行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記26 『富嶽百景』

2008-02-02 23:19:02 | Weblog
   『富嶽百景』(太宰治 著)
 この作品と、『走れメロス』は健康的な人間信頼をテーマにしており、後の作品(終戦後)に通ずる、生の不安や苦悩を自虐的に描く作品と異なり、敗戦は作者にとって何か影響があったのだろうか…。

 広重、文晁、北斎の描く富士山の頂は殆どが鋭角に描かれており、細く、高く、華奢である。実際はもっと寸胴で山裾も思った以上に狭い。それでも、十国峠からの富士山は予想よりも高く見えた。それを見た私は驚きよりも変なくすぐったさを感じ、げらげら笑った。それに比べ、東京のアパートから見える富士山は苦しい。ある知人から意外な事実を打ち明けられ、途方に暮れ、夜中浴びるように酒を飲んだ、暁に便所から見た富士山は小さく、真っ白で少し傾いていた。私はそれを見てじめじめと泣いた。
 その後、心機一転の覚悟で甲州へ旅へ出た。目的地は御坂峠。そこに井伏鱒二氏が仕事をしており、その隣室をしばらく借りようと思っていた。御坂峠からの富士は昔から富士三景の一つとされている。真ん中に富士山があり、その下に河口湖が白く寒々と広がっており、銭湯の壁に描かれているようないかにも注文どおりの富士山で、私はそれに軽蔑さえ覚えていたが、ここに滞在する以上、嫌でもその富士と正面を向き合わねばならなかった。
 峠の茶屋にやって来てから二、三日後、井伏氏と三つ峠へ登った。井伏氏はいかにも登山者の格好で、それに比べ私は、全く登山の格好でなく、井伏氏が気の毒そうに私を見ていた。頂上は霧が立ち込め、富士山は見えなったが、茶店の老婆は気の毒がり、富士の大きな写真を持ち出し、「晴れたときには、こんなに大きくはっきりと富士山が見えます。」と懸命に説明していた。私達は茶をすすりながら老婆の持つ富士を眺めて笑った。いい富士を見た。霧が深いことを残念と思わなかった。

 その翌々日、甲府で私は、ある娘と見合いをした。私は娘の顔が見れなった。井伏氏が付き添い、娘の母親と井伏氏が話しながら、不意に鳥瞰写真の富士を見つけ「おや、富士」とつぶやいた。私もつられて身体を曲げてその富士を見、戻すときに娘の顔を見た。即座にこの娘と結婚したいと決心した。この時の富士はありがたかった。

 井伏氏が帰京した後、御坂峠の茶屋の二階に滞在し、富士三景の一つとへたばるほど対談するのであった。ある晩、吉田で酒を飲んだ時に見た富士は良かった。月光を受けて青く燃えるように空に浮かんでいる富士の姿に、私は思わずため息が漏れた。

 ある朝、茶屋の娘の「お客さん!起きて!」という絶叫で目を覚ますと、そこには雪が降り、山頂が真白に光輝いている富士が見えた。御坂の富士を嫌っていた私だったが、ばかにできないと感じた。私は山から月見草の種を持ってきて、店の背戸に撒いた。月見草を選んだのは、富士には月見草が似合うと思い込んだからであった。

 寝る前に私はガラス越しに富士を見る。月のある夜は富士が青白く、水の精のような姿で立っている。私は布団の中でも仕事のことを考える。世界観、芸術、明日の文学、新しさに思い悩み、身悶える。素朴な自然のもの、簡潔な鮮明なものをそのまま紙にうつしとることよりほかにないと思うとき、眼前の富士も私の考える「単一表現」の美しさなのかもしれない、と富士に妥協しかけるが、やはり、この富士もどこか間違えていると再び思い惑うのである。

 御坂の富士を見ながら陰鬱な日々を送っていたが、結婚話も実家からの援助が全く期待できず頓挫していた。先方に縁談を断られても仕方がないと覚悟を決め、事情を全て告白した。母親は愛情と職業に対する熱意さえ持っていればそれで良いと、二人の結婚を承諾してくれた。私は目頭が熱くなるのを感じ、この母親に孝行しようと決意した。結婚話も好転し、先輩のお宅を借り、身内の二、三人だけの立会いで貧しくとも厳粛な結婚式を挙げる事が決まった。私は人の情けというものに少年のように感奮していた。

 11月となると、御坂の寒気は一層厳しくなり山を下りる事を決意した。山を下りる前日、若い娘が二人、写真を撮って欲しいと頼んできた。内心ひどく狼狽したが、平静を装ってその役を引き受けた。富士山を背に、カメラのレンズ越しに二人はまじめな顔つきで固くなっており、それがどうにもおかしくて、私はただ富士山だけをレンズいっぱいにしてシャッターを切った。富士山、さようなら、お世話になりました。写真を見たら二人はきっと驚くだろう。御坂峠を下り、甲府で一泊した翌朝、宿の廊下から見た富士は、山々の後ろから三分の一ほど顔を覗かせていた。ほおづきに似ていた。

 
コメント
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