行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

天下統一Ⅱ-2

2008-02-10 10:51:20 | Weblog
 『時は今 雨が滴る 五月哉』
 1582年(天正10年)、愛宕神社で引いた御神籤には「凶」と記してあった。もう一度、と引くとやはり「凶」であった。備中へ秀吉の救援を主君信長に命じられ、近江・丹波を没収され、毛利領の石見・出雲を切取り次第とされ、出陣の直前の籤であった。翌日、連歌師・里村紹巴らと連歌を詠み、明智光秀は『時は今 雨が滴る 五月哉』と発句。紹巴は即座に「さてはご謀反か」と感じたという。紹巴の視線を光秀は反らしていた。『花落つる 流れの末を せきとめて』と紹巴は謀反の決意を阻む句を返した。光秀は明らかに心身とも衰弱しきっている。信長亡き後の天下の青写真が稚拙すぎる。本気で天下を取るつもりなのか、信長を倒すだけが目的なのか・・・。そして、丹波亀山城を出発した明智軍は老坂の西へ進まず東へ、京都盆地を目指していた。(『国盗り物語』 司馬遼太郎 著 より)

 「ときは今」と名付けられたこのシナリオは、まさにここからスタートする。二条城に信長、嫡男信忠らごく僅かな兵力で在城。明智軍約3万に囲まれ、そのまま戦が始まる。このシナリオの困難さは明智は果たして天下を取れるのか、という事である。彼自身の政治思想はともかく、信長を倒した後の旧織田家臣軍に勝利しなければ天下は取れない。目下、羽柴軍との全面対決が始まる。織田信雄らも伊勢・伊賀から南近江を侵攻して来る。幸いなのは、北陸方面の柴田軍は上杉軍と戦闘中のため、暫くは近江に姿を現さない。

 相当苦しい。部隊数、武将数、兵力、全てが不足している。鉄砲配備が生命線となる。外交状態も最悪。畿内近辺では筒井家のみ友好的で、離れた四国・長宗我部家とも同盟状態だが、戦略的には期待できない。こうした状況の中、丹波口を羽柴軍から防衛し続けると勝機が見えてくる(これが最も大変)。歴史上、京都防衛をして成功した者はいない。
古くは壬申の乱、恵美押勝の乱、木曽義仲、鎌倉末期の六波羅探題、南北朝初期の足利尊氏、いずれも京都に防衛線を張って敗退している。

 実際、3回ほど挑戦し、全て解いたが、なぜこんな苦行をしなければならないのか、冷静に考えてしまった