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知恩院 法然上人御廟

2009年07月12日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 知恩院は祇園から東へ向かって東山三十六峰のひとつである華頂山の麓にあり、東福寺と並んで日本最大の三門を誇ることでも知られている。 三門とは三解脱門を意味し、空・無相・無作の解脱を意味するという。 法然ゆかりの寺であると同時に将軍家の権威と天皇家の格式を兼ね備えた寺でもある。 徳川家康の手によって整備され、徳川将軍家の菩提寺として栄え、また後陽成天皇の第八皇子・良純法親王を門主に迎えたことから門跡寺院にもなっている。 知恩院の開創は800年前に遡り、法然が開いた念仏道場を起源とする。 現在の知恩院の御影堂あたりを含む一帯にいくつかの坊を設けて専修念仏を伝えたという。 しかし1207年旧仏教勢力からの攻撃を受けて流罪となり坊は荒廃する。 4年後赦免され京都に戻った法然は慈円(法然最大の庇護者・九条兼実の弟)の配慮で南禅院という坊舎にはいった。 現在の知恩院の勢至堂あたりである。 しかしまもなく法然は臨終を迎えた。 日本一を誇る三門には釈迦如来像が安置され、三門を建てた大工の棟梁・五味金右衛門夫妻の棺がある。 巨大な三門を完成はさせたものの予算を超えたために自害したとか、建物の秘密を知っている者は邪魔者として消されたとか、伝説は数多く残されているらしい。 親鸞は法然の教えをこの地で受け継ぎ、蓮如もこの近くで生まれたという。 法然の念仏をより深く親鸞が発展させ、蓮如が親鸞の念仏をより多くの人に広めた。 それはまさに今から800年前の出来事であり、2011年には法然の800回忌と親鸞の750回忌が重なる。

 源 頼朝に仕えた熊谷次郎直実は法然の熱心な帰依者であった。 1184年一の谷の合戦で直実は鎧姿も麗しい若き武者を組み伏せて首を討ち取った。 あいてはもちろん平敦盛である。 武士の身の無常を痛感した直実は後に出家して蓮生と名乗る。 出家の翌年に上洛して法然に対面した直実は、以来熱心な専修念仏の行者として法然に仕えて念仏行に励んだという。 東国の御家人には法然に帰依した武者は数多く、鎌倉源氏政権樹立の影には武者の苦闘がうかがえる。

 

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