平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

後楽園にて

2009年08月31日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

コメント

二尊院の三条西実隆墓所

2009年08月31日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 室町時代の公家・歌人・古典学者を多く輩出した三条西家は藤原北家閑院流正親町三条家の分家で大臣家の家格を有する公家であった。 本家の正親町三条家を凌ぎ、室町時代には多くの右大臣をだし、精華家と同格とみなされた。分家に押小路家・武者小路家・高松家がある。  応仁・文明の乱の激動期に生涯を送り、足利将軍家、細川、畠山などの有力な守護大名などの勢力争いにさらされながら生きた。 後土御門・後柏原天皇の信任も厚く、足利将軍家との関係もよく、公武両面と親交を深めたが、政治への介入は慎み、文化面へエネルギーを注いだ。 実隆の三条西家は藤原北家の末裔である。  師輔の子で閑院流の祖となった公季の5代孫の実行が三条家を興し、その曾孫の公氏が正親町三条家を興し、その6代孫の公時に始まるのが三条西家である。 公時の邸が三条朱雀の西北にあったことから家名が決まった。 兄の実連が若死にし、父・公保もその2年後になくなったことから実隆は6歳で家督を継ぎ、応仁の乱の時期には三条西家の当主としてことにあたった。 実隆の妻は勧修寺教秀の娘で、姉の勧修寺房子は後土御門天皇に入内し、妹の勧修寺藤子は後土御門天皇の皇子・勝仁親王(後の後柏原天皇)に入内し、後奈良天皇を産んでいる。 実隆の活動期は後土御門、後柏原天皇の治世であり、姉妹の婚姻により厚遇を受けたのは間違いない。

 正親町三条家の東隣、武者小路今出川に邸宅があった実隆の経済基盤は山城を中心に畿内及び周辺の国に散在する荘園などからの年貢及び、和歌・連歌の添削、古典の書写などによる謝礼であった。 荘園の年貢については戦乱の時代であり不安定であったが、古典の書写については安定しており、文化人としての面目も保てた。能書家の実隆のもとには皇室や大名かた書写の依頼が多くあり、31歳の時に完成した源氏物語の全巻書写は注目された。数年後に一条兼良に頼んで源氏物語に題名を書いてもらい櫃を新調して納めている。 しかし内大臣になった年に経済的な理由から甲斐国の大名に売却している。 また、その後にもう一度源氏物語の全巻書写をしたが、再度 能登の守護大名の畠山義総に売却している。 書写については、これ以外に古今集、史記なども行っているが、後に生活の為にやっていると、心情を述べている。

  

公時1339-1383
 ┗実清(権大納言) 
   ┗三条西公保1398-1460(正親町三条家から入って家督を継ぐ)
     ┣三条西実連1442-1458
     ┣三条西実隆1455-1537
    ┏娘        ┃ 
兼長   ┣甘露寺親長    ┣三条西公条1487-1563(歌人,古典学者)
 ┣甘露寺房長-1432      ┃ ┣三条西実枝1511-1579(細川幽斎は高弟)
 ┣甘露寺清長(興福寺別当)  ┃ ┣大久保忠員室
 ┣甘露寺経子(後小松天皇典侍┃甘露寺元長娘
日野時光娘          ┣三条西保子
                ┣正親町実胤室
                      ┏━━┛
 勧修寺教秀(1426-1496)┃
           ┣娘
          ┣勧修寺藤子1464-1535(豊楽門院)━━┓
          ┗勧修寺房子                ┃
            ┣応善女王1476-1497        ┣覚鎮女王
            ┣仁尊法親王1482-1515          ┣後奈良天皇1497-1557
            ┣今若宮                ┣清彦親王
           後土御門天皇1442-1500           ┃
             ┣後柏原天皇1464-1526      ━━┛
             ┣尊敦親王1472-1504
           庭田朝子(蒼玉門院)

コメント

二尊院の奥にある二条家墓地

2009年08月30日 | 陵 古墳 墓 遺跡

二尊院の奥にある二条家墓地

 

 

 

徳川家重1712-1761(9代将軍)     
 ┣徳川家治1737-1786(8代将軍)       
至心院┣千代姫    ┣-
   ┣万寿姫   倫子女王(1738-1771)閑院宮直仁親王の第6皇女 
   ┣家基1762-1779 
   ┃徳川家康    
   ┃┗宗尹(一橋徳川家初代当主)           
   ┃  ┃┏斉隆1777-1795福岡黒田氏藩主   
   ┃  ┃┣斉敦1780-1816一橋徳川家3代当主   
   ┃  ┃┃   ┣-
   ┃  ┃┃ ┏保子 
   ┃  ┃┃二条治孝1754-1826(左大臣)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣二条斉通1781-1798(母:嘉姫)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣九条輔嗣1784-1807(養子 父:九条輔家)   
   ┃  ┃┃ ┃ ┣九条尚忠1798-1871(関白左大臣)  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┣九条道孝1839-1906(左大臣 最後の藤氏長者) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┗節子(大正天皇皇后 貞明皇后)  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┣九条夙子1833-1897(孝明天皇女御 英照皇太后) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┗二条基弘1859-1928  
   ┃  ┃┃ ┃樋口基康娘   
   ┃  ┃┃ ┣西園寺寛季1787-1856(母:徳川宗翰娘)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣二条斉信1788-1847(母:徳川宗翰娘)    
   ┃  ┃┃ ┃ ┣二条斉敬1816-1878  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┗二条基弘1859-1928(養子) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃   ┗二条厚基1883-1927 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃    ┗二条弼基1911-1965(養子) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┗広子(有栖川宮幟仁親王妃)  
   ┃  ┃┃ ┣九条尚忠1798-1871(関白左大臣)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┗隆子(常蓮院)   
   ┃  ┃┃   ┃ 
   ┃  ┃┃   ┣斉朝1793-1850(正室:家斉娘 淑姫)    
   ┃  ┃┣治国1776-1793(母:お富)   
   ┃  ┗治済┓1751-1827(一橋徳川家2代当主)   
   ┣徳川家斉1773-1841(養子 第11代将軍)
 蓮光院(お知保)  ┃
        ┏━━━━┛
       ┣敦之助1796-1799(清水徳川家養子)正室近衛寔子 (広大院島津重豪娘)  
        ┣淑姫1789-1817(尾張徳川斉朝妻) 側室お万(勢真院)
    ┣家慶1793-1853(12代将軍)    側室お楽(香琳院)
     ┃ ┣家定1824-1858(13代将軍)   母:本寿院1807-1885       
     ┃  ┗慶昌1825-1838(一橋徳川家6代当主)母:清涼院         
     ┣敬之助1795-1797(尾張徳川家養子)側室お歌(宝池院) 
    ┣峰姫1800-1853(水戸徳川当主斉脩妻)側室お登勢(妙操院)         
    ┣斉順1801-1846(清水家3代当主)  側室お登勢(妙操院)          
    ┃ ┗家茂1846-1866(14代将軍)   母:実成院1821-1904          
     ┣斉明1810-1827(清水徳川家当主) 側室お八重(皆春院) 
     ┣斉民1814-1891(津山藩8代藩主)  側室お八重(皆春院)         
     ┣斉衆1812-1826(鳥取藩主)     側室お八重(皆春院)         
     ┣斉良1819-1839(浜田藩主)     側室お八重(皆春院)         
    ┣斉裕1821-1868(徳島藩13代藩主) 側室お八重(皆春院)     
    ┣斉荘1810-1845(田安家4代当主)  側室お蝶(速成院) 
    ┃ ┗昌丸1846-1847(一橋徳川家6代当主)          
    ┣和姫1813-1830(長州藩主毛利斉広妻)側室お蝶(速成院)  
    ┣浅姫1803-1843(福井藩主松平斉承妻)側室お美尾(芳心院)    
     ┣斉温1819-1839(尾張藩11代藩主) 側室お瑠璃(青蓮院) 
     ┣斉彊1820-1849(紀州藩12代藩主) 側室お袖(本性院)     
     ┣斉善1820-1838(福井藩主)    側室お似登(本輪院)        
     ┣斉省1823-1841(川越藩主)    側室お似登(本輪院)        
     ┗斉宣1825-1844(明石藩主)    側室お似登(本輪院)

