後醍醐天皇の討幕は2回行われた。 その一回目は1324年の正中の変は後醍醐天皇の無礼講メンバー多治見国長、土岐頼兼、日野資朝、日野俊基らによって実行された。 この行動の直接のきっかけは大覚寺統の後宇多法皇の死去である。 後宇多は後二条、 後醍醐天皇兄弟の父であり、大覚寺統では後醍醐天皇の次の天皇は後二条の子・邦良親王と決められていた。 本来なら兄の後二条が後を継ぐ予定であったが、早くに死んだために次男の後醍醐天皇がつなぎとして即位した。 ところが後宇多が死んでしまったから皇太子の邦良親王の立場は微妙なものとなる。 そこで、邦良親王は幕府を動かして後醍醐天皇を退位させ、一刻も早く天皇になろうと考えたのである。 鎌倉武士に強要され実権のない上皇になることに抵抗を覚えた後醍醐天皇は決行した。 幕府の京の拠点である六波羅探題を襲撃して北条範貞を殺害すると、奈良興福寺の僧侶に挙兵させ、機内の武士を呼びかけた。 一気に鎌倉に圧力をかけようというのである。 ところがこの計画が土岐頼兼の舅にあたる斉藤利行という六波羅の御家人の耳にはいり漏れたのである。 これにより先手を打った六波羅は多治見国長、土岐頼兼を滅ぼして、日野資朝、日野俊基を生け捕りにされ、 資朝は佐渡に流罪、俊基は放免という寛大な処置であった。 後醍醐天皇はこれに懲りずに六波羅の要人・伊賀兼光を寝返らせ、楠木正成、足利尊氏、新田義貞といった有力御家人を味方につけていく。 楠木正成は河内の出身であるが、その家系、身分は不明である。 ただ楠木正成が幼少の頃朱子学を学んだという河内の観心寺は後醍醐天皇の属する大覚寺統の寺であり、後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を通して繋がったらしい。 二回目の討幕計画・元弘の変は1331年起こった。 しかしまたもや側近の吉田定房によって鎌倉にしらされ計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流された。 しかし後醍醐天皇は笠置山に脱出すると、ここで挙兵し、楠木正成は本拠地で呼応した。 このとき幕府は本格的に笠置山を攻めて落城させている。 この時の幕府側の大将が足利尊氏である。 後醍醐天皇は捕獲され京に連行されると、二条為子との間にできた尊良親王は京で捉えられ、護良親王は吉野にはいった。 護良親王はもともと延暦寺の僧・尊雲法親王として押し込められていたが、還俗して護良親王と改名していた。 このとき楠木正成は河内の赤坂で孤立状態で奮闘していたが、とうとう夜陰に乗じて逃げてしまった。 百倍もの敵を相手にまんまと逃げおおせたというのは勝利に等しい。 後醍醐天皇は隠岐へ流罪、宗良親王は讃岐、尊良親王は土佐に流され、持明寺統の量仁親王(後伏見天皇と西園寺寧子との間の親王)が即位して光厳天皇となった。 このとき護良親王と楠木正成は俄かに体力を回復させていた。 幕府はこれをみて、再び大軍を動員して二人の征伐を決意する。 しかし楠木正成の奮闘中に、1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年という豪族の支援を受けて船上山で挙兵し全国の武士に討幕の綸旨をばらまいた。 名和長年公は鳥取県大山町界隈の豪族(海運業を営む名和氏の当主)で、後醍醐天皇が隠岐を脱出する際に前面協力をしたことから、建武の新政権では河内の豪族・楠木正成らとともに重用された。 尚、大山町の日本海に面した漁港には後醍醐天皇が腰をかけて休んだといわれる岩が史跡として残っています。
楠木正成らの奮闘に全国の武士は勢いづくと、幕府は再び足利尊氏を投入する。 ところがここで足利尊氏は後醍醐天皇の綸旨を受けて幕府討伐側に寝返ったのである。 足利尊氏は諸国に呼びかけて軍勢を加え京に進撃し六波羅を陥落させた。 このとき幕府の本拠地である鎌倉を攻撃して陥落させたのは尊氏ではなく新田義貞である。 両者の家系は源氏の本流に遡る。 八幡太郎義家の子・義親の系統が源頼朝の本系統であるが、義国には兄・義重と弟・義康がいて、義重が新田を名乗り、義康が足利を名乗った。 尊氏が攻めた六波羅探題はあっけなく陥落し、探題の北条仲時は北朝の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇をつれて鎌倉へ逃げようとしたが、近江で完全に阻まれ、絶望した仲時は伊吹山の蓮華寺にはいり一族全員430人余りが自害した。 一方関東では新田義貞を大将軍とする軍勢は鎌倉を目指し、北条高時以下一門は菩提寺の東勝寺にはいり六波羅と同様に自刀した。 これにより150年続いた鎌倉幕府は1333年に滅亡したのである。 