行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

陣形

2008-02-12 20:35:16 | Weblog
 戦国時代、越後上杉家は、車懸の陣形を駆使していた(江戸時代の創設ともあるが・・・)車輪が回るように次々と部隊が入れ替わり、攻撃を続ける陣形である。兵士が寒冷地で動きが止まらないように編み出した、との伝承がある。
 第4次川中島の戦いで上杉軍はこの陣形で猛攻をかけた。これに対し、武田信玄率いる武田本隊は鶴翼の陣で凌ぎ、別働隊の救援を待った。

 三方ヶ原では、徳川軍が鶴翼の陣を敷き、武田軍が魚鱗の陣で撃破した。

 関ヶ原では、東軍が魚鱗の陣、西軍が鶴翼の陣で対峙した。明治初期、日本陸軍強化のため、ドイツから派遣されたメッケルは、関ヶ原の布陣を見て即座に、「何度やっても西軍が勝つ」と評した。しかし、歴史は東軍に勝利をもたらした。西軍の中心人物であった石田三成は、文官の印象が強いが、西軍必勝の陣形で東軍と対峙した事は、彼がただの文官ではなかったと教えてくれている。
 メッケルの周囲にいた明治陸軍の参謀達は、徳川家康の威信、鶴翼の陣の両翼に位置する小早川、吉川家が東軍に内通していた事実を伝え、メッケルは戦場では西軍だが、政治・戦略で既に東軍が勝っていた事を理解した。

 車懸の陣は、上杉家以外に駆使していたのかと思い、おもむろにPCを見ていたが、それらしいものはなく、それ以外に、島津軍のお家芸・釣り野伏せりも強烈だ、と感じた。耳川の合戦で大友軍を大破し、大友の没落を決定付けた戦であった。

写真

2008-02-11 23:48:29 | Weblog
 9日、妹の結婚式に出席し、会場で当然如くデジカメを両親から渡された。両親も準主役だろうから、まあ、当然であるが、私は食事もそこそこに撮りまくった。気付くと100枚以上撮っており、自宅に帰ってから、「これ、誰が現像すんだよ・・・」と思い、帰りに両親にデジカメは返しておいた。
 基本的にオート設定にしておいたが、どうも赤眼となってしまい、何枚かは私なりにボツであった。現像した写真はまだ殆ど見ていない・・・。

 予報だった雪は、式終了後、夜から降ったので、出席者には更なる迷惑を掛けずに済んだようだった

天下統一Ⅱ-2

2008-02-10 10:51:20 | Weblog
 『時は今 雨が滴る 五月哉』
 1582年(天正10年)、愛宕神社で引いた御神籤には「凶」と記してあった。もう一度、と引くとやはり「凶」であった。備中へ秀吉の救援を主君信長に命じられ、近江・丹波を没収され、毛利領の石見・出雲を切取り次第とされ、出陣の直前の籤であった。翌日、連歌師・里村紹巴らと連歌を詠み、明智光秀は『時は今 雨が滴る 五月哉』と発句。紹巴は即座に「さてはご謀反か」と感じたという。紹巴の視線を光秀は反らしていた。『花落つる 流れの末を せきとめて』と紹巴は謀反の決意を阻む句を返した。光秀は明らかに心身とも衰弱しきっている。信長亡き後の天下の青写真が稚拙すぎる。本気で天下を取るつもりなのか、信長を倒すだけが目的なのか・・・。そして、丹波亀山城を出発した明智軍は老坂の西へ進まず東へ、京都盆地を目指していた。(『国盗り物語』 司馬遼太郎 著 より)

 「ときは今」と名付けられたこのシナリオは、まさにここからスタートする。二条城に信長、嫡男信忠らごく僅かな兵力で在城。明智軍約3万に囲まれ、そのまま戦が始まる。このシナリオの困難さは明智は果たして天下を取れるのか、という事である。彼自身の政治思想はともかく、信長を倒した後の旧織田家臣軍に勝利しなければ天下は取れない。目下、羽柴軍との全面対決が始まる。織田信雄らも伊勢・伊賀から南近江を侵攻して来る。幸いなのは、北陸方面の柴田軍は上杉軍と戦闘中のため、暫くは近江に姿を現さない。

 相当苦しい。部隊数、武将数、兵力、全てが不足している。鉄砲配備が生命線となる。外交状態も最悪。畿内近辺では筒井家のみ友好的で、離れた四国・長宗我部家とも同盟状態だが、戦略的には期待できない。こうした状況の中、丹波口を羽柴軍から防衛し続けると勝機が見えてくる(これが最も大変)。歴史上、京都防衛をして成功した者はいない。
古くは壬申の乱、恵美押勝の乱、木曽義仲、鎌倉末期の六波羅探題、南北朝初期の足利尊氏、いずれも京都に防衛線を張って敗退している。

