未来を信じ、未来に生きる。

今に流されず、正論を認識し、社会貢献していく人生を切り拓くブログ道。

社会規範のこと。パート2。

2006-09-30 07:08:08 | 国内教育
 質問

 国家と政府の位置付けについて共通の理解を得たことは喜ばしく思います。時の政府の施策については国民は常に監視を怠ることのないようにすべきです。これについては多分同意いただけるかと思います。

 問題は国家とは何かでありましょう。そこで愛国心が浮上してくるわけですが、誰しも愛国心を全面否定するとは思いません。その形を巡る議論かと思います。まぁ中には国なんか俺には関係ないって人もいるでしょうが、それでも、幸せな暮らしを願わない人は皆無でしょう。奉仕の精神や優しさの発露は先ず物質的な豊かさと精神的な豊かさがないとなかなか難しいものです。

 現在残念に思うのは物質的にこれほど恵まれていながら尚、社会規範が乱れてしまっていることです。これはいったい何に由来するものでしょうか?。昔は悪いことをした子供をアカの他人が叱る光景をよく目にしました。いまではまず見かけませんね。

 何故そんな時代になったんでしょう。私は「人権の過保護」に由来するものと考えざるを得ません。統制と規律に対する過剰なアレルギー反応の結果であるとは言えないでしょうか?

 拝金主義は資本主義社会の宿命でありましょう。共産主義の夢がついえたとは言え、その理想は素晴らしい面も含んでいますし、現代社会の問題点を鋭く指摘していますね。

 「一つの妖怪が欧州を歩き回っている…共産主義と言う妖怪が…」大変有名な書き出しの共産党宣言。百五十年前に書かれたものですが、この中ですでに拝金主義が指摘されています。

 「ブルジョアジーは資本を増大させ、近代の代議制国家に於いて独占的な支配力を勝ち取ったのである。支配権を握ったブルジョアジーは、封建的、牧歌的な諸関係を全て破壊し、赤裸々な金銭関係に変えた」それは今もって続いており、ま、今の日本に於いて愛国心は支那との関係に於いて邪魔になるだけなんでしょうね。

 我が国独自の社会資本主義の道を歩み続けてきた日本は、今大きな転機を迎えようとしています。これだけ世界が密接になった時代、子供達に何を教えていくべきか、慎重に考えたいものです」

 回答

①国民は時の政府への監視を怠ることのないようにすること。

  はい。もろ手を挙げて完全に同意致します。

 ②「人権の過保護」

  はい。この点も完全に同意致します。

 物質文化をいかにして社会規範化していくか、という問題提起に対して、です。

 ③拝金主義と資本主義、共産主義と社会規範の関係。

 「我が国独自の社会資本主義の道を歩み続けてきた日本は、今大きな転機を迎えようとしています。これだけ世界が密接になった時代、子供達に何を教えていくべきか、慎重に考えたいものです」

 はい。人類の未来にどういう理想を描くのか、真の国際社会とは、どのような社会なのか。どのような軌道で理想社会を実現して行くか。私たちは現在の国際社会を、どう生きるのか。哲学の根本問題だと考えます。

 そこで、拝金主義と資本主義の関係についての今現在での僕の認識を述べさせて頂きます。

 その前に、①拝金主義 ②勤労 ③遊戯 ④貨幣 ⑤資本主義 ⑥共産主義につき、僕の定義を述べます。

 ①拝金主義とは、不労所得である。

 ②勤労とは、自然を人間に役立てる目的で改造する労働を含む社会貢献である。

 ③遊戯とは、自然を人間に役立てる目的で改造する労働を含む社会貢献ではない思想と行為である。

 ④貨幣とは、諸個人の勤労能力の高低を示す指標である。

 ⑤資本主義とは、生産手段の私的所有に基づく階級社会を維持し、人権を抑圧する思想、運動、国家体制である。

 ⑥共産主義とは、生産手段の社会的所有に基づく無階級社会を実現し、貨幣を完全に廃止した社会を目指す思想、運動、国家体制である。

 そこで、拝金主義と資本主義の区別と関係です。

 区別できる点は、拝金主義は生産手段の所有関係を規定する概念ではない、という点です。

 すなわち、資本主義社会であっても、拝金主義は廃止できるわけです。拝金主義は勤労に反する遊戯による不労所得ですから、廃止することは勤労の社会貢献性を社会に完全実現することとなり、拝金主義による遊戯、すなわち個人主義は撲滅できます。

