平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

街角の胡蝶蘭

2009年07月18日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

コメント

西本願寺・阿弥陀堂

2009年07月18日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 2011年は親鸞聖人の750回忌にあたり、親鸞の御真影が安置されている御影堂が三百数十年ぶりに改修されている。西本願寺の南側には唐門といわれる彫刻の門があり豊臣秀吉が建立した伏見城の遺構といわれる国宝である。 本願寺が東西に分裂したのには理由があり、 ひとことでいうと本願寺が強大になりすぎたがゆえのものである。 1465年には強大な本願寺を怖れた比叡山は打ち壊す挙にでた。寛正の法難である。蓮如は河内、近江、堅田などを転々とめぐって1471年越前の吉崎に坊舎を建てた。  1478年第8世・蓮如によって 山科本願寺が起工され、1480年には御影堂を建立して本願寺を再興すると、勢力は拡大していった。 しかし、山科本願寺が細川晴元により焼き討ちにあい、石山本願寺に移ったことで、ここに広大な寺内町を形勢した。 蓮如の死後、実如、証如、顕如の時代には織田信長によって石山本願寺の明け渡しを要求され、約11年もの間争いは続いたのである。 1580年、 織田信長は朝廷・正親町天皇の斡旋によって本願寺の和議が受け入れられ石山本願寺の敷地は明け渡されることとなった。 しかし、強固に退去を拒んだのが第11世顕如の長男・教如であった。 やがて寺を焼き紀州に落ち延び、顕如も転々とするが、豊臣秀吉と友好を結んだこおで、都市計画の際に七条堀川に寺地を与えられた顕如は西本願寺として寺を興した。 顕如が没した後京に戻った教如が後を継ぐが、最後まで明け渡しの反対をした教如は引退を余儀なくされ弟の准如が第12世を継ぐ。 秀吉に代わって政権を握った徳川家康は隠居の身であった教如に土地を寄進し新たにもう一つの本願寺を作らせた。 それが東本願寺で、結果的には家康の家臣・本多正信の進言により東西に分裂した本願寺は強大な勢力をなくしたこととなる。 顕如が門主だった頃には経済的に窮乏していた朝廷に財政援助をしており、1559年には寺格としての最高位である門跡に列せられ、現在本願寺には当時の貴重な品々が国宝として残っている。

阿弥陀堂と御影堂

 

コメント

法然と知恩院

2009年07月18日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 知恩院は、浄土宗の宗祖・法然が現在の知恩院・勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。 法然は1133年、美作国に生まれ、13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度する。 18歳で比叡山・西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空と改名した。 「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りたのは43歳の時であった。 「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に阿弥陀如来の名を唱え続ければ極楽往生できるとする当時は画期的な思想であったが、旧仏教側からは激しく糾弾され、攻撃の的となった。そのため1207年には讃岐国に流罪となり、4年後の1211年には都に戻るが、翌年80歳で没した。 法然の住房である知恩院勢至堂付近での法然の布教活動は、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、ここに法然の廟が造られたが1227年、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう。 1234年、法然の弟子にあたる勢観坊源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜され、応仁の乱などで幾度となく焼失しえは再興された。  現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍建設が行われたのは江戸時代で、浄土宗徒であった徳川家康は1608年から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、日本一を誇る三門は1621年に建設された。 徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であり、京都における徳川家の拠点とすることによって徳川家の威勢を誇示し、朝廷を牽制する背景もあったという。

空・無相・無作の解脱を意味する三門と男坂・女坂

 

 

コメント