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猛将・加藤清正

2009年07月03日 | 戦国時代

 加藤清正は1562年、尾張の鍛冶屋・加藤清忠の子として生まれる。 幼名は夜叉丸。 父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹であったことから血縁関係にあった秀吉に仕え、1576年に170石を与えられると清正はこれに応えて生涯忠義を尽くし続けた。 1582年に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って明智光秀打倒の山崎の戦いに参加し、1583年の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられたことで一気に武名を轟かせた。 1585年、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下に叙され、1586年からは秀吉の九州征伐に従い、肥後に入った佐々成政が失政により改易される(秀吉により切腹させられる)と肥後の半国のおよそ19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とし、治水以外にも商業政策で優れた手腕を発揮した。 1592年からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵する。 文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置き、別路の先鋒を務め、一番隊の小西行長と釜山上陸後の首都漢城の攻略を競ったという。 漢城攻略後は小西行長(一番隊)、黒田長政(三番隊)と共に北上し臨津江の戦いで朝鮮軍を破る。 その後一番隊、三番隊と別れて、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定すると朝鮮二王子(臨海君・順和君)を生捕りにした。 更には朝鮮の国境豆満江を越えて兀良哈へ進攻するなど数々の武功を挙げている。 1593年の第二次晋州城の戦いでは北面からの攻城を担当し、配下の森本儀太夫、飯田覚兵衛が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。 しかしその後1596年には、石田三成と明との和睦をめぐる意見の対立から秀吉の勘気を受けて一時は京に戻され、 小西行長との対立も深刻化していた。 1597年・慶長の役でも再び小西行長とは別路の先鋒となり、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させ、  全羅道の全州を占領し西生浦倭城‎に駐屯し、 城の東方に浅野幸長や毛利家家臣・宍戸元続が清正支配下の蔚山倭城‎を築城した。 しかし完成間近に明の大軍が攻め寄せてきたために清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城し、毛利秀元や黒田長政の援軍の到着まで城を守り抜いたことで、 清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼上官」と恐れられたという。 1598年秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。 1599年前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら6将と共に石田三成暗殺未遂事件を起こした。 1600年石田三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いでは九州に留まり、黒田如水と共に家康ら東軍に協力して行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを調略、九州の西軍勢力を次々と破り、勲功行賞で、肥後の行長旧領を与えられ52万石の大名となる。 本来武断派として家康につくはずのない清正が結果的には徳川についたのは、文治派の石田三成と肌が合わなかったにすぎない。 1605年従五位上・肥後守に叙され、1610年、徳川氏による尾張・名古屋城の普請に協力し、1611年には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中に発病し、6月24日に熊本で死去した。 清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だったため 1632年改易になった。

 

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