 僕が、証券取引所を含めて公営ギャンブルを批判する社会貢献的、公共的根拠はここにあります。

 次に、関係する点ですが、共に諸個人による勤労の成果を私的に所有する点です。拝金主義による不労所得が反社会的だということは述べましたから、本所得の私的所有は不当なものです。他方、諸個人による勤労の成果としての生産手段を私的に所有することも反社会的なので不当なものです。生産手段は勤労者の所有物であり、一部の勤労者の所有物ではありません。

 さて、最後に共産主義について、です。

 なるほど、生産手段の社会的所有に基づく無階級社会は正に、社会貢献的、公共的である。

 しかし、貨幣を完全に廃止する社会において、諸個人の勤労能力の高低を、いかにして表わすかという点につき問題がある。

 すなわち、諸個人の勤労能力の高低は、①先天的なもの②後天的な思考の訓練と経験の熟練③自然、社会環境という主体的な面と客観的な面の組み合わせで決まる。

 つまり、諸個人の勤労能力の高低は人間社会に普遍的な存在である。

 そうであれば、諸個人の勤労能力の高低を表わす指標である貨幣を廃止することは誤りとなる。

 こうして、拝金主義は資本主義社会の宿命であるとは言えず、資本主義社会においても廃止できるものだといえます。

 さらに、共産主義の理想の素晴らしい面とは、生産手段の社会化を目指す思想、運動、国家体制にあり、誤っている面は貨幣の廃止を目指す面、すなわち、諸個人の勤労能力の高低をいかにして表わすかの基準を消滅させていることにある、と考えます。

 以上が「物質文化をいかにして社会規範化していくか」という問題提起に対する哲学の基本となります。
コメント (4)   トラックバック (6)

07参議院選挙、統一地方選挙に対する基本の考え方と態度

2006-09-29 02:30:33 | 国内政治
 06年11月には野党5党の統一候補が沖縄知事選を闘います。政党支持率の世論調査でいえば、自民・公明が圧倒的ですが選挙の得票数は必ず世論調査を裏切るというのが選挙史の事実です。

 今、ジリ貧なのは自民・公明の議員とその野合のほうであって、野党は団結して与党を叩き潰し、有権者の選択肢から自民・公明を消させる運動をする時です。

 その上で、どの野党か、ということです。自民・公明だけはありえないという運動をなんとしても進めねばなりません。

  世論調査の政党支持率と選挙の結果はいつも大幅に食い違うのは日本人民がしたたかに判断している証拠でしょう。 前回の国政、衆院郵政解散総選挙の各政党の比例得票数を見れば自民・公明で約3千万票(内訳比率は2:1)、他方、民主・社民・共産で約3千万票(内訳比率は2:0.5:0.5)です。

 政治は労働条件向上、生活向上、死刑執行、戦争に直結することを10代・20代の人にわかってもらうことがまず必要です。

 次に、ギャンブルと出世で自分の生活だけを向上させることを考える人が最も深刻です。自分が出世するためには上司の言うままですから、むちゃくちゃします。正義なんかないよ、とあっさりですもんね。

 財界、自公政権のギャンブル経済・政治、権力支配の洗脳がおそろしくしみ込んでいます。報道・教育しかないですね。石原都知事は最悪の権化です。

 日本国の国家・自治体は誰のものなのか。公務員の物なのか。国民全体の物なのか。明らかである。国民全体の物である。そうであれば、国民・住民1人ひとりの民意を議会に正確に反映する選挙制度と政党制が当然の民主主義国家の制度となる。

 死票を極力、発生させない選挙制度が必要である。国民1人ひとりに政党結社の自由を行使する権利がある。これが民主政治のあるべき当然の姿である。ゆえに、日本国の選挙区制度、供託金制度は誤りであり、憲法違反の制度であろう。

