行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記28『王城の護衛者』

2008-02-19 22:58:31 | Weblog
  『王城の護衛者』(司馬遼太郎 著)
 この1冊には5編の短編が綴られている。上記「王城の護衛者」(松平容保)、「加茂の水」(玉松操)、「鬼謀の人」(村田蔵六、後の大村益次郎)、「英雄児」(河井継之助)、「人斬り以蔵」(岡田以蔵)である。
 最近、「落花は枝に還らずとも」を読んでおり、会津藩士・秋月悌次郎が主人公として描かれている。この作品を読むうちに松平容保を扱った「王城の護衛者」を思い出した。

 松平容保の会津藩祖は保科正之で3代将軍家光の異母弟で、将軍を支え会津の名君として幕末まで会津藩士の誇りであった。容保は20代半ばで京都守護職に引き出され、権謀術数渦巻く都に上洛した。長州、薩摩、土佐らの尊皇攘夷派が暗躍し、朝廷も公武合体派と攘夷派に分かれ、幕府に人事にまで口を挟むようになった。当時の孝明天皇は異人嫌いの公武合体の思想であった。容保は、毎日のように天誅騒ぎで治安悪化の著しい京都の治安維持のため、配下に新撰組を抱え不逞の輩を取り締まった。至誠が全てで策略を用いない人物であった。また、容保の会津藩の家訓は徳川宗家と命運を共にするよう定めている。14代家茂が長州征伐の最中、大坂で病死すると一橋慶喜が15代将軍となった。慶喜は聡明過ぎる頭脳を持っており、足利将軍木像梟首事件を通して、水戸学が足利尊氏を南朝に叛いた逆賊として出発している事を十分過ぎるほど理解していた。大政奉還の後、新政府には慶喜の名前も入るはずであった。長州藩はこの段階まで多くの犠牲者を出してきた。長州にとって、明治新政府は人材がいなくなったという妥協の上、ようやく誕生した政府であった。しかし、薩摩藩はあくまでも武力倒幕を図り、岩倉や大久保利通らは何としても幕府と戦闘を開始したかった。薩摩の挑発によって鳥羽伏見の戦いが開戦してしまった。この時点では薩摩藩の私戦として見ている者が多かった。
 ところが、「錦の御旗」の登場により、薩摩藩は官軍となった。この旗を見て最も驚愕したのは慶喜で、味方を騙してまで海路大坂から江戸へそして、水戸で謹慎した。容保を人質として江戸に連れ帰った。
 残された幕府軍は指令官のないまま戦いに晒され、東北戦線まで敗退し続けた。会津藩は長州藩から特に目の敵にされ、白虎隊の悲劇や敗戦後、不毛の地・青森斗南藩に追いやられた。
 政治に翻弄され、新政府から朝敵とされ、将軍が政権を奉還し幕府は滅びたにもかかわらず、最後まで徳川宗家のために戦った会津の人々に同情を感じ得ない。策に走らない純朴な人柄を会津に思う。
 慶喜の評価が一定しないのは幕末のこうした動きのためであろう。彼が将軍だったからこそ大政奉還という形で幕府の幕を引いた、と言えるが・・・。
コメント
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