コメント

小野篁公遺跡

2009年08月29日 | 平安時代

 小野篁(タカムラ)は、延暦21年(802~852)生れで、嵯峨天皇の勅を奏じて「凌雲集」を撰じた参議・小野岑守の子である。 嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家であり、文人、歌人でもある。文章生から東宮学士などを経て閣僚級である参議という高級官僚にまでなり、また乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であった。  不羈(ふき)な性格で、奇行も多く、昼は朝廷で仕事をして、夜は閻魔王宮の役人であったという。この奇怪な伝説は、「江談抄」(ごうだんしょう)や「今昔物語」などの説話集や「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ)等にも数多く見られることから、平安末期頃には、篁は独特の神通力をもち、常に現世と冥土の間を行き来していて、閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことが伺える。
 また、篁は承和5年(838)の三十代半ばで遣唐副使に任じられ、四隻で九州を出発したが間もなく難破し翌年三隻で再出発するが再び難破する。 藤原常嗣の難破船の損傷が激しく、小野篁の乗船と交換したため、小野篁は強硬に抗議し、もう一人の副使の藤原常嗣と争った。 しかも「西道揺」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどにより、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪となり、一切の官職官位を奪われたこともある。 隠岐へ船出するときに詠んだ歌が次ぎである。

わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟

  しかし、承和7年(840)には帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を昇り、承和14年には従三位という高位についていることからも、篁の尋常でない才能のほどがわかる。  小野氏はその昔、大化の改新の頃は和邇臣系に属し、葛城氏や蘇我氏と並ぶ有力な大氏族で、春日、大宅、粟田、柿本、小野に分裂し小野妹子、小野老から小野岑守・小野篁といった公卿期を絶頂とし、その後も古今歌人の小野春風、小野道風を輩出するが、小野小町で没落の一途を辿った。 

 

コメント

二尊院・法然上人御廟

2009年08月29日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

コメント

2009年08月29日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

 

コメント

歌人・吉井勇

2009年08月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

清涼寺にひっそりと佇む吉井勇の歌碑 

 

 祗園白川にある「かにかくにの碑」という 歌人・吉井勇(森鴎外、石川啄木らとともにスバルを創刊し坪内逍遥に認められ、息子には吉井滋がいる)をしのぶ歌碑の近くには「大友」という御茶屋があった。 そしてここに、夏目漱石、谷崎潤一郎、横山大観、湯川秀樹といったそうそうたる顔ぶれが集まっていたという。 戦時下にあって、「大友」は姿を消し、大友の女将・磯田多佳も66歳で亡くなったが、 そのとき、吉井勇等が発起人となって、かにかくにの碑を建立し、多くの著名人が名を列ねたのである。 吉井勇の命日11月8日には、当時の仲間、女将をしのんで多くの舞妓が献花にやってくるのであるが、今では「かにかくに祭」として祗園の名物行事になっている。

祗園白川にある「かにかくにの碑」

 

 

コメント

勾当内侍供養塔

2009年08月26日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 勾当内侍は、南北朝時代の公家・一条家の女性で後醍醐天皇の後宮に入り、新田義貞の妻となった。 一条経井の三女、一条行房の妹である勾当内侍は、鎌倉時代に後醍醐天皇の討幕運動に加わり、鎌倉陥落に功績を挙げた上野国の新田義貞の妻となったが、建武の新政を開始した後醍醐天皇が新田義貞への恩賞として後宮にいた勾当内侍を与えたとされる。 勾当内侍は、後醍醐帝に仕えた女官であり和歌の名手としても伝えられている。 秋の夜、勾当内侍が琴を弾いていた時に近衛師団長であった新田義貞がその音に魅了され、勾当内侍の姿にも心を奪われる。 意を決して勾当内侍へ歌を贈るが勾当内侍は後醍醐天皇をはばかり歌を手に取ろうとしなかったが、後醍醐帝はこの噂を耳にし、義貞と勾当内侍の仲をとりもったという。 

 世が動乱となり足利尊氏と新田義貞の戦いは、足利軍と後醍醐軍との争いとなり、京都は足利軍に制圧され、 義貞は北国に逃がれる。 勾当内侍は都に近い琵琶湖畔の漁師小屋に身をひそめて迎えを待ち、やっと届いた「今は道のほども、しばらく静かになりぬれば」 によって越路の旅にでるが義貞はいなかった。 生きた義貞と逢うことが出来なかった彼女は、京に戻り仁和寺のほとりに隠れるが、義貞はすでに越前藤島で戦死し、三条河原でさらし首になっていた。 勾当内侍はその首をもち帰り、髪をおろして尼となり義貞の菩提を弔ったという。 この勾当内侍の供養塔は滝口寺にある。

 

コメント

想定外の撮影

2009年08月26日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

  