 他方、結果としての政党制を言うのであれば、二大政党制は中途半端で独裁制がよい。人間として行わねばならない行為は1つしかないからだ。確かに、そうである。しかし、真理・真実の行為を実現する人間に成るまでに人間はさまざまな発達段階・試行錯誤を経る。

 場合によっては刑務所で反省しなければ社会復帰できない人間までいる。つまり、人間が人格として完成していく発達の道は多様である。

 ゆえに、民意の多様性を最大限反映する政党制、選挙制度が民主主義社会には絶対に必要となる。それは全国1区の比例代表制と複数政党制である。

 では、どうやって選挙の判断事実を知ればよいか。

 自民党総裁選の直後、安部晋三のドラマがテレビ朝日で午後7時-9時で放映された。確かに、各政党の代表者のドラマを同じ時間帯の同じ曜日に連続して放映すれば公正です。しかし、自民党を取り上げた時間だけが異常に長い。新聞もそう。国民の知る権利はないも同然。テレビ、新聞のメディアが不偏不党ではない。そこでどうするか。

 有権者は各政党のホームページから事実を知る。各政党の機関紙誌を購読する。それで政治の事実を全面的に知る。野党のホームページと機関紙誌の購読をお勧めします。ちなみに、僕は自民・公明以外の野党の機関紙誌を購読して認識を全面化する努力を継続中です。新社会党もお忘れなく。

なんとしても、自民・公明の政治に信任を与えてはならない。そうでないと、自民・公明は自らの政治が信任されたと誤解して、一層、国民生活を貧しくし、雇用を不安定化し、成果主義賃金制度を導入し、年金、介護、医療、福祉、教育費の自己負担金を増やしていき、増税、社会保険料の値上げを繰り返し、生活格差を拡げながら、イラク戦争、アフガン戦争、湾岸戦争のような戦争の最前線へ自衛隊を送り込むような政策と憲法改正を実現してきます。

 共謀罪で、反自公の運動に刑事罰を実現し、独裁の警察政治を実現してきます。

 教育では受験地獄はエスカレートし、進学校と底辺校を偏差値で差別・選別し、さらに学級に習熟度別編成を拡大し、落ちこぼれとエリートの格差をいっそう、あからさまに固定化させ、子供に過度のストレスを与え続け、ひたすら自民・公明政権への従属を命令されます。金儲けと出世競争と権力に従順な人材を育成する道徳教育です。そのために教育基本法を改正してきます。

 こうして、支持、協力、応援、投票の選択肢から自民党と公明党をはずしてください。

 その上で、民主・社民・共産を考えて、是非、支持拡大運動、募金、投票などで協力してください。自民・公明にできることは、民主、社民、共産でもできるのです。同じ人間集団だからです。野党に、政権運営を任せてみようではありませんか。みんなで野党を応援し、支えていこうではありませんか。

 さて、問題は、どの野党が心から、本音で弱者を救う政策と態度を堅持しているかなんです。で、今現在は選挙で自公議院に落選の不安を味わわすことなんです。弱者の気持ちを代弁しながら、実際の政策で弱者をいじめる自公議員を中心に。その意味での、民主、社民、共産の大同団結なんです。弱者救済の性格での団結です。

 では、有権者としては比例と選挙区の2票持ってる、と。どうするんだ、と。そこで、問題は、民主、社民と共産にどう投票を割り振るかなんです。

 有権者のみなさん、弱者の願いを実現していくために、比例は日本共産党に貴重な一票を投じて頂けませんか。常日頃の対話、口コミ運動でもそのように訴えかけて貰えませんか。

つまり、「国政比例は日本共産党で決まりです。選挙区も理想は共産です。地方議会選挙も基本は共産で決まりです。自民・公明は絶対に排除というわけです。しかし、社民・共産は衆参1人区では、今現在、当選は難しい。最悪は自民・公明の議員が当選することです。自民・公明議員の当選という最悪の事態だけは有権者として絶対に回避しないといけない。そこで、投票日の期日ぎりぎりまでは日本共産党の支持拡大、応援をして欲しい。しかし、投票日ぎりぎりの情勢で共産は無理だと各自で判断したら、確実に民主か社民の議員で当選する候補者に投票してください。これで、自民・公明の議員候補者を確実に潰しましょう、と」
 
