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2009年07月15日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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朱子学の祖・藤原惺窩

2009年07月15日 | 池波正太郎 江戸時代

 藤原惺窩1561〜1619は三木市細川町の荘園を領した冷泉為純の第三子として生まれたが、神童と呼ばれ、幼少のころ播州竜野で剃髪して宗舜となった。 十八歳の時、父為純が三木城主別所長治に滅ぼされたが、姫路の書写山に陣していた羽柴秀吉に会い仇討と家名再興を願い出ている。秀吉に「時期到来を待つように」とさとされた宗舜は、京都に上り叔父泉和尚のいる相国寺を訪れ、ここで仏教と儒学を学んだ。 天正八年、三木城は秀吉の手に落ち、同十五年秀吉は天下を平定した。十八年には朝鮮から三人の使者がやってきたが、この時に宗舜に命じて大徳寺で使者との筆話をやらせた。惺窩が仏道を捨て儒学に道を求めたのは、この時からである。 学問好きの徳川家康が二千石の大禄で迎えようとしたが、意のままに暮らす楽しさを捨てず一度は固持している。やがて再三の招きに江戸へ出た惺窩は、家康や家臣に進講した。 徳川三百年の官学の祖といわれる林羅山も、慶長九年、四十四歳の惺窩に入門している。翌十年、家康が京都二条城へ惺窩を招いたが、仕官の意志がないため、羅山を代行させたのが、家康と羅山との結びつきとなった。 惺窩を師と仰いで交わりを結んだ人に、紀州城主の浅野幸長、保津川の土木工事で知られる角倉了意などがある。1619年に亡くなり相国寺に葬られた。 徳川三百年の長い歴史は惺窩の学問の影響で続けられたといわれ、逆にその尊皇の志が倒幕の士を生んだともいわれている。

惺窩「生誕の地」の碑

  

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