コメント

蒜山にて

2009年08月25日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

コメント

小倉餡発祥の地

2009年08月25日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

コメント

京都滝口寺にある新田義貞首塚

2009年08月25日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 南河内地方は河内源氏発祥の地で、「壺井」の里(南河内郡太子町)には、頼信・頼義・義家の源氏三代の塞があります。 その子孫が南河内地方の守護を代々つとめ、その下で地頭職を預っていたのが楠木氏です。  南北朝時代の軍記『太平記』では、「左大臣橘諸兄公の後胤たり」と、楠木氏の系譜を説明し、1190年、源頼朝が奥羽平定後上洛した時、随行した武士の中に楠木四郎という名がみえます。 正成が当主になる頃には、衰退した源氏に代わって、河内国一帯に勢力を持つようになり、近隣の和田氏や坂上氏等との姻戚関係を利用しながら、和泉・紀州地方まで浸透していたようです。  源氏と繁りのあった観心寺と楠木氏は結びつきが強く、観心寺塔中院は楠木家代々の菩提寺であり、正成の曾祖父成氏が再建するなど、幼少時から正成が度々この寺に参詣していたようです。  正成はこの寺で生涯に最も大きな影響を与えた二人の人物との邂逅を得、(滝覚坊と大江時親) 院生滝覚坊につき文学を修め、七年の間多感な少年時代を観心寺で修行に励んだことを伝えている。 師の一人滝覚坊は、鎌倉幕府別当で、後年北条氏によって滅ぼされた和田義盛の後裔である。  正成は弘法大師請来の『心地観経』の中にある四恩の教え(国王、父母、衆生、三宝に対する四つの恩) を習い、天皇のために一命を賭して忠誠を尽した正成の生き方は、後世忠孝の祖として、坂本竜馬、西郷隆盛等明治維新で活躍した志士達の精神的支柱となるが、その根底にあったのがこの四恩の教えなのである。 敵味方の区別なく戦死した兵の菩提を弔ったことや、恩顧のあった寺院社寺に対する敬虔な態度なども、この教えの影響であるといえます。  大江時親は兵法を中心に正成に伝授する。平城天皇を祖とする大江家は、文筆家の血筋として知られているが、兵法家の家系としても著名である。時親の曽祖父広元は源頼朝の家臣であり、そのまた曽祖父が源義家に兵法を伝授した大江匡房である。諸国歴訪の後、家督を継いで河内国加賀田郷に居を定め、大江家に伝わる兵書研究に没頭していた時親は、滝覚坊の依頼により正成に兵法を伝授する。元弘の乱においての赤坂城や千早城の攻防で、多数の敵軍と対峙しながらも、妙案奇趣の戦術を用いて相手方を翻弄した正成の兵法家としての基礎は、この時培われたものである。

 元弘の乱は、天皇親政を目指した後醍醐天皇による鎌倉幕府執権北条氏討滅の戦いである。未然に発覚した正中の変(1324)の後も、天皇と北条氏の軋轢は日増しに強まり、たび重なる討幕計画に憤激した北条氏は武力で天皇を威圧する。これ耐えかねた天皇は元弘元年(1331)八月、京都を脱出して笠置山に向かう。元弘の乱の始まりである。この乱を契機にして、正成の名が頻繁に歴史に登場するようになる。 楠木氏は河内地方の土豪にすぎないにも拘らず笠置山に避難した天皇が頻りに正成を頼るようになるのである。 この笠置山での出合いの時、天皇の眼にとまったであろう正成の軍旗が観心寺に保存されている。 正成勢の参集にも拘らず、笠置山の攻防は幕府軍の勝利に終わり、天皇は捕われ隠岐に、同道した尊良親王は土佐、尊澄法親王は讃岐にとそれぞれ配流される。正成は護良親王と共に赤坂城を抜け出し、捲土重来を期して幕府軍の前から姿を消す。 結果的に幕府軍の勝利に終わった笠置山の攻防であったが、それまで態度を保留し、形勢を観望していた、本来天皇方につくべき武士達に決起を促すことになった。  1332年、正成と共に赤坂城を抜け出していた護良親王の吉野での挙兵に呼応して正成も挙兵し赤坂城を奪還、その奥に千早城を構築する。 翌年二月、三十万騎近い兵を西上させた幕府軍は吉野攻撃を開始、頑強に抵抗する親王軍を攻略すると、親王は千早城へと向かう。(千早城は現在の大阪と奈良の県境、金剛山の中腹から西に走る尾根の末端に位置する) 正成はわずか一千余人の手兵で、数万の幕府軍を悩ました。 その間、天皇方の武士の蜂起が続出し天皇が隠岐を脱出したこともそれにはずみをつけた。 当初は幕府方であった足利尊氏も天皇方に帰順し、東国では新田義貞が挙兵、鎌倉に進撃を開始し、鎌倉幕府は滅亡した。  翌年建武新政が成立する。最高の功労者は正成である。後醍醐天皇自ら正成に向かい、その功労を称えている。 正成は検非違使、左衛門尉として従五位に叙せられ、河内、摂津の両国を賜わる。 新田義貞は、上野、播磨の両国、尊氏は、武蔵、常陸、下総の三ヶ国を賜わり、それぞれ従四位、左兵衛督と従二位参議に任ぜられた。 

 護良親王との対立を契機として尊氏は反朝廷の旗色を鮮明にしてゆき、事態は尊氏の弟直義による親王殺害にまでエスカレートし、正成は天皇と尊氏の和解を真剣に考える。 都に押し寄せた尊氏勢が、正成、義貞の連合軍に破れて船で九州へ敗走した時にも、両者の和解を上奏している。 九州へ敗走した尊氏は逆賊であったが、新政の失策を目の当たりにした正成には、全国の武士の動向が手に取るようにわかったのであろう。これは天皇を思えば最善の方法ではあったが、到底公家達が納得できる案ではなかったのである。  正成の予測通り尊氏は、新政に失望した全国の大小名を味方につけ東上を開始した。これを阻止せんとした義貞勢が、兵庫湊川に弧立してしまう。 天皇は義貞救援を正成に諮問する。この時、正成は史上有名な献策をする。 結局、この献策は坊門宰相清忠によって一蹴され、正成は勅命により兵庫へと出陣し、尼ヶ崎で最後の上奏を行う。 もはや戦いの帰趨は正成にとって明らかであり、死を決意しての悲愴な出陣だったのである。 湊川に出陣した正成は義貞に会い、その任務は君を守護し聖慮を安んずべきであることを説き、身を挺して脱出を助けることを進言する。 総勢七百騎余の正成勢は七十三騎になり、正成は壮絶な自害を遂げる。  天皇への忠勤を果たすため、自ら肉壁となって兵庫湊川に散華したのは、桜井の駅で正行と別れてから十日後の延元元年(1336)五月二十五日。正成四十三歳の男盛りであった。その首級は、敵将尊氏の命によって観心寺に送り届けられ、大楠公首塚として今に残る。戒名「忠徳院殿大圓義龍大居士」は後醍醐天皇より賜わったものである。