 他方、参議院選挙区(1人区)と衆議院小選挙区では社民・共産候補の当選は、実際上、困難で何十年も頑張らんと1人区での社民・共産当選の情勢は温まらんでしょう。

 弱者を代弁し、実際の活動、政策でも一貫しているのは日本共産党ですが、共産主義思想なんですね。問題は。

 そこで、衆参の1人区では民主候補に投票して自公を一気に全滅する、と。衆参両院で政権交代する、と。民主が裏切ったら、直ちに、温めておいた社民党と日本共産党に選挙区でも投票する、と。

 これで決まりではないでしょうか。今すぐ、野党のホームページへアクセスし、機関紙誌を購読して、事実関係を知る学習をしようではありませんか。

 国民だましと情報隠蔽の自民・公明に審判を下そうではありませんか。
コメント (23)   トラックバック (41)

「日の丸・君が代」問題のすべて。

2006-09-29 00:07:43 | 国内教育
 基調報告

 一部の教職員による器物損壊(日の丸を引き下ろす、君が代を流すコンセントを引っこ抜く等)は違法ですが、違法性阻却事由がありますので、事実関係を見なければ判断できません。

 なお、学習指導要領には法的拘束力はなく、日の丸、君が代についても各学校の裁量権に属することだと僕は考えておりますので、どのような手続きで各学校に日の丸・君が代が導入されているかが争点だと思います。適正な手続きを踏んだ上での導入か、少数意見を排除し強行採決、職務命令で教員を押さえつけて導入したか、です。

 一部の教職員による器物損壊(日の丸を引き下ろす、君が代を流すコンセントを引っこ抜く等)に至る背景と経過の事実関係を認定しなければ、軽々に教員を否定的に認識することはできません。

 基本認識は、日の丸・君が代を学校に導入する方が違法だからだからであり、現行憲法にふさわしい国歌・国旗を定めればよいのであり、卒業式・入学式に日の丸・君が代を導入するなど子供たちの自主性に基づく式典であれば、およそ採用されえない国歌・国旗だからであり、学校教育の自主性に逆行する存在の象徴であるのが「日の丸・君が代」です。何故、教育行政が学校の卒業式・入学式のやり方に首を突っ込み、介入してくるのでしょうか。

 教職員・保護者が主権者であり、地域住民・学者は統治者として無能ではありません。教育行政が教育現場に介入してくるのは主権者である住民と国民を衆愚扱いするものではないでしょうか。


 質疑応答

 質問

 「都教委に処分された教師は不起立だけに止まらない連中が多いんですよ。処分者の一人、増田郁子のブログを見ていただき感想をお聞きしたいですね」

 回答

 増田郁子さんの記事をいくつか読んでみました。この先生のやり方では、

 「それならば、私も皇国日本の魂の下に日本国民が和を乱さずに規律・整然と人生をまっとうし、勤労していく中で、皇国日本の国家権力、国民精神、国土防衛のために命を賭けて戦争することの人間道徳論を子供らに態度と行動で示しながら、増田教員の所属する学校で彼女の横で毎日、教育活動させてもらう」となるのはよく分かります。

 こういう喧嘩を子供を巻き込み、教育活動そっちのけで行われる政治活動と批判されるのでしょうね。僕も批判したいと考えます。

 つまり、いわゆる左か右か、どっちなんだ教育ですね。どっちにも属さない奴は人間ではない、ということですね。もっと言えば、アメリカとソ連・中国、どっちの国家権力に従うのか、ということですね。

 それを決めるのは子供らであって、強制していけません。ちなみに、僕はどっちにも従いません。日本国の憲法に従います。

 学校教育に限りませんが社会規範として、子供らが判断できるように、いわゆる左の意見も右の意見も両論併記で子供らの前に堂々と提示しなければなりません。隠すこともいけません。

 子供と大人がどちらか一方を選択したからという世界観・宗教観の違いを理由とする排除・無視・差別は人格を形成する精神的自由権を否定、圧迫する行為で卑劣かつ違法だと言えます。

