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赤松氏範一族憤死の地

2009年07月07日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 赤松氏範は1329年に赤松則村(円心)の四男として生まれ、則村の命で一人南朝に仕えた。 父則村が没した後の後醍醐天皇の崩御後も南帝に仕え、忠誠を捧げたという。 1351年、兄・赤松則祐が南朝に帰順し、護良親王の皇子陸良親王を奉じて兵を集め、分裂した皇室や公家を元のように一つにして天下の平和をもたらそうとしたが果たせず、再び足利方に与党した。 則祐より、足利将軍に仕えるよう度々言い送ってきたが、南朝帝に仕える。 この氏範の忠義に対して後村上天皇は桐に鳳凰の御旗を与えた。 氏範はその恩に報いるべく京都攻略に加わり、北朝方を散々に破っている。 その後、氏範は南朝御所吉野の赤松宮のもとに仕えていたが、1360年の赤松宮反逆の挙に加わり南朝賀名生宮を焼討ちにしたが、南軍の反撃に総崩れとなった主君赤松宮をみはなすことは武士の本意にあらずと、氏範主従二十余騎は身を挺して防戦につとめ、赤松宮を奈良に落とさせた後に降伏し、吉野を去って兄則祐のもとに帰った。

 1361年、氏範は摂津国を領し、嫡男氏春に道場河原佐々城、次男家則に桑原大浪山城、三男祐春に船坂城、四男季則に福島岡山城を夫々構築させ基盤を警固なものとした。 1368年氏範が摂津国中嶋郡江口五箇荘に踏み入り乱暴すると、幕府は播磨守護職である兄・則祐に命じ氏範の横領を止めさせたが、氏範はこれを不満として、再び南党としてその所領に兵を起こしたが敗れ、三田に帰る。 1386年、氏範は今一度、足利将軍の目を覚まさせ、討ち死にして末代の亀鑑に備えんと、京都に攻め寄せたが、将軍を討ち取ること叶わず、播磨国に引き退いた。 幕府は赤松氏範討伐軍を編成し、山名氏清を大将に軍勢を差し向け、氏範一族の籠もる清水山を包囲して攻略するも、容易に落とすことが出来ず、新たに管領細川頼元を大将に任じ、播磨に下った。 氏範はこれを聞くと、 赤松一門の将が包囲軍に加われば、同族血で血を洗うことになり、悔いを後世に残すことになると、氏範は兵を纏め本陣清水山に引揚げ、子息四人並びに一族郎党ともども今生の別れを済ませ自害した。 氏範討伐軍に従った兄則祐の子、播磨守護職赤松義則は叔父氏範の冥福を祈願して、追善のため供養田を終焉の地・播州清水寺に寄進した。 

村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
          ┣顕房1037-1094-季房-季則--赤松則景-家範-重則→
         藤原尊子1003-1087(藤原道長娘)
→赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘 
   ┗赤松氏範1330-1386      ┣
    ┣氏春          赤松義村?-1521(置塩城主)
    ┣家則           ┣赤松晴政1513-1565
    ┣祐春           ┗赤松政元1500-?(上月城主)
    ┣季則
   ┗乙若丸   

 

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