 後醍醐天皇の討幕は2回行われた。 その一回目は1324年の正中の変は後醍醐天皇の無礼講メンバー多治見国長、土岐頼兼、日野資朝、日野俊基らによって実行された。 この行動の直接のきっかけは大覚寺統の後宇多法皇の死去である。 後宇多は後二条、 後醍醐天皇兄弟の父であり、大覚寺統では後醍醐天皇の次の天皇は後二条の子・邦良親王と決められていた。 本来なら兄の後二条が後を継ぐ予定であったが、早くに死んだために次男の後醍醐天皇がつなぎとして即位した。 ところが後宇多が死んでしまったから皇太子の邦良親王の立場は微妙なものとなる。 そこで、邦良親王は幕府を動かして後醍醐天皇を退位させ、一刻も早く天皇になろうと考えたのである。 鎌倉武士に強要され実権のない上皇になることに抵抗を覚えた後醍醐天皇は決行した。 幕府の京の拠点である六波羅探題を襲撃して北条範貞を殺害すると、奈良興福寺の僧侶に挙兵させ、機内の武士を呼びかけた。 一気に鎌倉に圧力をかけようというのである。 ところがこの計画が土岐頼兼の舅にあたる斉藤利行という六波羅の御家人の耳にはいり漏れたのである。 これにより先手を打った六波羅は多治見国長、土岐頼兼を滅ぼして、日野資朝、日野俊基を生け捕りにされ、 資朝は佐渡に流罪、俊基は放免という寛大な処置であった。 後醍醐天皇はこれに懲りずに六波羅の要人・伊賀兼光を寝返らせ、楠木正成、足利尊氏、新田義貞といった有力御家人を味方につけていく。 楠木正成は河内の出身であるが、その家系、身分は不明である。 ただ楠木正成が幼少の頃朱子学を学んだという河内の観心寺は後醍醐天皇の属する大覚寺統の寺であり、後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を通して繋がったらしい。

 二回目の討幕計画・元弘の変は1331年起こった。 しかしまたもや側近の吉田定房によって鎌倉にしらされ計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流された。 しかし後醍醐天皇は笠置山に脱出すると、ここで挙兵し、楠木正成は本拠地で呼応した。 このとき幕府は本格的に笠置山を攻めて落城させている。 この時の幕府側の大将が足利尊氏である。 後醍醐天皇は捕獲され京に連行されると、二条為子との間にできた尊良親王は京で捉えられ、護良親王は吉野にはいった。 護良親王はもともと延暦寺の僧・尊雲法親王として押し込められていたが、還俗して護良親王と改名していた。 このとき楠木正成は河内の赤坂で孤立状態で奮闘していたが、とうとう夜陰に乗じて逃げてしまった。 百倍もの敵を相手にまんまと逃げおおせたというのは勝利に等しい。 後醍醐天皇は隠岐へ流罪、宗良親王は讃岐、尊良親王は土佐に流され、持明寺統の量仁親王(後伏見天皇と西園寺寧子との間の親王)が即位して光厳天皇となった。 このとき護良親王と楠木正成は俄かに体力を回復させていた。 幕府はこれをみて、再び大軍を動員して二人の征伐を決意する。 しかし楠木正成の奮闘中に、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年という豪族の支援を受けて船上山で挙兵し全国の武士に討幕の綸旨をばらまいた。楠木正成らの奮闘に全国の武士は勢いづくと、幕府は再び足利尊氏を投入する。 ところがここで足利尊氏は後醍醐天皇の綸旨を受けて幕府討伐側に寝返ったのである。  足利尊氏は諸国に呼びかけて軍勢を加え京に進撃し六波羅を陥落させた。 このとき幕府の本拠地である鎌倉を攻撃して陥落させたのは尊氏ではなく新田義貞である。 両者の家系は源氏の本流に遡る。 八幡太郎義家の子・義親の系統が源頼朝の本系統であるが、義国には兄・義重と弟・義康がいて、義重が新田を名乗り、義康が足利を名乗った。 尊氏が攻めた六波羅探題はあっけなく陥落し、探題の北条仲時は北朝の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇をつれて鎌倉へ逃げようとしたが、近江で完全に阻まれ、絶望した仲時は伊吹山の蓮華寺にはいり一族全員430人余りが自害した。 一方関東では新田義貞を大将軍とする軍勢は鎌倉を目指し、北条高時以下一門は菩提寺の東勝寺にはいり六波羅と同様に自刀した。 これにより150年続いた鎌倉幕府は1333年に滅亡したのである。

 後醍醐天皇が政権に復帰すると、光厳天皇を廃して建武の新政を始めた。つまり律令政の復活と天皇親政である。 後醍醐天皇は土地所有に対する習慣、既得権を白紙にもどした。また、知行国制を取りやめた。 これは特定の家系が国司の任免権を独占し世襲させる制度であり、多くの貴族が私物化していた土地を取り上げられることになる。また、関白職そのものも廃止し、征夷大将軍には尊氏ではなく、護良親王を任命した。 当然足利尊氏は激怒し、後醍醐天皇と対立する持明寺統の公家達は知行国を召し取られて対立していく。 そして後醍醐天皇の夢であった大内裏の建設を始めたのであるが、その費用は全国の地頭、御家人からの税金によりまかなおうとした。 これでは武士たちが不満を持つのは当然である。 そして新政の崩壊は旧幕府系の人々の反乱によって始まるのである。 北条高時の遺児・時行が反乱の首謀者である。 また後醍醐天皇に解任された大納言・西園寺公宗は各地の北条氏の残党を集めて、再び持明寺統を立てようと画策した。 この時、密告により公宗は逮捕され持明寺統の後伏見、花園、光厳上皇は幽閉されたが、北条時行の軍勢は諏訪の豪族・諏訪氏に庇護されながら1335年に兵を挙げた。 公宗を密告したのは弟の公重で、西園寺の家督を得たうえに知行国の返還という恩賞を後醍醐天皇から与えられている。  後醍醐天皇の新政崩壊の前兆は北条時行の反乱に始まる。北条氏が代々守護として統治していた国で北条氏譜代の家臣が多く、諏訪神社の神官でもある諏訪氏は密かに高時の遺児である時行を匿っていたのである。また、公家の中ではかつて最も幕府とつながりを持っていた西園寺の当主・公宗がこの反乱の首謀者であった。 公宗は高時の弟・泰家を匿い、全国の北条残党を一斉発起させる予定であった。 ところが公宗の反乱は弟・公重の密告により失敗するが、1335年時行は鎌倉奪回を目指して兵を挙げた。 そして時行は尊氏の弟・直義を破って朝廷軍を追撃し鎌倉攻略に成功する。 この時直義は兄・尊氏から預かっていた護良親王を暗殺している。都では鎌倉陥落により北条の残党が集結する報がもたらされた。 足利尊氏は征夷大将軍として弟・直義の取り戻すべく軍を率いる許可を後醍醐天皇に求めたが、後醍醐天皇は拒否した。阿野廉子との間にもうけた三河の成良親王を征夷大将軍にすると、足利尊氏は無許可で鎌倉に向かった。後醍醐天皇に不満を持つ武士が尊氏を支援するとは限らない。北条時行への支持武士が多ければ尊氏の前には破滅が待っていることになるが、尊氏は勝利し、後醍醐天皇は折れた。