 ゆえに、「国歌・国旗」を敬愛するしないかで、教員を処分したり、白眼視する行為は卑劣かつ違法となります。

 いわゆる左であれ右であれ世界観、思想、特定の国家体制を国家権力を手段に他人に強要、強制することはできません。

 これを実行すると左か右の独裁国家となります。だから、「人権は国家に優先するって考え方」が普遍性と合法性を持っているのですね。
 
 質問

 「増田ブログ、見ていただき有難うございます。私は何も帝国憲法全面支持ではありません。あなたは決めるのは子供と言われますが、人生観や価値観を養成するのは大人ですよね。従って偏った教育はやってはならないのです。

 残念ながら我が国は過去半世紀にわたり日教組と言う組織に組み込まれた教師に拠って左翼教育が行われてきました。誠に不幸なことです。今、所謂右傾化が言われてますが、これは左翼教育に対する明らかな反動であると思います。

 無秩序な社会は暴君による圧政よりタチが悪いと考えます。秩序の維持には規律が不可欠です。気に入らない規律を強制として無視したりすればどうなりますか?今の教育の荒廃が答えです。

 人権は国家に優先する考え方は平時には通用するでしょうが、決して普遍的なものではありません。あくまで理想です。事変或いは戦争状態になればとうなります。個人の自由な判断で行動しますか?

 現憲法についてはすでに歪みが限界にまできており改憲は避けられないと考えます。早い話、昭和22年、施行の時点で既に現憲法無効論もあるんです。日本国憲法は決して不磨の大典ではありません。英文を訳した憲法ではなく日本語による日本国の憲法を制定すべきです」

 回答

 それは一般的な場合でいえば、悪質商法とか離婚問題、刑事事件までありますので、国家の強制力一般を否定する人はあまりいないと思います。

 無政府主義の人もいますが世界観であるかぎりは、共存共生しながら議論を積み重ねて行く中で、お互い歩み寄って行くというような寛容な態度が社会には必要ですよ、と地裁も判決しています。
 
 日本国に生活する民族の危機が急迫不正に差し迫る場合においても、人民に国防の義務を課することはできない、ということが人権保障となってしまいます。

 ちなみに、祖国を捨てて、中国の日本国を明渡すことが道徳などではありません。真の道徳は侵略国家に対しては専守防衛で受けて立つことが当然である、と強く考えております。が、逃げ出すものを軽蔑しても強制することはできません、誠に遺憾で悲しく情けないと思い、憎しみと怒りを覚えますが人権尊重の限界なんです。

私たち愛国者も祖国を捨てる自己保身の存在も、同じ人間という事実がある限り、きっと同じ地点に人間は到達するのではないですか。

 どう考えても、オウムの麻原・北の金正日ですら同じ人間だという事実は不動なんです。

 あんたも俺も同じ人間だろう、わかるだろう、と。この魂のぶつかりあいとしての話し合い、時には激論、罵詈雑言もあるでしょう、しかし、強制は教育ではなく、魂の闘論を手段として成立するのが人間教育なんだと考えます。


 質問

 「あなたの書き込みに人民ってあるが、国民じゃないんですか? あなたの思想が透けて見えますよ。ま、自由ですがね。 私はあなたの考え方には真っ向から反対します」

 回答

 分かりました。考え方の違いは在って当然ですね。

 ちなみに、「人民」という言葉を僕が使うようになったのは「国民」だと日本国籍を持つ人間だけを指すことになってしまい、日本国で実際に生活している外国人の人権を認めない思想の持ち主だと誤解されてしまうからです。

 世界人権宣言、国際人権規約等で用いられている人民という言葉を使うことが人権の国際化を志向する日本国の人民が自国と他国を敬愛することになっていくと考えます。

 質問

 「あなたは教育者としての想いより政治的な想いの方が強く感じられます。いつまでやっても水掛け論でしょう。都は当然控訴するでしょうから、高裁の判断を待ちましょう。またその結果を踏まえて改めて議論しましょう」

 回答

 教員と子供に「日の丸・君が代」を強要・強制するような教育が問題なのでは?

