1184年元暦元年二月七日、一の谷の合戦の火蓋はこの神戸、三宮神社付近で始まった。源氏方のさきがけとなったのが、この河原神社に祀られる河原兄弟であった。先陣をなした河原兄弟であったが、この地にて討ち死にする事となる。また、平氏方の平知盛(清盛四男)と平重衝(清盛五男)は生田の森に布陣し、正面の敵主力・源範頼相手に一歩も退かない戦いぶりを見せた。 神戸、かつての福原は平清盛が一代で築き上げた拠点である。1180年まで、ここに都があったが京都に移された。宋船も入ることのできるように造られた港は平家の力を示すものであった。都落ちの際、平家は泣く泣く福原にも火を掛けるのだが、今平家はまさに都へ上らんと、軍勢をそろえて、平家の都福原に舞い戻ってきたのだった。山と海にはさまれた福原、一の谷は難攻不落の要害でもある。 まさに、合戦のスポットでもあったのです。 この生田神社付近には、平家の生田方面の本陣があった。生田の森には、大将軍平知盛ら平家方の名だたる武将が布陣していた。 後白河法皇と和議の話などがあり、平家方には少し油断があった。それでも、この一の谷の城郭は山と海にはさまれた難攻不落の要塞であり、平家方には源氏との戦いに備えていた。まさか、義経の鵯越があるとは知らずに・・・。 平家はこの奇襲によって総崩れとなり、海上へと逃れていこうとする。その戦いの中でも、熾烈を極めたのが、戦の浜付近であった。今の須磨浦公園。浜では、平知章が父平知盛の代わりに討ち死にするなど、悲劇が繰リ広げられた。平敦盛の最期は平家物語の中でも最も有名で、涙を誘う話である。(熊谷次郎直実との須磨波打ち際での個人戦は、以前の紹介参照)平家が壇ノ浦で滅亡するのは、この1年後である。 一の谷の合戦で捕虜となって鎌倉に送られた平重衝については、頼朝の随一の白拍子・千寿との悲しい恋物語が涙を誘います。