 敗走してきた義詮と三河で合流した尊氏は遠近橋本の戦いで北条時行を撃破し鎌倉を陥落させたのである。 一方京では反乱の首謀者である西園寺公宗は北条泰家とともに死罪に処せられた。この時後醍醐天皇は尊氏に京へ戻るように命令するが、弟の義詮はそれを制し結果的には鎌倉に居を定め、配下の武士に恩賞を与えることによって実質的には幕府を復活したのである。 そして足利尊氏・直義兄弟は新田義貞を討つために兵を募った。新田義貞は後醍醐天皇側の武士であり後醍醐天皇より尊氏尊氏追討の命を受けたのは1335年11月であった。この時尊氏は天皇に逆らうことはできないと参戦しなかったため、新田義貞は足利直義を破る。 直義の敗戦を聞いた尊氏は鎌倉の建長寺に入って出家しようと考えたが、直義の画策により再び発起し、新田義貞を敗走させた。 これを機に中立派の武士が続々と尊氏の新政権に加担を表明したのである。その代表が赤松円心という流通業で富を得た播磨の武士である。1335年十二月には鎌倉から京へ攻め上がり1336年1月11日には京へ突入すると、後醍醐天皇は京を捨て比叡山に避難する。しかし今度は京の市中の合戦で尊氏は新田義貞に惨敗した。楠木正成の謀略が加勢したらしい。また公家でありながら武士以上の軍事力を持つ奥州の北畠顕家が後醍醐天皇の危機を救うべく上洛してきたのである。 尊氏は敗れて丹波から播磨を経由し、ここで播磨(現在の上郡町)の武士・赤松円心を寝返らせると九州で兵を募るという知恵も授かった。 そして南北朝時代に突入する決定的な作戦をも授かった。 それは持明院統の光厳上皇から京回復の院宣を貰うというものである。かくして後醍醐天皇の大覚寺統と光厳上皇の持明寺統の争いが本格的に始まる。  足利尊氏が九州で兵を募っている間、赤松円心は播磨白旗城で新田義貞軍と奮闘し、尊氏は十数万の軍を率いて京に攻め上がった。しかも伊予の河野水軍をも見方につけて瀬戸内海を進撃してきた。後醍醐天皇は楠木正成に尊氏追討を命じると弟・正季とともに兵庫・湊川の合戦が始まった。主力の新田義貞は脆くも崩れ、楠木正成軍は僅か73騎になり力尽き、兄弟で刺し違えた。孤立した後醍醐天皇が比叡山に篭っている間、尊氏は1336年五月、京の石清水八幡宮に本陣を構え、光厳上皇と豊仁親王と合流した。そして光厳上皇に豊仁親王の天皇即位を要請する。 北朝第二代光明天皇の誕生である。足利尊氏は強大な軍事力で後醍醐天皇を追い詰め、三種の神器を光明天皇に渡し、正式に譲位するかわりに後醍醐天皇の皇子が、光明の皇太子になるという和議を持ちかけ、後醍醐天皇は承諾したのである。息子の成良親王を皇太子とすると京を脱出して吉野に入った。そして「光明に渡した三種の神器は偽物であり朕こそ真の天皇である。朕に忠誠を誓う者は逆賊尊氏を討て」と言った。この日から南北朝が統一される1392年までの56年間に渡り皇室は分裂することになる。この直後1338年、後醍醐天皇は北畠顕家、新田義貞という両腕を亡くし、翌1339年に義良親王を皇太子とすると亡くなった。 

━ 56清和天皇━━ 貞純親王━━ 源経基━━ 満仲━┳ 頼光━━ 頼国━━ 頼綱━┓
                          ┃   ┏━━━━━━━━━━┛
                          ┃   ┗━ 仲政━━ 頼政
                          ┗ 頼信━━ 頼義━┓
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗┳ 義家━┳ 義宗
   ┃    ┣ 義親━━ 為義━┳ 義朝━┳ 義平(悪源太)
   ┃    ┃         ┃    ┣ 朝長
   ┃    ┃         ┃    ┣ 女
   ┃    ┃         ┃    ┣①頼朝━┳②頼家━━┳ 一幡
   ┃    ┃         ┃    ┣ 義門 ┣③実朝  ┣ 公暁
   ┃    ┃         ┃    ┣ 希義 ┣ 大姫  ┣ 千寿丸
   ┃    ┃         ┃    ┣ 範頼 ┃(義高と婚約)┗ 竹御所
   ┃    ┃         ┃    ┣ 全成 ┗ 乙姫 ┃(藤原頼経室)
   ┃    ┃         ┃    ┣ 義圓      ┃
   ┃    ┃         ┃    ┗ 義経      ┃
   ┃    ┃         ┣ 義賢━ 義仲(木曽)━ 義高
   ┃    ┃         ┣ 義憲(義広 志田)
      ┃        ┃                  ┣  頼賢
      ┃        ┃                  ┣  為朝
   ┃    ┃         ┗ 行家(新宮十郎)
   ┃    ┣━ 義国━┳━ 義重(新田氏)-□-□-□-□-□-□-朝氏-新田義貞
   ┃    ┃(足利氏)┣━ 義康(足利氏)
   ┃    ┣━ 義忠 ┗━ 季邦
   ┃    ┣━ 為義(義親の六男、義家養子)
   ┣ 義綱 ┣━ 義時(陸奥五郎、石川氏)
   ┃    ┗━ 義隆(陸奥六郎、森冠者)
   ┗ 義光━┳━ 義業(佐竹氏)     義光は新羅善神堂@滋賀県にて元服、源氏一門から厚く信仰された:三井寺⇔比叡山:平家
    (新羅)┣━ 義清(竹田氏)
        ┗━ 盛義(平賀氏)

