたんに戦意を喪失して、平城は剃髪し薬子は毒を仰いで自殺し、そして仲成は左遷に抵抗したため平安京で射殺されたのである。 冬嗣の兄・真夏は参議になったのも束の間で参議を解任された。 平城太上帝は平安京への帰還を断り、奈良の地にとどまる意思をみせたのである。 詔では、平城をかばうかのように薬子と仲成ふたりだけを悪者にしたが、それでも平城は薬子を愛していた。 妖婦とののしられようが二人の愛は本物であったようで、嵯峨が差し伸べた好意を平城が受け入れることはなかった。 そして冬嗣の兄・真夏も平安京にて才能を発揮しないかという弟の誘いを退けて、奈良で平城とともにする道を選んだのである。 桓武に半ば見捨てられ、愛に飢えて薬子に走ったさびしい平城の気持ちを真夏は理解していたからである。 真夏は安殿に仕え自分の運命を賭けたのである。 そして敗れた今は心静かについていくだけであった。 冬嗣が愛と敬意をこめて奈良へ見送った真夏が平安京をおとづれることは決してなかったという。 平城太上帝の後の半世では妃を退出させ、薬子の鎮魂に精を出し、また嵯峨天皇に気遣われながら平穏に過ごしたといいます。 そして824年に51歳の生涯を終えました。

嵯峨天皇との日々

 平城太上帝と嵯峨天皇の両統治は終焉を向かえ、平城は奈良で余生をおくることになった。 本来であれば、冬嗣の兄・真夏を含めて平城側の側近達は死罪を免れないところであるが、嵯峨天皇はそれを望まなかった。 桓武以来怨霊に怯える帝の姿を目の当たりにしてきた嵯峨にとって怨霊が怖いと素直に口にし、このときから死刑は行われなくなった。 結局保元の乱までの350年間死刑は停止され、王者としては失格ともいえる新しい時代が拓かれたのである。 薬子の事件が決着した2年後の812年に冬嗣の父・内麻呂がなくなり、その後平城と嵯峨の間は長く平和が保たれた。 嵯峨は現実の政治には介入せず、象徴としての存在の道を歩み始めた。 そして、嵯峨には生まれ持った文雅趣味の才覚があり、それを本業とした。 同じく文雅の趣味のあった良峯安世がよき側近として愛された。  嵯峨には皇太子時代の妃・高津内親王との間に業良親王がいたが、即位とともに夫人となった橘嘉智子に正良(後の仁明天皇)、正子(淳和天皇の后)が誕生したのは810年、薬子が死んだ年である。 翌年、坂上田村麻呂が死に、母を田村麻呂の妹に持つ高津内親王は大きな後ろ盾をなくした。 その翌年、冬嗣の父・内麻呂(田村麻呂の妹・登子を妻とし後半世を暮らす)が亡くなり、冬嗣は 高津内親王に圧力をかけるようになると高津内親王が妃の座を退いたのはこのときである。 これにより嘉智子の心配の種はとれることになる。 814年、嵯峨は冬嗣を従三位に昇進させ、妻・美都子も従五位下に叙した。 平城太上帝に仕える真夏は正四位下であるから、とうとう兄を追い抜いたことになる。 冬嗣は819年、平城により謀反の罪で陥れられた伊予と吉子に親王、夫人の称号を与え、これにより怨念の世紀は終焉を迎えた。 このときには薬子の夫だった藤原縄主、平城の側近だった葛野麻呂、藤原三守の妻・典侍・安万子も他界している。 嵯峨は風雅の道を進みたいとの理由で皇太子・大伴親王に譲位し、後に冷然院から嵯峨の離宮に移っている。 大伴親王が淳和天皇として即位すると嵯峨と皇后・嘉智子の間に生まれた正良が皇太子となった。後の仁明天皇であり、女御となったのは冬嗣と美都子の間に生まれた順子であり道康(後の文徳天皇)を産んでいる。 また冬嗣の子、良房が妻に迎えたのは嵯峨の皇女で臣籍に下った源潔姫である。 こうして冬嗣は天皇家と解け合い、左大臣まで登りつめ、政権を握り続けた。 このとき緒嗣は右大臣になっている。 嵯峨が譲位してまもなく、薬子の変の15年後に奈良の平城はこの世を去り、そしてとうとう嵯峨天皇とともに政権を握り続けた藤原冬嗣もこの世を去った。 このとき奈良朝から桓武、平城と続いた怨念と殺戮の時代は完全に終止符がうたれ、穏やかな世がうまれつつあったのである。

