行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

小旅行の写真(竜門峡・蜘蛛淵)

2008-08-16 23:46:03 | Weblog
 竜門峡の蜘蛛淵。落ちたら逝くな、と思いました。
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小旅行

2008-08-16 23:42:22 | Weblog
 今朝9時頃から山梨へ向かった。大渋滞が予想されたため、甲府から東に向かうのは避けようと、勝沼、天目山、甲府を目指した。行きは道路が空いており、11時前に竜門峡に到着し、沢に下った。意外な山道で、心の準備をしておらず、また軽装備な事もあり深入りは止めた。それでも川沿いは気温も低く、大いに涼を楽しんだが、戻るには山道のを登らねばならず、結局汗だくになって駐車場に戻った。その後、天目山に向かい、武田勝頼ら終焉の地を見学した。勝頼らはどんな気持ちでここに居たのだろうか。一説には夫人の実家である北条家へ落ち延びる途中だった、との事だが、死地を求めて彷徨っていたのだろう。天目山は武田信満という室町時代の当主が上杉禅秀の乱で自害した場所で、ここを最期の地と思い目指していたのかもしれない。武田勝頼は、東美濃や東遠江を平定し、武田氏最大の版図を築いた。しかし長篠で大敗し、滅亡に向かった。武田家滅亡後、ゆかりの遺産を大切にしたのは甲斐の人々であり、今日でも信玄公祭として山梨に残っており、山梨の英雄として君臨し続けている。また、武田に敵対しながらも信玄を畏敬した徳川家康も、武田家を再興させたり、勝頼の菩提寺を建立するなど手を尽くしている。武田家滅亡と本能寺の変が立て続けに起こり、また、信長の代官として赴任した河尻秀隆の苛烈な支配で甲斐の政情は不安定で、いつ大規模な一揆が起きてもおかしくなかった。そのため、甲斐を安定させるには武田氏を祀り上げる必要があると、家康が考えたという穿った見方もできるが、この際、美談に思いたい。
 小旅行は続けて勝沼を目指し、そこで昼食。なぜかジンギスカンだったが、美味しかったので疑問に思うのは止めた。その後甲府の恵林寺、武田神社を見学、帰路に着く。帰りの中央道は予想通り渋滞していたため、上野原で国道20号に降り、一般道で帰った。途中、旧相模湖町でお祭りがあり、再び渋滞に巻き込まれたが、夜9時半頃に解散できた。
 車酔いが酷く、行きの道中は冷や汗が止まらなかった。勝沼から運転するようになって、多少治まったが、車酔いだけが原因ではないように思う。1~2年に数回発症する目眩も始まっていたため、これが主原因だろう。
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