滝口寺にある新田義貞公首塚 

 

コメント

斉藤滝口時頼と滝口寺

2009年08月24日 | 平家物語

 建礼門院に仕えた横笛には滝口入道との悲恋の物語がある。 滝口入道とは、内大臣・平重盛に仕えていた宮中警護に当たる滝口(清涼殿の東北の詰所)の武士・斉藤滝口時頼のこと。 滝口時頼は、時の権力者平清盛が西八条殿で催した花見の宴で、建礼門院(重盛の妹)に仕えていた雑士女・横笛の舞を見て一目惚れ。その夜から横笛のことが忘れられず恋しさが募るだけ。思い悩んだあげく、恋しい自分の気持ちを手紙にして横笛に届けることにした。刀しか持ったことのない無骨な手で、書いては消し、書いては消して・・・。その文はやがて横笛のもとに届けられた。
 宮中警護を勤めるたくましい男性から愛を打ち明けられた横笛は「この気持ちを受け入れよう」と心に誓い、それから幾度となく手紙を交わし、愛の契りを結んだのであるが、この愛は長くは続かなかった。  二人の交際を知った滝口時頼の父は「おまえは名門の出、将来は平家一門に入る身ながら、あのような身分の低い女に何故思いをはせるのか」と厳しく叱りつける。滝口時頼が父茂頼(しげより)に従わなかったことから、とうとう勘当されることとなる。主君(内大臣)の信頼に背いた己を自責し、横笛に知らせることなく、わずか18歳で嵯峨の法輪寺にて出家。(『源平盛衰記』)煩悩を捨て、一心に仏道修行を誓ったのである。  幾日も経たないうち、都の噂で滝口時頼(滝口入道)は出家し嵯峨のあたりの寺にいると知る。横笛は、自分の心を打ち明けようと、あちこちの寺を尋ね歩き。都を出る時に着てきた横笛の着物は、夜露に裾は濡れ汚れ、袖もほころび、次第にみすぼらしくなっていた。人を怪しむ里犬に吠えられ、嵯峨の地へやって来たある日の夕暮れ、横笛の耳へ僅かながら念誦(ねんしょう)の声が聞こえた。耳を澄ませて声の方向を見ると、闇の奥の小さな庵(法輪寺)からであった。横笛はそっと近づき、念誦の声に「この声は、お捜していた滝口様」。はやる気持ちを抑え、表戸を叩き「滝口入道様、お願いでございます。お姿をお見せくださいませ。都から捜してまいりました」と声をかけた。声をかけたのは横笛の供の者。お供にそのように言わせ、自分は茂みの影で背をかがめて滝口の姿を一目見ようとしたのであった。 お供の声が届いたのか、先ほどまで聞こえていた念誦がぴたりと止み、しばらくすると一人の僧が静かに戸を開けて出てきて「そのような者はこの僧坊にはおりません、お間違いです」と言って姿を消した。茂みの影で横笛は「聞こえていた念誦の声は、間違いなく滝口様。 なぜお姿を見せていただけないのか」と涙したのである。これは、滝口が同宿の僧を差し向けてそう言わせ、滝口はこの事の成り行きを襖の隙間から見つつ「会うは修行の妨げなり」と涙しながら帰したのである。遠くから尋ね尋ねて、ようやく見つけた滝口に追い返された横笛は憔悴していたが、真の自分の気持ちを伝えたく「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け」と指を斬り、その血で近くの石に書き記し、泣く泣く都へ帰ったとも、悲しみのあまり法輪寺の近くの大堰川に身を沈めた(南都(奈良)・法華寺へ出家したとも伝えられる)。横笛の死を聞いた滝口は、女人禁制の高野山静浄院へ移り、ますます仏道修行に励み、その後、高野聖となり元暦元年(1184)、紀州の勝浦で、源氏に追われた平維盛の入水に立ち会っている。なお、嵯峨野/祇王寺の隣に、横笛・滝口を祀るお寺「滝口寺」があり、滝口が出家したのは滝口寺としている。

 

コメント

・・

2009年08月23日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

コメント

百人一首に見る藤原忠平

2009年08月23日 | 平安時代

 百人一首に名を列ねた藤原氏の中で栄華を極めた人は何故か極めて少ない。かの絶頂を極めた道長の名は無く、僅かに藤原忠平、忠通のみであり、それ以外はどちらかというと悲運の人々である。

 まずは三条右大臣・藤原定方(父は藤原高藤)と中納言・兼輔(父は利基)であるが、ふたりは藤原良門の孫で従兄弟同士にあたる。 良門は栄華を極めた長良とは年の離れた弟にあたり、早死にしたために子息は将来有望ではなかった。 ところが定方(873-932)の同母妹・胤子(-896)が宇多天皇女御となり、醍醐天皇(885-930)をもうけたのである。 これにより一躍、高藤は三位となり内大臣に任ぜられた。 高藤の次男・定方も右大臣まで昇ったのであるが、この親子は温和で、従兄弟の中納言兼輔(877-933)とともに風流を好んだ。 中納言・兼輔に臣従した歌壇の第一人者が紀貫之である。 面白いことに、この3人を中心とした風流に集まった連中には、伊勢姫と醍醐天皇の弟・敦慶親王(二人の間には中務が生まれている)などがいる。 伊勢姫は、藤原基経の娘・温子(七条の后)が宇多天皇の女御になった前後に出仕し、温子の相手をすることになります。 定子と清少納言、彰子と紫式部のような関係です。 伊勢姫は、女御・温子の弟の藤原仲平と兄の時平からも愛されますが、温子の夫である宇多天皇の寵愛を得て皇子・行明親王を産んだことにより伊勢生涯の名誉を得ることになります。 しかし後に、皇子を幼くして亡くし、伊勢がもっとも敬愛していた温子皇后が崩じ、その娘の均子内親王も世を去ってしまう中、敦慶親王(宇多天皇皇子)の寵を受け、一女・中務をもうけます。 彼等の中心はなんといっても醍醐天皇であったが、930年に醍醐天皇崩御のとたんに、定方、兼輔ともに相次いで亡くなっており悲しみの淵に暮れた結果の死のような気もします。 兼輔の死を土佐の任地で知った紀貫之はその後、不遇の老境に沈んだといいます。 因みに兼輔の曾孫が紫式部であり、兼輔の子・雅正と定方の娘が結婚して紫式部の父・藤原為時が生まれた。 また、定方の曾孫が藤原道長の妻・源倫子であることを考えると、紫式部が源倫子の長女・彰子に出仕したのは偶然でもなんでもなかったように思われます。 また紫式部の源氏物語は、曾孫・兼輔や三条右大臣の時代を設定して執筆されており、この頃の風流が源氏物語に受け継がれていることは云うまでもない。