  

蘇我娼子娘  
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737 
  ┃   ┣ 豊成  704-765  
  ┃   ┣ 乙麻呂
  ┃   ┃   ┗是公(これきみ)
  ┃  ┃     ┣ 吉子   軽皇子(42代文武天皇) 701-756    縄主
  ┃  ┃     ┣ 真友   ┃ 多治比真宗769-813       ┣娘
  ┃  ┃     ┗ 雄友    ┃    ┣ 葛原親王786-━高望王 薬子┃
  ┃  ┣ 仲麻呂706-764  ┃      ┃是公娘・吉子-807     ┃┃
  ┃   ┃         ┣   ┃    ┃┣ 伊予親王 -807    ┃┃帯子(百川娘)
  ┃  ┣ 巨勢麻呂 房前娘 ┃    ┃┃乙牟漏皇后 760-790   ┃┃┃伊勢継子
  ┃ 貞姫                ┃    ┃┃┣ 高志内親王789-809 ┃┃┃┣高岳親王
  ┣ 房前  (北家)681-737┃     ┃┃┣ 安殿親王 774-824 ( 51平城天皇 )
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃和新笠┃┃┣ 賀美能親王786-842(52嵯峨天皇)┣阿保   
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃ -789 ┃┃┃桓武 ┣業良親王    ┣正子   藤子
  ┃  ┃  ┏又子-790  ┃ ┃   ┃┃┃┣高津内親王  橘清友┣54仁明810-850
  ┃  ┃  ┣坂上田村麻呂┃ ┃   ┃┃┃坂上又子-790   ┣橘嘉智子┣55文徳帝 
  ┃  ┃  ┗登子  ┗広野┃ ┃   ┃┃┃               ┗橘安万子順子 ┗56清和 
  ┃  ┃    ┣長岡    ┃ ┃   ┃┃┃          藤原真作┃        ┣貞数
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂-812┃ ┃   ┃┃┃種継           ┣三守         ┣女
  ┃  ┃    ┣ 真夏774┃ ┃   ┃┃┃ ┗藤原東子-807┗美都子     ┏文子
  ┃  ┗ 鳥養  ┣ 冬嗣775┃ ┃   ┃┃┃  ┣ 甘南備内親王800-817  ┣在原行平
  ┃          永継 ┣長良┃ ┣ 山部王 ( 50代桓武天皇 ) 737-806    ┣在原業平
  ┃             ┣良房┃ ┃     ┃┣良峯安世785-830    ┣ 伊都内親王801-
  ┃             ┗順子┃ ┃     ┃永継 ┗良峯宗貞815- 平子(乙叡娘)
  ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737┃ ┃百川 ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃ ┃ ┣旅子759-788
  ┃   ┃         ┃ ┃諸姉-786  
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃ ┣ 早良親王750-785(崇道天皇 大伴家持派)
  ┃   ┃  ┃         ┃ ┣ 能登内親王733-781
  ┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃白壁王709-781(49代光仁天皇)  
  ┃   ┃ 阿部古美奈-784  ┃       ┣ 他部親王761-775
  ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮)
  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┣朝原内親王779-817(斎宮)
  ┃  ┃  ┣ 旅子-788    ┃ ┃     ┃ 桓武天皇  ┣
  ┃  ┃  ┗ 帯子-794    ┃ ┣ 井上内親王717-775  平城天皇
  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王
  ┃長岡造 ┗ 種継737-785 ┃ ┃     ┣ 氷上川継782の謀反 
  ┃          ┗ 薬子 -810┃ ┃    塩焼王    大伴家持 
  ┃五百重(天武夫人)     ┃ ┣ 安積親王728-744
  ┃┃ 賀茂比売         ┣首皇子(45聖武天皇)701-756
  ┃┃  ┣ 藤原宮子   ━━┛
藤原不比等 659-720

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NGK

2009年06月20日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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