千姫は1598年、秀吉の命により僅か2歳で豊臣秀頼と婚約する。 秀頼の母・淀殿と、千姫の母・お江が姉妹になるため、二人は従兄弟になる。1603年に秀頼の元に嫁ぎ大坂城に入る。城内では淀殿らに敵の娘として扱われ、不自由な生活を送る。 1614年に大坂の陣が始まり、実家と嫁ぎ先による戦となる。 冬の陣は和議となるが、翌年、再び夏の陣が起こり、豊臣軍は敗北。 大坂城内に徳川軍が殺到した。この時、大野治長が、秀頼・淀殿親子の助命嘆願のために解放し、家康の元に送り届けようとする。堀内氏久が護衛をして、彼の知り合いだった徳川軍の坂崎直盛の陣経由で徳川家康の陣所に送り届けられた。 可愛い孫娘が助かったことで家康は大喜びし、後に護衛をした堀内氏久の命を助けるどころか、領地まで与えるほどだったという。 家康と面会した千姫は頼まれていた通り、秀頼親子の助命を嘆願した。一応、了解したふりをした家康だったが、ここで豊臣家の血を残しておくわけにもいかず、秀頼親子を自害へと追い込んでいることから、悲劇の姫といわれる。 1616年9月、桑名城主だった本多忠政の息子・忠刻と再婚。 千姫が彼に一目惚れしたからと言われているが、本当は忠政の妻・熊姫が家康に頼んで嫁にもらった、と言うのが真相のようだ。 この再婚の時に、有名な千姫強奪未遂事件が起きている。 翌年、本田家が播磨姫路15万石に加増となると、千姫は10万石の化粧料を与えられ、播磨姫君と呼ばれるようになった。姫路城で平穏に暮らし、二人の娘と一人の息子に恵まれた。 しかし息子が4歳で夭折し、それから流産を繰り返すようになった。後継ぎが出来ないのは、秀頼の祟りと考えた千姫は、祈祷を祈願するなど、霊を鎮めようとする。しかしその努力も空しく、1626年5月7日に夫の忠刻までが病死してしまう。 6月、未亡人となった千姫は出家して天樹院と号し、11月に娘の勝姫と共に本田家を去り江戸に戻った。 姫路を離れ、江戸へ向かうときは、姫路城下町民一同が悲しみの別れを惜しんだといいます。 江戸には弟の3代将軍・家光が待っており、彼女を暖かく迎えたと言われている。 それから千姫は江戸の竹田御殿で余生を過ごし、1666年2月6日に亡くなっている。享年70歳。 姫路城の西の丸は、どことなく女性的なやさしい雰囲気をたたえた場所で、天守閣を中心とするお城の建物を右に見て、鷺山の崖にそって築かれています。 本多忠刻へ嫁いだ時、千姫の化粧料10万石で造営された殿舎。 門のある台所、二層の化粧櫓、侍女たちの住む塗りごめの百間廊下ともいわれる延々と続く長局。 見事な庭園、屋形船をうかべた内濠、いずれも千姫の心をなぐさめるための造りだったという。
北の政所(正室)後に高台院1542-1624┃
近衛信輔(左大臣) ┃加賀局(前田利家娘)1572-1605
二条昭実(前関白) ┃┃
┗ 豊臣秀吉(関白)1536-1598 姉川合戦:浅井、朝倉討伐
┃ ┃┃ ┃┣ 豊臣秀勝1570-1576 山崎合戦:明智光秀討伐
┃ ┃┃ ┃┣ 娘1571-1571 賤ケ岳合戦:柴田勝家討伐
┃ ┃┃ ┃南殿(山名善幸娘)
┃ ┃┃三の丸殿(信長九女)
┃ ┃姫路殿(信長の弟信包の娘)
┃ ┣ 豊臣秀勝1569-1592(信長の四男で妻はお江与、子は茶々が養育)
┃ ┗ 豊臣秀次1568-1595(近江八幡城主)
┃ ┣
┃ ┣一の台局(元秀吉の妾)-1595
┃ ┃ ┣ 美耶姫-1595
┃ ┃三条顕実
┃ 菊亭晴季(右大臣)1539-1617 側室:おいちゃ
┃ ┣奈阿姫1609-1645(天秀尼:千姫が養母)
┣ 豊臣鶴松1589-1591(3歳で病死)┣豊臣国松1608-1615(斬首)
┣ 豊臣秀頼1593-1615(大阪夏の陣で母と自害)
お市の方┃ ┃乳母は大蔵卿局
┣ 淀君 茶々1569-1615 ┃ ┣ 大野治長
┃ ┃ ┣ 大野治房
┃ ┃ 大野佐渡守
┣ お初1570-1633(常高院) ┃
┃ ┣ 忠高 ┃
┃ 京極高次1563-1609 ┃
┣ お江1573-1626(崇源院) ┃
┃ ┃ ┣ 千姫 ━━┛1596-1666
┃ ┃ ┣ 子々姫
┃ ┃ ┣ 勝姫
┃ ┃ ┣ 長丸
┃ ┃ ┣ 竹千代(家光)
┃ ┃ ┣徳川秀忠
┃ ┃徳川家康
┃ 佐治与九郎一成(母は信長の妹)
┣ 万福丸
┏ 浅井長政 武田孫八郎元明1552-1582(光秀に加担したとして自害)
┃ ┣ 武若
┗ 姉マリア ┣ 俊丸
┣ 京極局(竜子)1557-1634 後に芳寿院
┣ 京極高次1563-1609
近江源氏佐々木京極高吉