三条右大臣・定方:名にし負わば逢坂山のさねかずら人にしられでくるよしもがな

中納言・兼輔:みかのはらわきてながるる泉河いつ見きとてか恋しかるらむ

伊勢:難波がたみじかきあしのふしの間もあはでこの世を過ぐしてよとや

 源倫子の母は藤原穆子といって定方の五男・朝忠の娘である。中納言・朝忠も百人一首に「逢ふことのたえてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし」 がある。 朝忠はある人妻と密かな関係を続けていたが、人妻は国司の夫と地方に下ることとなった。 そのときの気持ちを未練たっぷりに表現したものである。

 さて、930年に醍醐天皇が崩御となったのであるが、その直前に清涼殿に落雷し天皇の目の前で公卿が死傷する事件が起こった。衝撃により病臥した醍醐天皇は、8歳の朱雀天皇に譲位し、伯父の藤原忠平に摂政として政務を委ね、数日後に崩じたのである。 この時の落雷が菅原道真(菅家: 此の度は幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに)の怨霊の祟りによるものであると後に云われるのであるが、実は923年、藤原時平の妹・穏子と醍醐天皇の皇子で皇太子の保明親王が21歳の若さで他界した時や、909年時平が39歳の若さで他界したとき、はたまた亡き時平の娘と皇太子との間に生まれた慶頼王が5歳で亡くなった時も云われていたようである。 菅原道真を追放した首謀者・藤原時平の周りにはことごとく怨霊の祟りが現れ、936年には時忠の嫡男で大納言の保忠までが47歳で亡くなったから衝撃であった。結果的には、この死により庶流の忠平が太政大臣に昇格し、嫡男・実頼、次男・師輔が左右大臣となり忠平が「貞信公」と呼ばれて繁栄することになるのである。

 道真の祟りがなければ、全盛を迎えていたはずの時平の子・顕忠、敦忠も祟りに萎縮せずに政権に加わっていたはずである。敦忠は在原業平の孫で美貌の女性・在原棟梁女を母とし、和歌・管弦の才に恵まれたから色恋の道に走ったという。 恋の相手はまずは右近。 彼女は忠平の妹で醍醐天皇太后・穏子の女房である。 また参議・源等の娘とは助信という子をもうけ、次は醍醐天皇の第十皇女で斎宮の雅子内親王である。雅子内親王は後に忠平の次男・師輔の妻となり為光・高光を産んでいる。因みに師輔は雅子内親王の姉妹・勤子内親王や康子内親王をも妻とし、康子内親王は藤原公季を産んだ。 没落していく時平系の敦忠が雅子内親王と結ばれなかったのに対して、繁栄する忠平系の師輔が天皇の皇女を3人も妻に迎えたのはあまりにも対照的である。

権中納言・敦忠:あひ見ての後の心にくらぶればむかしはものを思わざりけり

右近:忘らるる身をば思はずちかひてし人のいのちの惜しくもあるかな

参議・源等:浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき

 さて、没落した敦忠を偲んで「あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」と詠んだ人がいる。 それは繁栄の右大臣師輔・嫡男の謙徳公・藤原伊尹である。師輔には異母兄・実頼がいたが、娘・安子を後宮にいれ憲平親王(後の冷泉天皇)、守平親王(後の円融天皇)を産み出した。兄の小野宮流・実頼は女子に恵まれなかったために、師輔の九条流が後に栄えたのである。ところが九条右大臣・師輔は兄に先んじて亡くなったため、藤原伊尹よりも先に時平側の顕忠、源高明、伯父の藤原師尹らが左右大臣の地位を占めた。 しばらくして村上天皇が崩じ冷泉天皇が即位するも2年後に安和の変で源高明が追放されると、皇太弟・円融天皇が即位後に摂政・藤原実頼がこの世を去った。このときに47歳の藤原伊尹が幼帝の摂政として始めて政権に就いたのであるが、僅か2年後に糖尿病ではかなくも亡くなるのである。神経質で人を近づけなかった兄とは違って、鷹揚な伊尹には権力争いの渦中には不向きな人柄であったのかもしれない。  長きに渡って政権を握った藤原氏のなかでも一際歌人としての才覚を表し、色好みにも生きた謙徳公の逸話として、才媛・本院侍従との恋がある。 本院というのは時平の娘・藤原善子で保明親王の妃を云い、善子に出仕し、善子が没した後は、村上天皇中宮・中宮藤原安子、同じく承香殿女御・徽子女王(醍醐天皇の第四皇子重明親王の子で母は太政大臣藤原忠平の娘・寛子)などに仕えた。 本院侍従はもともと伊尹の弟・兼通と通じていたが伊尹が割り込んで交渉を持ったようである。伊尹の「あかつきになりやしぬらんほととぎすなきぬばかりもおもほゆるかな」に、侍従は「ふたしへにおもへば苦し夏の夜のあくてふ事なわれにきかせそ」と二股の恋に苦しんだ返歌をしている。

