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東本願寺・御影堂

2009年07月13日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 1262年に90歳でこの世を去ったとき、葬儀は娘の覚信尼がとりしきり、遺骨は京都・大谷の地に納められた。 10年後には覚信尼は東山大谷に六角の廟堂を建て、その中に親鸞の墓を移した。 これが現在の本願寺の元となる大谷廟堂のはじまりである。 権威の象徴ではなく覚信尼と東国門徒が協力して建てたものである。 覚信尼は廟堂を守護する役目・留守職に就き、 親鸞の遺族である覚信尼・長男の覚恵、覚如へと継承された。 親鸞が僧侶として初めて妻帯したことで住職の位を世襲で受け継いでいったのである。 しかし、血族である大谷家の内紛などから、覚如は鎌倉幕府に本願寺創設を願いいれたことで、寺院として世に認められるようになり、やがて最高位としての宗主へと発展していった。 大谷廟堂が本願寺となった頃はそれほどの勢力はなかったが、本願寺第八世である蓮如上人の登場により画期的な改革が実行された。 延暦寺からの影響を一掃して本願寺からの重荷も取り去り、動乱の時代の農民や庶民に呼びかけを行ったことで本願寺自身も飛躍的に発展することとなった。

 京都駅のすぐ北に東本願寺はあり、壮大な御影堂門をくぐると世界最大の木造建築である御影堂と南側には阿弥陀堂が並んでいます。御影堂には親鸞聖人の自刻と伝えられている御真影を安置し、阿弥陀堂には本尊の阿弥陀如来像が安置されています。 親鸞聖人御真影には本願寺が東西に分裂して、第12代の教如上人が現在の地に移った(1602年)翌年に、徳川家康の斡旋により群馬の妙安寺から移され御影堂に安置されたという。 御影堂は念仏の根本道場で、東大寺の大仏殿を上回る世界最大の木造建築である。 また、本尊阿弥陀如来立像が安置されている須弥壇の右には聖徳太子、左には法然上人の御影が配されている。

 

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吉子内親王墓

2009年07月13日 | 戦国時代

 知恩院の東の奥の墓地内で偶然見つけたのは吉子内親王1714-1758のお墓です。 霊元法皇の第十三皇女で、生母は右衛門佐局松室・敦子という。 異母兄には東山天皇、同母兄には有栖川宮職仁親王(有栖川宮第5代当主で霊元天皇第17皇子である。 有栖川宮の第4代当主正仁親王が嗣子なく没したことから有栖川宮を相続し有栖川流書道を創始した。 )がいる。 1714年11月6日に、わずか生後1ヵ月で時の将軍徳川家継(6歳)と婚約する。 もちろん強引な婚約の背景には当時の政治的思惑があり、大奥では家継の父・徳川家宣の正室・天英院と側室で家継・生母の月光院が権力争いをしていた。 一方京都では、内親王の父である霊元法皇と天英院の実父・近衛基熙が権力争いをしていた。「正徳の治」を推し進める側用人・間部詮房や朱子学者・新井白石は、若年の将軍の権威付けのために皇女の降嫁を計画しており、天英院に対抗する権威を朝廷に求めた月光院も賛成したということである。 ところが、納采の儀のわずか2ヶ月後の1716年6月に家継が死去したため、史上初の武家への皇女降嫁、関東下向には至らなかった。1732年出家後の法号はを浄琳院宮。

知恩院・吉子内親王墓

 