 実際、3回ほど挑戦し、全て解いたが、なぜこんな苦行をしなければならないのか、冷静に考えてしまった
 

長編作品

2008-02-07 00:44:49 | Weblog
 読書記にそろそろ長編を、と思いながらなかなか実行できていない。
『新平家物語』や『私本太平記』、『三国志』等々、好きな本は多いが、書き始めたら終わらない気がして怖い・・・。

さらば「怪獣倉庫」

2008-02-06 22:59:27 | Weblog
 今日、ニュースで円谷プロの怪獣倉庫の閉鎖を知った。砧スタジオ移転による閉鎖と引越しだそうだが、幼い頃、祖父に連れられ、円谷のスタジオを観にいった。祖父は東宝に勤務していたそうで、特撮用のミニチュア等を製作していた。ゴジラシリーズによく携わっていたらしい。
 円谷も東宝も成城学園、祖師ヶ谷大蔵、千歳船橋からも行けた記憶が残っている。
 円谷撮影所の入口にウルトラマンAが立っており、近年まで撮影が行われていた。すぐ隣には円谷氏の居宅があり、偶然、友人が発見したときは嬉しかった。
 撮影所には怪獣倉庫と呼ばれる怪獣の倉庫があり、怪獣を保管していた。不定期に開放し、見学させてくれた。どう見ても着ぐるみに過ぎないが、特撮の技術を持って映像に変わると、あれほどリアリティのあるものに見え、撮影技術の高さに感心した。
 ニュースを知って、時代の流れの悲しさを感じた。私にとって、あそこには子供の頃の思い出が詰まっており、心の故郷を一つ、失ってしまった気がする

節分+雪

2008-02-03 09:05:16 | Weblog
 寒い・・・
 朝起きたら雪が積もっている。今年は積もるのかな?と思っていたが、土日なんかに積もられると迷惑なだけだ。しかし、平日積もっても、徒歩ででも出勤しなければならないだろうから、やはり困る。
 前職までは雪が降ると交通機関がストップするのでワクワクしていたのだが・・・。

読書記26 『富嶽百景』

2008-02-02 23:19:02 | Weblog
   『富嶽百景』(太宰治 著)
 この作品と、『走れメロス』は健康的な人間信頼をテーマにしており、後の作品(終戦後)に通ずる、生の不安や苦悩を自虐的に描く作品と異なり、敗戦は作者にとって何か影響があったのだろうか…。

 広重、文晁、北斎の描く富士山の頂は殆どが鋭角に描かれており、細く、高く、華奢である。実際はもっと寸胴で山裾も思った以上に狭い。それでも、十国峠からの富士山は予想よりも高く見えた。それを見た私は驚きよりも変なくすぐったさを感じ、げらげら笑った。それに比べ、東京のアパートから見える富士山は苦しい。ある知人から意外な事実を打ち明けられ、途方に暮れ、夜中浴びるように酒を飲んだ、暁に便所から見た富士山は小さく、真っ白で少し傾いていた。私はそれを見てじめじめと泣いた。
 その後、心機一転の覚悟で甲州へ旅へ出た。目的地は御坂峠。そこに井伏鱒二氏が仕事をしており、その隣室をしばらく借りようと思っていた。御坂峠からの富士は昔から富士三景の一つとされている。真ん中に富士山があり、その下に河口湖が白く寒々と広がっており、銭湯の壁に描かれているようないかにも注文どおりの富士山で、私はそれに軽蔑さえ覚えていたが、ここに滞在する以上、嫌でもその富士と正面を向き合わねばならなかった。
 峠の茶屋にやって来てから二、三日後、井伏氏と三つ峠へ登った。井伏氏はいかにも登山者の格好で、それに比べ私は、全く登山の格好でなく、井伏氏が気の毒そうに私を見ていた。頂上は霧が立ち込め、富士山は見えなったが、茶店の老婆は気の毒がり、富士の大きな写真を持ち出し、「晴れたときには、こんなに大きくはっきりと富士山が見えます。」と懸命に説明していた。私達は茶をすすりながら老婆の持つ富士を眺めて笑った。いい富士を見た。霧が深いことを残念と思わなかった。

 その翌々日、甲府で私は、ある娘と見合いをした。私は娘の顔が見れなった。井伏氏が付き添い、娘の母親と井伏氏が話しながら、不意に鳥瞰写真の富士を見つけ「おや、富士」とつぶやいた。私もつられて身体を曲げてその富士を見、戻すときに娘の顔を見た。即座にこの娘と結婚したいと決心した。この時の富士はありがたかった。