     ┏為時━紫式部 
    ┏□ ┏朝忠 ━藤原穆子 
  ┏兼輔定方(三条右大臣)┣倫子
 ┏利基 ┣胤子  伊勢姫 ┃ 
 ┃   ┃ ┣醍醐┣中務 ┃  婉子972-998(為平親王娘,花山女御) 
 ┣藤原高藤 ┣敦慶親王  ┃   ┣資平(養子)かぐや姫   
良門     ┣敦実親王-967┃ ┏実資サネスケ957-1046(小右記)実頼三男・斉敏四男 
順子    宇多 ┣源雅信-993 ┣頼忠924-989┳公任966-1041━定頼 
長良802-856   ┏娘      ┃      ┗遵子957-1017(円融妃)
  ┣国経  ┏時平871-909   ┣敦敏912-947━佐理スケマサ944-998
   ┃        ┃┗保忠┏実頼 ━╋斉敏928-973━懐平
  ┣基経 ━╋仲平 ┃(九条殿)┗述子933-947(村上女御)
  ┃836-891 ┣忠平━╋師輔-960┳伊尹コレタタ(一条殿・謙徳公)┳懐子(花山帝御母) 
  ┣淑子  ┃-949 ┗師尹モロタタ┣為光942-992       ┣挙賢
  ┣高子  ┃    ┣芳子   ┃ ┣誠信964-1001    ┣義孝━行成
  ┃842-910 ┃    ┃(村上妃┃  ┗斉信967-1035    ┣義懐ヨシチカ
 乙春┣陽成帝┃    ┗済時995┃  タダノブ      恵子女王 ┗成房
   ┃     ┃     ┗通任┃(堀川殿)  ┏媓子(円融中宮)947-979   
   ┣貞保 ┃    (三条妃)┣兼通925-977╋顕光┳元子(一条帝女御)┓
   ┣敦子  ┣頼子(清和女御) ┣登子       ┗朝光┗延子(敦明女御)  ┃
   ┗━━┓┣妹子(清和女御) ┃キンスエ     ┗姚子(花山帝女御)  ┃
良房804-872 ┃┣温子      ┣公季957-1029━義子(一条帝女御),実成┃
 ┣明子  ┃┃ ┣均子内親王  ┃(母:康子内親王)           ┃
潔姫 ┣56清和┃宇多天皇    ┣兼家929-990(東三条殿)  ━━━┓   ┃
 55文徳帝  ┃        ┣安子927-964          ┃   ┃
   ┣恬子 ┗穏子885-954 盛子-943┣憲平親王(冷泉帝63代967年) ┃   ┃
  紀静子   ┣保明親王     ┣資子内親王        ┃   ┃
        ┃         ┣守平親王(円融帝64代969年) ┃   ┃
   淑姫   ┣寛明親王(61朱雀帝)┣為平親王(安和の変で失脚)  ┃   ┃
    ┣源兼明┃         ┣選子 ┣    源頼定     ┃   ┛
       ┃16皇子┣成明親王(62村上帝)-967 高明娘保子┣ ?      ┃
  60醍醐天皇885-930  ┃┣具平親王┣広平親王    綏子(すいし) ┃
    ┃       ┃┣楽子  ┣緝子内親王              ┃
    ┃       ┃荘子女王 祐姫(藤原元方娘)            ┃
    ┃       ┣規子内親王949-986                  ┃
    ┃       微子女王                        ┃
    ┣源高明914-983(第十皇子)                   ┃
    ┣雅子内親王(斎宮,師輔室)                          ┃
      源周子                                        ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃   藤原守仁娘・(伊予守) 
┃   ┣ 道頼971-995(兼家養子) 藤原為光娘(忯子の妹)花山法皇狙撃事件
┗┳ 道隆953-995(中関白家)        ┣ 
 ┃        ┣━┳伊周コレチカ974-1010┳道雅(三条帝娘・当子内親王と恋愛)
 ┃ 高階成忠┳タカシナ貴子┃        ┣大姫
 ┃(高二位殿)┃ -996 ┣隆家979-1044  ┗小姫 
 ┃ 923-998 ┣信順マサノフ┣御匣殿985-1002(定子亡き後、養母として入内) 
 ┃     ┣明順  ┣頼子姫(敦道親王師ノ宮の妻) 
 ┃     ┗光子  ┣原子姫980-1002(居貞親王女御) 
 ┃      (定子乳母)┗定子977-1000 里邸二条 
 ┣ 道兼961-995┳兼隆985-1053┣脩子内親王   996-1049
 ┃             ┣兼綱     ┣敦康親王    999-1018
 ┃          ┣尊子984-1022┣よし子内親王1000-1008
 ┃   繁子(師輔娘)┃    ┃
 ┃  66一条帝980-1011(乳母は橘徳子) 
 ┣ 道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通
 ┃    ┃ ┃ 宇治殿 ┗ 寛子(後冷泉后)     ┗ 頼長
 ┃┏源倫子┣ 教通(996-1075 和泉式部娘・小式部を妾とする。本妻は公任・娘)
 ┃┃(鷹司)┃      ┣ 歓子(1021-1102後冷泉后)   ┣信長  
 ┃┗時中 ┃      ┣ 真子(後冷泉女御)      公任娘 
 ┃父:雅信┃920-993 ┗ 生子(1014-1068後朱雀女御)         
 ┃  重信┃-995         ┃延子(藤原頼宗娘)
 ┃    ┃             ┃ ┃嫄子(敦康親王娘)1016-1039 1076-1103
 ┃    ┣ 彰子988-1074上東門院┃ ┃┣祐子内親王,禖子内親王  藤原苡子
 ┃    ┃ ┣敦良親王(69代後朱雀)1009-1045━┳良子、娟子    賢子┣鳥羽
 ┃    ┃ ┣敦成親王(68代後一条)1008-1036┓┣尊仁親王(71後三条)┣堀河天皇
 ┣ 道綱 ┃ 66代一条帝980-1011       ┃┃┃┣貞仁72白川帝1053-1129  
 ┃    ┃ 67代三条帝976-1017         ┃┃┃藤原茂子(公成娘) 
  ┃        ┃ ┣禎子内親王1013-1094陽明門院  ┃┛┃
  ┃974-1004┃ ┃                ┣馨子内親王1028-1093斎院
 ┣ 綏子 ┣ 妍子994-1027(枇杷殿)      ┣章子内親王1026-1105 
 ┃  ┃ ┣ 威子998-1036         ━━━━━┛ ┃藤原教通娘・歓子1021-1102
 ┃  ┃ ┗ 嬉子1007-1025(産後死去,後冷泉母)┣- ┣ - 
 ┃  ┃        ┣親仁親王70代後冷泉(紫式部部娘賢子が乳母) 
  ┃  ┗━━━━┓69代後朱雀                 ┣ - 
 ┃954-982       ┃娍子972-1025(堀河女御 済時娘)   藤原頼通娘・寛子1036-1127
 ┣ 超子(ゆきこ)┃ ┣敦明親王994-1051小一条院
 ┃  ┃    ┃ ┃ ┣敦貞親王
 ┃  ┃    ┃ ┃延子985-1019(顕光娘、一条帝女御元子の妹) 
 ┃  ┃    ┃ ┣敦儀、敦平、師明親王、当子(斎宮)、子内親王
 ┃  ┣居貞イヤサダ親王67代三条帝976-1017 
 ┃  ┣為尊親王977-1002(弾正ノ宮:和泉式部を寵愛)
 ┃  ┣敦道親王981-1007(師ノ宮:和泉式部を寵愛) 
 ┃ 63冷泉帝
 ┗ 詮子(東三条院 兼家娘)962-1001出家後土御門第へ移り、道長は一条院へ。 
    ┣懐仁カネヒト親王(66代一条帝)
   64円融帝959-992

コメント