持明院基子-1644
┣堯然親王1602-1661
┃中山親子
┃┣良仁親王(覚深法親王) 櫛笥隆子(逢春門院)
107後陽成天皇        ┣桂宮3穏仁親王  明子女王(好仁親王娘)
 ┣聖興女王 水無瀬氏子  ┣光子内親王     ┣八条宮(桂宮4)長仁親王 
 ┣清子内親王 ┣性承法親王┣有栖川宮2良仁親王(111後西天皇)┏有栖川宮4正仁親王
 ┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680       ┣有栖川宮3幸仁親王
 ┣尊英女王   ┃┃┣興子内親王(109明正天皇) 清閑寺共子
 ┣近衛信尋   ┃┃┣昭子内親王1625-1651
 ┃       ┃┃┃ ┣近衛基熙(左大臣)  ━┓1648-1722
 ┃       ┃┃┃ ┣好君(伏見宮貞致親王妃)┣近衛熙子1666-1741(天英院)
 ┃       ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣) ┃ ┣豊姫1681-1681
 ┃有栖川宮初代 ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室)┃ ┣夢月院1699-1699
 ┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王         ┃徳川家宣1662-1712(6代将軍)
 ┣一条昭良   ┃┃徳川和子(東福門院)1607-1678 ┃ ┣家継1709-1716(7代将軍)
 ┣貞子内親王  ┃┣紹仁親王(110後光明天皇)   ┃ ┃┣-
 ┣庶愛親王   ┃┣守澄法親王         ┃ ┃吉子内親王1714-1758         
 ┣尊蓮女王   ┃園光子(壬生院)       ┃ ┃       
近衛前子(中和門院)┣常子内親王1642-1702     ━┛お喜世1685-1752(月光院) 
                  ┣堯恕親王1640-1695      
                  ┃五条庸子1660-1683      
         ┃┣堯延親王1676-1718    ┏8幟仁親王       鷹司吉子      
         ┃┃松室敦子-1745    ┏7韶仁親王       随願院┣5愛仁      
         ┃┃┣堯恭親王1717-1764┃不明           ┣4孝仁親王      
         ┃┃┃      不明 ┃┣済仁親王        ┃女房むめ
         ┃┃┃ 不明    ┣有栖川6織仁親王   大江磐代┃┣喜久宮
         ┃┃┃ ┣覚仁親王 ┃  幸子女王(承秋門院) ┣閑院宮3美仁親王
         ┃┃┣有栖川宮5職仁親王 ┣秋子内親王    ┃女房りて 
         ┣識仁親王(112霊元天皇) ┃ 讃岐(伊藤一中娘)┃┣深仁親王
 園国子(新広義門院)┃┃ ┣栄子 ┣朝仁親王(113東山天皇) ┣閑院宮2典仁親王┓  
          ┃┃鷹司房子 ┃        ┃   ┃    ┣鏗宮  ┃
          ┃┃新上西門院┣京極文仁親王  ┃   ┃    交野    ┃
          ┃┣寛隆法親王┃ ┣守恕親王  ┃   ┃ 五条寛子    ┃
          ┃愛宕福子  ┃家女房     ┃   ┃ ┣遵仁法親王 ┃
          ┣吉子内親王 ┃        ┃閑院宮┃ ┃小森頼季娘 ┃
         敦子┣-    松木宗子(敬法門院)┣1直仁親王 ┃┣慈仁親王 ┃
            徳川家継1709-1716      ┣慶仁親王(114中御門天皇)┃    
                    櫛笥賀子(新崇賢門院) ┃        ┃
                             ┣昭仁親王━┓   ┃
                           近衛尚子    ┃   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛   ┃
┃姉小路定子(開明門院)       近衛維子(盛化門院)            ┃
┃      ┣遐仁親王(116桃園天皇)  ┣欣子内親王(光格天皇中宮)     ┃  
┗昭仁親王(115桜町天皇)     ┣英仁親王(118後桃園天皇)         ┃  
  ┣智子内親王(117後桜町天皇) 一条富子(恭礼門院)             ┃        
 二条舎子(青綺門院)                            ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃大中臣祐智女 欣子内親王                  
 ┃ ┣美仁親王   ┣温仁親王 鷹司繁子(新皇嘉門院)           
 ┗典仁親王    ┣悦仁親王 ┣安仁親王       
  ┣兼仁親王(119光格天皇) ┣慈悲心院宮    九条夙子(英照皇太后)         
  大江磐代(蓮上院)┣恵仁親王(120仁孝天皇)  ┣122明治天皇                 
         勧修寺婧子┃ ┣恵仁親王(121孝明天皇)    
              ┃正親町雅子(新待賢門院)     
              ┣摩尼珠院宮     
             鷹司祺子(新朔平門院) 

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