後醍醐天皇が政権に復帰すると、光厳天皇を廃して建武の新政を始めた。つまり律令政の復活と天皇親政である。 後醍醐天皇は土地所有に対する習慣、既得権を白紙にもどした。また、知行国制を取りやめた。 これは特定の家系が国司の任免権を独占し世襲させる制度であり、多くの貴族が私物化していた土地を取り上げられることになる。また、関白職そのものも廃止し、征夷大将軍には尊氏ではなく、護良親王を任命した。 当然足利尊氏は激怒し、後醍醐天皇と対立する持明寺統の公家達は知行国を召し取られて対立していく。 そして後醍醐天皇の夢であった大内裏の建設を始めたのであるが、その費用は全国の地頭、御家人からの税金によりまかなおうとした。 これでは武士たちが不満を持つのは当然である。 そして新政の崩壊は旧幕府系の人々の反乱によって始まるのである。 北条高時の遺児・時行が反乱の首謀者である。 また後醍醐天皇に解任された大納言・西園寺公宗は各地の北条氏の残党を集めて、再び持明寺統を立てようと画策した。 この時、密告により公宗は逮捕され持明寺統の後伏見、花園、光厳上皇は幽閉されたが、北条時行の軍勢は諏訪の豪族・諏訪氏に庇護されながら1335年に兵を挙げた。 公宗を密告したのは弟の公重で、西園寺の家督を得たうえに知行国の返還という恩賞を後醍醐天皇から与えられている。 また、大納言・西園寺公宗は出雲国へ流刑となったが、その途中で処刑したのは名和長年である。 足利尊氏が建武政権から離脱すると、楠木正成、新田義貞らと共に宮方として尊氏と戦うが、1336年湊川の戦いの後に京都に入った尊氏に敗れ討死した。
(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
藤原立子(東一条院) ┃
修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇 ┃
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181 ┣84順徳天皇 ┃
┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239 平棟子 ┃
┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王 ┃
┃ ┃ ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃ ┣88後嵯峨天皇 ┃
┃ ┃ ┃ ┣87四条天皇 ┃源通子 ┃┣89後深草天皇┛
┃ ┃ ┃ 藤原竴子 ┃ ┃┣90亀山天皇━┓
┃ ┃北白河院・藤原陳子 承明門院源在子 ┃西園寺姞子 ┃
┃ ┃持明院基家┛ ┃ ┃
┃藤原殖子(七条院) ┣宗尊親王 ┃
┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185) 平棟子 ┃
徳子1155-1214(建礼門院) ┃
┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃ 不明
┃ 姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院) ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣- 阿野廉子 藤原勝子 ┣世泰親王
┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324 ┣成良親王 ┣98長慶天皇
洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王 ┣99後亀山天皇
1245-1272 ┃堀河(源)基子 ┣- ┣義良親王(後村上)1328-1368
(京極院) ┃(西華門院) 藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王 ┣憲子内親王(新宣陽門院)(1343?-1391)
┃ ┃ ┣坊雲
┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339 源顕子?-1359
藤原忠子 ┣懽子内親王 ┃┃┣護良親王1308-1335
西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘
┣西園寺禧子(礼成門院) ┃┣尊良親王
┣左大臣公衡 ┃┣宗良親王
┣太政大臣兼季 ┃二条為子
┣西園寺金章子 藤原実俊┣世良親王
┗西園寺瑛子 ┃┣静尊法親王
┗遊義院一条局