ここ一の谷北方の三草山は源義経が一の谷に奇襲をかける前の通り道であり、平資盛と弟の師盛は三草山の守りを命じられていた。 しかし、義経に遭遇した資盛、師盛兄弟は敗退する。 資盛はいったん逃れて助かったが、師盛は一の谷で戦った後、沖合いの味方の船に戻ろうとして源氏に討ち取られた。 このとき14歳、平家一門では最年少の死であったという。 あまり知られてはいませんが、平家物語ではちゃんと登場しています。
1184年2月4日の早朝(一の谷の戦いは2月7日)、都を千騎ほどの騎馬武者と共に出立した義経一行は、現在の住山字ツドイ(社町の東)に集結すると、搦め手の軍勢三千数百騎となって小野原・三草山に向かった。 三草山の合戦(加東郡社町)は、義経の郎党が流した厭戦気分の流言を真に受けた平家が、源氏を打ち砕くのに充分と思って配備した軍勢が、源氏の軍勢より少なかったことと、4日は平相国の三回忌で戦いをしないと言う情報から、戦は翌日と決め込み、鋭気を養うために休んでいた真夜中、5日に入ったばかりと言う時刻に平家は襲われた。 不意を突かれた平家は、義経が囲みの一端を開けていた闇の中を加古川沿いに高砂方面に逃げ去った。 これを襲う義経勢も20里という二日路を一気に走破していた後の合戦であり、木梨まで追ったが、それ以上は体力の限界とばかり、用心にと白旗を無数に掲げて休んだ。
登山道入口から三草山古戦場まで約2.5km