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食育は子供の学習権保障

2007-11-11 15:43:40 | 随筆・論説
ワンフレーズ教育の危険について [学校と子ども]  

我が家の子どもはまだ園児なので、国家主義的な考え方や規範を園で教え込まれるという機会はほとんどないようで、私はイライラせずにすみ、子どもも楽しそうに通園し、まずまず平和に暮らしています。私は人間として必要なマナーやしつけは小さいうちに身につけて、学校へ通う年齢になってからはそういう教育は少なくしていくのが理想だと思っています(もちろん、問題となる場面があったら、そのつど話し合うことは必要でしょうけれど)。ですから、しつけはちょっときびしめの園のようですが、良いことを教えてもらえるのなら、それでいいと思っています。

宗教を掲げている園なので、国家的思想がストレートに入ってきにくい面があることも気に入っています。日の丸君が代とも、いまのところ縁がありません(私は国旗国歌を否定しているのではありません。しかし、いまのように日の丸君が代が人間に対する踏み絵的に使われている場面がある限り、反対せざるを得ません)。ただ、服装の一部ですが決まったものを着用したり(全身制服ではありません)、背の順に整然と並んだり、運動会の踊りの練習を1カ月以上してみんなで合わせたりというように、私からみて画一的な面はあり、私が理想とするいわゆる自由教育ではないのですが、親としては許容できる範囲です。

そんな割合のどかな園生活のなかで、世の中の教育の流れが入り込んできているなあ〜と感じさせられるのが「食育」です。園として特に力を入れているというほどでもなく、たぶん他の園と横並び程度だと思いますが、なぜか6月19日が食育の日で午前中が「食育の話」になっていたり、県や市が配布したらしい食育関係のポスターやイベントのお知らせがはってあったりします。

また、毎月全員が購入している幼児向け絵本にも毎号必ず食育のページがあり、小さい子ども向けなので食品の種類などの紹介が多いのですが、付録の最後に「朝ごはんは大切です!朝ごはんをきちんととらないと「元気が出ない」「集中力が欠ける」「記憶力の低下」「反応の鈍さ」などが見られるようになります。牛乳だけ、バナナ1本だけではなく、毎日きちんと朝ごはんを食べましょう」などと、親への教育かな?と思わせるようなページがあったりします。

私は1〜2年前、世の中で食育という言葉が広く使われるようになって以来、はっきり言ってこの言葉は好きになれません。「うちの子どもにも朝食は毎日食べさせるようにしているし、別に悪い内容ではないのに、どうして好きになれないのだろう」とずっと自問自答してきました。最近になって、何となくその答えが見えてきたように思います。それは、「学」ではなく「育」である。結論が先にあって、そちらに親子を誘導していこうという意図がみえるところです。


子どもに対しては、有無を言わせずきちんと教えておかなければならないことがらはあると思います。例えば・・・

・自分の安全や生命にかかわること:交通ルールなどで、「左右をよく確認し、手を挙げて横断する」

・他者を損なうかもしれないこと:友だちに砂をなげたり、遊具から押したりする行為など。「自分がされてイヤで困ることは、お友達にしてはいけないよ」と言い聞かせる。

そういう重要なことについては、最初からきっぱりと教えるべきだと思います。しかし、その他の緊急性のないことについては、頭から教え込む態度には反対します。客観的な情報を与えて、自分の頭で判断ができるようになるのを待つべきでしょう。その点で言えば、食に関する姿勢は一生に渡るもので、子どもをネグレクトして食事を与えないなど、ごく例外的な虐待のようなケースを除いて、重要だけど緊急性は少なく、じっくりと考えさせるべきだと思います。

その上、食育は一見、子どもに言っているようでいて、実は主に親に「こういうふうに子育てしろ!」という規範を示しています。というのは、食事を用意し子どもに与えるという食事の責任者は親なのですから。そういう大人に対して、家庭のなかにまで入り込むかたちで、前のめりに結論を押しつけるような介入はしてほしくないです。たとえ、正しいことであってもです。

食育と関連して最近よく耳にする「標語」に「早寝、早起き、朝ごはん」というものがあります。地域ぐるみでそういう運動を推進しようとする「早寝、早起き、朝ごはん推進協会」のようなものまで、保守派の方々を中心に設立されています。こういうワンフレーズ教育には非常に抵抗を感じます。悪いことを言っているわけではありません。一見、誰もが反対できない「正しいこと」を掲げながら、しかし、こういうお題目のような教育は、人々に考えることをさせません。

