平安時代後期を院政時代という。 院とは天皇が譲位後になる法皇とか上皇のことである。 したがって院が大きな力を持ち、権力を握った時代ということになります。 当時、豪族はその地方を治める国司(今の県知事)に任命されると、徴収した税金の一定額を中央に支払うと、残りは自分のものとして着服しても良かった。 これを利用して巨万の富を築いたのが平正盛・忠盛なのです。(因みに若狭、因幡、但馬、丹波国司などを歴任) 院政期にはこうした受領層が政治の中心にのしあがる時代でした。何故政治の中心か、といいますと着服して得た巨万の富を中央に献上することにより、院に近づき官位を頂くという構図です。上流貴族でもなんでもない平正盛が従四位上、平忠盛が正四位上というのは異例のことだったようです。 殿上人とは宮廷の清涼殿へはいる許可がある人で、基本的に五位以上の資格が必要なのですが、平家は財にものをいわせてこの官位を授かったのです。 こうして平家は白川上皇の側近として不動の地位を獲得していきます。当時の左大臣(今の総理大臣)藤原頼長は正忠の巨万の富を日記に記しているらしい。 当時白川上皇には東山・祗園の近くに住む祗園女御という女性を寵愛していました。しかし女御ではありません。女御は中宮の次の天皇のお后の位で、貴族出身でないとなれませんので愛称として呼ばれていたと考えられます。平家物語では祗園女御は、その後平忠盛の妻になったとあります。1105年、祇園社の南東に堂を建立して、丈六阿弥陀仏を安置し金銀珠玉で飾り立てるなど「天下美麗過差」の様は人々の耳目を驚かせたという。身辺には平正盛が早くから仕えていて、藤原璋子(待賢門院)を養女としていた。また、祗園女御には兵衛佐局という妹がいて、姉同様白川上皇と関係があったが、身篭ったまま忠盛に嫁ぎ男子を産むと、その子は祗園女御に養われ後の平清盛となったというのである。 西国三十三ヶ所巡りの二十五番所・播磨清水寺には祇園女御縁の大塔跡があります。 その横には珍しい真っ白な紫陽花が咲いていました。
堀河天皇
┣鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚
藤原苡子┃ ┃ 佐藤義清(後の西行)も護衛
┃ ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)
祇園女御 ┣顕仁親王75崇徳1119-1164 ┣
┣清盛? ┃ ┣重仁親王1140-1162 源渡
┃ ┃ ┃ 乳母:有子
┗━━━┓ ┃ 藤原聖子1122~1181藤原忠通娘 皇嘉門院
藤原基子1049- ┃ ┣雅仁親王後白河天皇77代1127-1192(藤原通憲(信西)側近)
┣実仁親王 ┃ ┣禧子内親王1122-
┃(白河皇太子) ┃ ┣覚性入道親王1129-1169仁和寺門主
┣輔仁親王 ┃ 藤原璋子(待賢門院)1101-1145公実・娘
後三条天皇 ┃ ┃ (祇園女御,白川に寵愛)
┣白河上皇72代1053-1129貞仁親王 六条帝
藤原茂子