東福寺は禅宗寺院の代表格であろう。最大規模の禅堂の目的は、現実の世界から遮断された空間でひらすら禅を組むことにある。 大日如来像の座位を結跏趺坐というが座禅の基本的な座り方である。 実は座禅のほかにも寝禅といって寝たままの姿での禅もある。 昔は臥禅といったらしいが、ほかにも行禅、立禅などさまざまである。 奈良の東大寺と興福寺の東と福を譲り受けた東福寺の創建は1236年に遡る。 もともと法性寺という藤原忠平が建立した寺が平安時代中期にあった。 この法性寺の境内に仏殿を建立したのが九条道家・鎌倉前期に摂政・関白を務めた実力者である。 鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経の父でもあり、幕府と結んで政界に大きな勢力を振るっていた。 中国から帰朝した臨済宗の円爾弁円を東福寺の開基に迎え、九条一族はことごとく弁円に帰依したという。 道家は仏殿に続いて七堂 伽藍の造営にもとりかかったが完成前になくなり、その後の造営は子に受け継がれて1255年にようやく完成した。 東福寺の法灯は円爾の弟子に受け継がれ藤原氏一門の九条家、一条家の庇護のもとにさかえ、室町時代に頂点を迎えた。 そして京都五山に列せられ、禅宗の世界では円爾の一派がいかに大きな勢力をもったかが伺える。 東福寺境内には36の塔頭や子院が甍を並べ、その壮観さは「東福寺の伽藍面」といわれるほどであったが、14世紀前半には三度の火災を受け、応仁の乱で伽藍を失った。 しかし豊臣秀吉や北の政所ねねの援助によって復興したのである。また徳川三代将軍・家光が諸堂を修復し皇室との関係も深めていった。 巨大な法堂の須弥壇には本尊の釈迦立像が安置され脇侍は迦葉尊者と阿難尊者像である。 法堂から開山堂で続く紅葉の名所として知られている通天橋ができたのは1380年のことで、僧たちの苦労を取り除くために春屋妙葩がつくったらしい。春屋妙葩は夢窓疎石の高弟で、相国寺の第二世住持である。
源顕信娘
┣道経
┣基教(鷹司家)
┣家実1179-1243(良経後猪隈関白)
具平親王 ┃ ┣家通
┗源師房 ┃ ┣兼経
┣源俊房1035-1121(堀河左大臣)┃ ┗兼平(鷹司家の祖 摂政関白)
道長┣源顕房1037-1094(六条右大臣)┃ ┣兼忠
┣尊子 ┃┣源国信 藤原忠隆娘 ┃ ┗基忠
明子 ┃雅実 ┣信子 ┣基通(1160-1233後白河上皇から寵愛 後鳥羽摂政)
┃ ┃ ┣近衛基実(1143-1166近衛家の祖 二条関白 六条摂政)
┣賢子 ┃ ┃ ┣
隆子┣堀河┃ ┃ 盛子(平清盛娘)
白河 ┃ ┃ 三条公教娘 花山院忠雅娘忠子(安徳乳母)
┃ ┃ ┣藤原家房 ┣伊子(木曾義仲側室)
┗ ┃俊子 ┣藤原隆忠 ┣松殿師家
┃┣近衛基房(後白河側 松殿祖 六条高倉摂政)
┣┛
┃藤原仲光娘・加賀
┃┣九条兼実1149-1207(頼朝推薦 後鳥羽摂政 関白)
┃┣兼房┣良通
┃┣慈円┣良経1169-1206(土御門摂政 後鳥羽推薦)
┣┛ ┃ ┃藤原清季娘
┃ ┃ ┃ ┣忠成王1221-1279(四条皇太子)
┃ ┃ ┃順徳天皇(守成親王)1197-1242
┃ ┃ ┃ ┣諦子内親王1217-1243
┃ ┃ ┃ ┣85仲恭天皇1218-1234
┃ ┃ ┃ ┃ ┣義子内親王
忠実 ┃ ┃ ┃ ┃ 右京大夫局
┣泰子(高陽院1095-1155)┃ ┃ ┃ ┃
┗忠通(法性寺関白1097-1163) ┃ ┃ ┃ 徳子(建礼門院)
┗藤原呈子(伊通娘) ┃ ┃ ┃ ┣安徳天皇
┣- ┃ ┃ ┃ 高倉天皇
近衛天皇1139-1155 ┃ ┃ ┃ ┣82後鳥羽天皇1180-1239
頼長 ┣- ┃ ┃ ┃信隆 ┣守貞親王1179-1223(後高倉院)
┗藤原多子(公能娘) ┃ ┃ ┃┣坊門殖子 ┃
┃ ┃ ┃休子 ┃
┃ ┃ ┃ ┣利子内親王
┃ ┃ ┃持明院通基 ┣邦子内親王1206-1283
┃ ┃ ┃┣持明院基家 ┣86後堀河天皇1212-1234
┃ ┃ ┃源師隆娘┣藤原棟子 ┃
┃ ┃ ┃ ┗基宗 ┃
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┣立子1192-1247 ┣子内親王
┃ ┣道家1193-1252(仲恭摂政)┣87四条1231-1242
┃能保娘 ┣九条竴子(藻壁門院) ┃
┃ ┣教実(九条家を継ぐ) ┣-
┣任子-1238 ┣良実(二条家の祖)┗彦子(宣仁門院)
季行娘┃ ┣頼経(鎌倉4代将軍)
┣昇子 ┣実経(一条家の祖)
82後鳥羽天皇 綸子(西園寺公経娘)
┃┣83土御門天皇1195-1231
┃源在子1171-1258 ┗邦仁王(後嵯峨)
┣84順徳天皇1197-1242
┣雅成親王1200-1255(承久の乱で但馬へ配流)
藤原能兼 ┏高倉重子1182-1264(修明門院)
┗藤原範季(高倉流祖)