何回もそのフレーズを耳に入れることによって、「自然に」そういうものか、そうしなくては・・・と思わせることを意図しているように見えます。人間の知性を信頼し、自由な思考を促していく真の教育ではなく、取りあえずこのことを覚え込ませ正しいと思わせる・・・そういう応用の効きにくい刷り込みでしかないと思います。

先日、ある公立高の前を通りかかったら、玄関の真ん前に大きな字で「挨拶励行」と書いた横断幕がかかっていました。小学校で「元気にあいさつしよう」という標語でしたら(特に賛成ではありませんが)、理解できます。それが、もう10代の後半の生徒たちに対してまで、「挨拶励行」と書いている。私はそれを見て愕然としました。考える力を育てない教育を続けた結果、こんなことをもう半分大人のような生徒に求める。そういう実態となっているようです。

食育や「早寝、早起き、朝ごはん」的なワンフレーズ教育の行き着く先が、高校での「挨拶励行」だというのは考えすぎでしょうか。同じような言い聞かせでも、私たちが親世代から聞かされた「お米はお百姓さんが汗水垂らして作ってくれたものだから、最後の一粒まで粗末にせずに食べるんだよ」というものは、農業が主産業であった日本人の実感と気持ちがこもっていて、いまでも「そうだなあ〜」と思い出しますが・・・。

家庭で上の世代から戦争中の話を聞くと、国民や子どもたちに対して、たくさんの標語的教育が行われていたように思います。「ほしがりません、勝つまでは」「生めよ、増やせよ」・・・。そういう標語的な教育には自分で批判的に考えて善悪を判断する力を鈍らせてしまう魔力があるように感じてなりません。

食育から戦争中のことまで飛躍しすぎかもしれませんが、私は根っこは似た潮流のように思います。06年教育基本法をもし自治体や現場が忠実に実行したら、こういう結論先取りの教え込み教育になるはずです。いまは反対の出にくい食事面から入ってきていますが、そのうち次第次第に意見の分かれそうな分野まで、こういう手法が用いられると思います。政治を変えて教育の流れを旧教育基本法の理想を実現する方向にしたい。心からそう思います。

2007-11-07 10:56 nice!(1) コメント(9) トラックバック(1)

 勉強になります。
「食育」という言葉は聞いたことはありました。先日の市議会選挙の時も「食育の推進」を公約していた候補者もいたように記憶しています。

その時、学校給食での食育推進の為の活動として「地元産の食材」を使う運動だと説明されていたようです。

私は、単純に食の安全の問題が取りざたされている今日、安全な(と思われる)地元産の食材を使うことは地元も農業振興にも役立ち、漠然と良いことだな~~あ。と思っていました。

今日、maiさんのブログを拝見し自分の無知を恥じているところです。
調べて知ったのですが「食育」って言葉だけではなく「食育基本法」って法律まであるのですね。それが平成17年6月10日、自民、公明、共産の賛成。民主、社民の反対で成立したとの事。何故共産が賛成なのでしょう。

(財)食生活情報サービスセンターなるものが一枚かんでいますね。公益法人の見直しが行われる中、仕事があるようにするための法律ではないのでしょうか。役人って強かですね。補助金にたむろする輩もいることでしょう。

これからも知らないことお教え下さい。期待しています。

 by 女衒の辰 (2007-11-07 22:36)

 食育。これは子供が安全で多様な食文化を実現していく権利を保障していくものであり、学習権の一環という位置付けなんでしょう。そうであれば、保護者のネグレクトのよる虐待に対して子供が食文化を要求していく根拠になるのであり、必要なことですね。子供の権利が食育ということであり、国家や保護者の命令を合理化するものではないというのは当然です。

 食というもはどういうことなのか、ということを学校での給食や調理実習、課外活動等を通じて学習していくということですね。こうした見地から子供たちに対して食生活の安全、健康、多様性、食生産労働への科学的認識、自然と食生産への科学的認識を体験させながら、感情的にも理論的にも「人間らしく」一貫して教育していく義務が保護者と国家にあるということですね。

 こうして食育と子供の権利として位置付け食育関係の予算を国家に保障しせていく運動が必要だと思いますが、学校や家庭への教育行政の介入は「学習指導要領」と同じ位置付けで退ける必要があります。

 追記:東西が小学生の頃の「食育」は作ってくれた人への感謝の心を忘れるな!ってことで、給食を残すことはありえないという教育でした。東西もまずくて飲み込みにくいメニュをいまでも憶えているんですが、「皮付きチキンのオレンジソース和え」「梅ゼリー」でした。これは東西にとってまさに「拷問」でしたが、我慢と忍耐で完食し、給食を残したことがないという金字塔を打ち立てました。

