前回、民藝と聞くと寅さんを思い出してしまうという話をしたのだけど、一体そのつらさはどこからくるものなのだろうか。
民藝は優越的立場の人、ブルジョワジーだったりが、プロレタリアートを評価するものであるが、その、一瞬「嫌らしい」感じは、ブルジョワジーに対しても、プロレタリアートに対しても上位から語ってしまっているところだろう。優越的立場にいるのに、優越の享楽に浸る人とは違い自分は民衆の美をも理解できるのだ、という他の富めるものの堕落とは一線を画しているという特別感。民衆に対しては、富める私ではあるがあなた方の美を理解できるのだという特別感。どちらの側に立つというリスクを負わず、安穏な立場から美を語っているように見えてしまう。
また、一生、東大卒と通行手形をスタンプされる経歴を持ちながら、フーテンを評価するという特別感。民藝も寅さん監督も、素直に素敵だと思ったのに違いないのに、付き纏ういやらしい感じから逃れられない。階級なり、階層なり、出自なり、学歴、閨閥。本人はそこから逃れて語るのに、そこをベースに語ってしまうという自己矛盾。他の階層のを語るというのは最新の注意を払っても、危うさを否定できず、にも関わらず、私たちはそこを逃れるために語るのだ。
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