 なんで、そこまで強制したがるのですか。「あなたは教育者としての想いより政治的な想いの方が強く感じられます」

 教育は強制ではないですね。それは政治的ですよ。

 社会人になるための常識とは、「教室にも社会にも多様な価値観のある人たちが集まり議論し生活していくなかで規律を体得する」です。

 「自国他国問わず、自分の国の旗や歌を賛美したい、誇りたい、そんな人の価値観を否定するような教育はしてはいけないですし、むしろそんな人の「価値観」を尊重するべきという基礎的教育をする必要はあるでしょう。
 
 国旗国歌に敬意を払う人の価値観を尊重する教育と、自国の国旗国歌に敬意を持たねばならないと指導する教育は、全く別物では、と思います。
 
 少なくとも日本国憲法は個人の精神的自由を人権として保障している以上、特定の価値観を持つことを強制されないことは重要な権利だと考えます」ということです。

 質問

 原告の教師は、教師の仕事をしていない。

 やれ学習指導要領、やれ日本国憲法、
 はては自公政権に石原新太郎ですか。

 生徒の方向を向いてない。
 議論の方向が、質問の内容が、
 そういった性質のものじゃなかったとしても、
 一言でも「生徒は」という言葉が出て欲しかった
 
 回答

 子供は、受験体制、指導要領の校則、「日の丸、君が代」強要、検定教科書の学習内容、高額費に悩まされているんですね。

 さらに、教員を処分し、「日の丸・君が代」を教員に強要していくことは「日の丸・君が代」に対し、起立し、斉唱する教育体制へと直結します。子供が起立し、斉唱しなければ、自公政権・石原慎太郎都知事、教育委員会が教員を指導力不足教員として処分するという事態へ向かうのであり、この体制が教育基本法10条違反、憲法違反だということなんです。
 
 学問を学ぶことは、基本的な言語能力、実生活上の基礎的知識、社会の成り立ちと仕組み、自然界の諸法則、芸術的感性の修得など、現代社会で人間らしく生きていくために不可欠です。

 端的にいって、義務教育程度の知識に著しく欠けるようであれば人格ある個人として実生活を送ることにかなり不安があります。

 けれど、国旗国歌は国の仕組みをなんら教えてくれません。「君が代」を何べん見ても日本の統治機構のことはわかりません。国家神道の立場から天皇支配の永久性を読み込むことはできるかもしれませんが、現代政治が天皇個人の意思で動いているはずはないでしょうからナンセンスです。


 質問

 そんなに国歌や国旗が嫌いなら
 
 教師になんてならなければいいのに。
 教師は公務員であることは、皆知っているはず。
 何故、わざわざ自分から国家権力の下に入るんですか?
 国家権力は嫌いなのに、国家から賃金を得るのには違和感を感じないのでしょうか?
 私だったら、嫌いな会社に勤めたくなんてないですが。

 回答

  「そんなに憲法の人権規定が嫌いなら、教育長やら知事やらの公務員にならなければいいのに。公務員は憲法尊重擁護義務があるんですよ」
という話になりますよ。

  児童・生徒に受験制度、校則、検定教科書等を強制しているのは誰ですか。自公政権でしょう。教員ではありませんね。

 事実に基づいて人権を実現していくことがことが教育です。「日の丸・君が代」の歴史上の事実を子供たちにしっかりと教えた上で、子供たちが自主的に判断せねばなりません。「日の丸・君が代」の歴史上の事実を子供に十分に説明せずに、刷り込みのように「日の丸・君が代」を学校に持ち込んでくる教育行政のやり方が、子供たちを欺く事実上の強制にあたると言っているのです。

 公務員は国家から賃金を貰っているのではありません。国民全体から賃金を貰い、国民全体に奉仕するのが公務員です。さらに、国民には職業選択の自由と勤労権がありますから、「国家権力が嫌なら公務員になるな」だとか「会社がいやなら辞めろ」などという発言は人権侵害に当たる発言となります。究極は「日本国が嫌なら、日本を出て行け」となります。どこの国の人の発言でしょうか。

 質問

「器物破損に違法性阻却事由が存在するのか?については、その破損行為を免責するだけの事情が必要であることは言うまでもありません。この判断は司法が行うもので、自分が行うことはできませんが、”内心の自由”を犯されたとしても、相手の財産権を侵害できる、という違法性阻却の事例を自分は知りません。従って、国旗という器物を破損した教師に関しては、刑法的違法性をもって取り扱うしかないのでは?」