 井伏氏が帰京した後、御坂峠の茶屋の二階に滞在し、富士三景の一つとへたばるほど対談するのであった。ある晩、吉田で酒を飲んだ時に見た富士は良かった。月光を受けて青く燃えるように空に浮かんでいる富士の姿に、私は思わずため息が漏れた。

 ある朝、茶屋の娘の「お客さん!起きて!」という絶叫で目を覚ますと、そこには雪が降り、山頂が真白に光輝いている富士が見えた。御坂の富士を嫌っていた私だったが、ばかにできないと感じた。私は山から月見草の種を持ってきて、店の背戸に撒いた。月見草を選んだのは、富士には月見草が似合うと思い込んだからであった。

 寝る前に私はガラス越しに富士を見る。月のある夜は富士が青白く、水の精のような姿で立っている。私は布団の中でも仕事のことを考える。世界観、芸術、明日の文学、新しさに思い悩み、身悶える。素朴な自然のもの、簡潔な鮮明なものをそのまま紙にうつしとることよりほかにないと思うとき、眼前の富士も私の考える「単一表現」の美しさなのかもしれない、と富士に妥協しかけるが、やはり、この富士もどこか間違えていると再び思い惑うのである。

 御坂の富士を見ながら陰鬱な日々を送っていたが、結婚話も実家からの援助が全く期待できず頓挫していた。先方に縁談を断られても仕方がないと覚悟を決め、事情を全て告白した。母親は愛情と職業に対する熱意さえ持っていればそれで良いと、二人の結婚を承諾してくれた。私は目頭が熱くなるのを感じ、この母親に孝行しようと決意した。結婚話も好転し、先輩のお宅を借り、身内の二、三人だけの立会いで貧しくとも厳粛な結婚式を挙げる事が決まった。私は人の情けというものに少年のように感奮していた。

 11月となると、御坂の寒気は一層厳しくなり山を下りる事を決意した。山を下りる前日、若い娘が二人、写真を撮って欲しいと頼んできた。内心ひどく狼狽したが、平静を装ってその役を引き受けた。富士山を背に、カメラのレンズ越しに二人はまじめな顔つきで固くなっており、それがどうにもおかしくて、私はただ富士山だけをレンズいっぱいにしてシャッターを切った。富士山、さようなら、お世話になりました。写真を見たら二人はきっと驚くだろう。御坂峠を下り、甲府で一泊した翌朝、宿の廊下から見た富士は、山々の後ろから三分の一ほど顔を覗かせていた。ほおづきに似ていた。

 

天下統一Ⅱ

2008-02-01 22:01:14 | Weblog
 確かシステムソフト社の開発した戦国時代を舞台としたゲームだった記憶がある。
内政、戦略、合戦の3フェイズで流れ、軍団制が取り入れられた、当時では割と上級者向けのゲームだった。何本ものシナリオがあるが、例えば1555年スタートであれば、北条、上杉、武田、織田、三好、毛利、大友といった能力の高い武将を多く揃えた大名家が統一に有利となる。

 時代が下るシナリオでは、徳川家光や水戸初代頼房、智恵伊豆こと松平信綱ら江戸幕府初期を支えた人物らも登場する。

 もっとも厳しい戦いを強いられた記憶は、1614年開始のシナリオ、つまり大坂夏の陣直前のシナリオでの豊臣家スタートだった。徳川家の圧倒的差の前に僅か60万石の一小大名は風前の灯火である。紀州九度山に真田幸村、大坂に後藤又兵衛、木村重成、明石全登らがいるが、始めから絶望感漂う素敵な設定だった。

 徳川家は、2代将軍秀忠、大御所家康中心で、幕府の組織体系も完成間近であろう。その二人は大坂の陣のため上洛している。このシナリオでは、本陣を狙う以外勝ち目は無い。囮部隊を繰り出して豊臣方の城を落とさせ、出撃した直後の徳川方の城を落として退路を断つ。そして、真田、後藤、木村、明石らで一気に本陣との決戦に持ち込む。局地戦ではこれらの武将が率いる部隊は強いので、勝ててしまう。家康と秀忠を葬っても、徳川家そのものは存続するので、ここからが泥沼の戦いとなる。流れ次第で、越前の松平忠直や越後の松平忠輝が本家に叛旗を翻す事がある。こうした展開となると豊臣も楽になるが、いずれにしても再統一は困難だった。武将の能力も年代が進むほど、小粒な者ばかりで、再統一せずに止めてしまったと思う。

 東への平定を進め、西を振り返ると大抵、島津と毛利が激戦をし互いに潰し合っている。