うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

ひかりはとどかない

2009年03月07日 | ことばを巡る色色
日本中にビルが建ち、一般のお方のおうちの隅から隅までにも、煌々と明かりがつき、私達は、明るい日々を生きている。
はて、そんなにも明るいことは不可欠か。そう、お仕事にはそれがよかろう。一つの部屋で多くの人が、隅っこの人だって夜だってお仕事ができる。おうちでだって、夜だってお仕事、お勉強だ。
昔のお家に、建物に行って御覧なさい。
明るいのは部屋の真ん中のほんの少しの場所しかない。隅っこにはぼんやりとしか明かりが届かない。
庭の木立や草叢にも小暗い場所がある。
家の中や、庭やらの光の届かぬ場所には、人間がまだ見つけていない色々が隠れている。誰にも言えずに隠した秘密かもしれないし、発見されることを待っている真理かもしれない。
かつてのお家や庭には、明るくないところを見るための仕掛けがあった。狭間も欄間も全てのものが証明で照らされていては見えないものを見るための物である。
光を通して見る。
光にかざして見る。
光を浴びて見る。
それでも、どこかが陰になっている。
私達は、隅の隅まで照明を当てることに適するような生き物なのだろうか。エネルギーを燃やし続けながら、全てに明かりが当たっているうそ臭さの中で暮らす必要があるのだろうか、それに耐えられるのだろうか、明るいことはそんなに嬉しいのか。
私は、もう、明るいばかりの無音のうるささの中に出て行くのが嫌だ。
家の隅、寺の隅で、ひっそりと息を潜める何か。それは一人一人は全能的でも無用でもないことを教えている。誰もが心細く、でも、生きていくことが生きていることの意味であるということを教えている。生には死が、死には生が不可分のものであるように、光には暗がりがなければならぬ。
光だけの、物語無用の時代は不可分の生死を片側からしか見ない。
年を重ねても老いることが認められない時代、傷つく心を許せない時代でありはしないかと思う。ことさら元気であろうとしたり、大きな希望なんて持たなくていいと思い込もうとしたり。
薄暗くって湿っていてぼんやりとしか見えない場所って怖いような嬉しいようなで、とびきり魅惑的なんじゃないのか?
コメント (2)
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