他方、友人のM君はトマトが嫌いでした。ある日、トマトをボイルしたようなトマトの風味が生暖かく強烈に出る調理法でトマトがM君の前に出されました。M君はギブアップして先生に残すことを申しでましたが、不許可。掃除の時間も永久にボイルトマトと睨めっこでした。東西らが「おい。一気に行け。大丈夫や」とかいってゲラゲラ笑って励ましていた所、M君がおもむろに一気に流し込みました。東西らは「おー」って感じで拍手。その瞬間、M君は東西らが綺麗に磨いた床にゲロを思いっきりぶちまけました。

M君は保健室行きです。先生は東西らに「おい。先生はMを保健室へ連れて行くから。東西。おまえ、ゲロの片付けしといてくれるか?」って、東西は「ぎょえー。何でやねん」って感じでしたがサボると先生にビンタされるのは確実だし、M君のうなだれる姿がかわいそうだという理由でゲロの片付けをしました。

 作ってくれるのはありがたいですが、食べる人の多様性を尊重したメニューを出してほしいなー。と要求する権利が子供にはあるということでしょう。

by 東西南北 (2007-11-10 16:56)

(出所:http://blog.so-net.ne.jp/kyoikushiminnokai_in_shiga/2007-11-07)
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4 コメント

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11/14の記事にいただいたコメントです (まい)
2007-11-14 21:14:15
こんにちは。それでは、そのままペーストします。ただ、私は教育や栄養の専門家ではなく、単にリベラルを自認する一保護者ですので、最後のパラグラフは過分の誉め言葉です(^_^;)
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子供が好きなものを選んで食べるのは自由ですが、栄養をとることも食文化ですから自分らが楽しんで食べることができる「調理法」があることを大人は子供らに教育していくことが食育です。子供が嫌いな食べ物を「栄養があるから」「作ってくれた人に失礼だから」「日本の水田のため」という理由で押し付けることは食育ではありません。それは東西らが経験してきた指導ですね。掃除の時間まで残って食べることを「教育」され、ゲロを床にぶちまけたM君のようになります(笑)?? みんなで育てた食材をみんなで調理して食べる授業などがあればよいですね。調理法をいろいろと工夫して食べる。楽しい食文化の学習です。しかし、このような授業をしていると現実は「受験体制」ですから、「おちこぼれ」が出てしまいます。本物の授業と学習を阻害しているのは受験体制だという認識が決定的に必要です。受験体制に反対せずして、理想の授業を学校で行えば保護者からクレームがくるし、子供らも「おちこぼれ」て受験体制の圧力で排除されてしまうのです。受験体制さえなければ現場の教職員と保護者が希望する自由教育が花開くことは確実です。?? この点、wakuwaku_44は受験体制を堅持し、子供らを抑圧しながら微笑して教育を語るわけで、最低の偽善者ですし、受験教育が本物の教育を抑圧している現実から目をそらさせるのです。??  maiさんのような人の経験なり意見がふんだんに取り入れられたパンフレットや副教材、教科書を作成して子供らとともに学習していく学校を造っていくのが教育実践であり、教育運動ですね。?by 東西南北 (2007-11-14 19:23)
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まいさんへ (東西南北)
2007-11-14 22:14:17
 サンクス。教育も政治も経済も決定権は大衆も専門家も同じ一票なんです。専門家を付け上がらせるのはむしろ封建主義へ行きますから注意して、専門家には専門用語の説明を要求していきましょう。
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Unknown (imacoco)
2008-01-20 10:41:00
私の子供の頃に比べて、明らかに子供の食事が贅沢になっていると思いますよ。それは、大人の社会が贅沢になっている事に他ならないのですが。
食事はシンプルなのが一番です。
あと、肉食は悪だと思います。
殺して食べる、と云う事の残酷さを広く啓蒙するような仕組み(昔は仏教的な教えが浸透していた訳です)も必要ですね。
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imacocoさんへ (東西南北)
2008-01-20 11:18:19
 動物を殺すときは可哀想ですね。特に哺乳類。やっぱり人類に近い存在だからでしょうか?でも、人類の健全な発達には肉食は不可欠の栄養ですので人類は生態系に対して科学的な認識を進めながら謙虚に肉食して捨てたりしないような経済体制を実現していく必要がありますね。
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