 回答

 「なるほど。確かに、言論、裁判、政治運動等で抗議すべきであり、器物損壊は違法ですね。納得しました。ただ、内心の自由をズタズタにされた教員の気持ちは汲んであげて頂きたいと思います」

 質問

 「加味するだけのお話だと思いますが、次の質問です。教育行政の介入に法的な正当性の問題は、予算を捻出してることからある程度はあるとは思います。まず、税金が投下されるシステムにおいて、行政が参画してることは言うまでありません。

 同時に公教育の提唱は行政が行っています。教育権は保護者であっても、学校施設などの財産権など行政のものでしょう。その上で行政側の財産権や学校運営の過程での定款つくりはある程度は、学校そのものの管理のために必要であることは言うまでもありません。生徒の内心の自由も財産権を尊重されうることでしょうしね、そこで学校の運営責任が存在する行政としては、ある程度の教育介入の権利が存在しえるということです」

 回答

 「教育行政の介入に法的な正当性の問題は、予算を捻出してることからある程度はある」

 これは誤りです。

 予算の下は国民の税金であって、教育行政の現場への介入の根拠にはなりません。教員も公務員も国民全体に責任を負って国民全体に奉仕するのであり、国家に奉仕するわけではありません。

 さらに、教員は国民に直接に責任を負ってその職務を行うという規定が教育基本法10条に規定されており、政府、判例のいうような間接民主主義の統治原理を根拠にして、教育行政が現場に介入することを退けております。

 にもかかわらず、教育行政が「日の丸、君が代」を執拗に教育現場に指導、助言しくるわけでしょう。そのこと自体が教育現場に対する不当な支配ではないか、と。

 さらに、「行政側の財産権や学校運営の過程での定款つくりはある程度は、学校そのものの管理のために必要であることは言うまでもありません。そこで学校の運営責任が存在する行政としては、ある程度の教育介入の権利が存在しえるということです」について。

 この見解は教育基本法が想定するように各自治体の教育委員会が公選制であって、各学校に自治権が認められておれば、そのとおりですね。しかし、その前提が今現在はありません。

 そうすると、やはり、「日の丸、君が代」を各学校に導入していくこと自体が違法となるのではないでしょうか。入学式・卒業式においては校旗と校歌を各学校が自主的に決めて行けばよいことです。

 「日の丸・君が代」を是非、式典に導入すべきだという意見が住民、国民の多数意見なのでしょうか。そうではありません。教育行政が各学校に導入してきたものを既成事実として追認しているだけでしょう。

 PKO自衛隊海外派兵と06政治情勢のエントリーでも言いましたが、既成事実のねじ込み、蓄積で自公政権が住民・国民をどこに持っていこうとしているかは現在の政治情勢から明らかです。

 そのような全体の自公政権の政治路線の一環として、「日の丸・君が代」導入が各学校に実施されているのであり、単なる「国歌・国旗」導入ではない、ということです。

 ゆえに、教育基本法10条の禁じる不当な支配に当たることは明白なのです。

 なお、行政施設の財産権は国民全体に所有権があります。行政は国民全体から財産の管理・運営を委託されているに過ぎません。国家・自治体は国民全体・住民全体の財産・所有であり、公務員の所有物ではありません。

 質問

 「ガイドラインとして指導要領による内容の一律化は是非は公平性を保持するためには否定しない立場について何か問題点はございますか。」

 回答

 同感です。ガイドラインは必要です。ただ、今現在の文部科学省・財界・自公政権主導の指導要領ではなく、子供・保護者・教員・研究者主導の指導要領である必要があります。これを制定するのに時間がかかりますが、すばらしいものができると考えます。

 
 総括

 質問

 「人の子の晴れの卒業式の日に、小学生の面前で日の丸に尻を向けて着席するなんて、それこそ幼児以下」も価値観であり、国民の中にはそう思っている人も少なからずいるわけです。

 回答
  
 しかし、処分してまで「立たせて、歌わせろ」という人々はごく少数では?これは狂信者の見解ですね。こうした異常で少数の見解に基づき教員を処分した都教委の行政行為が教育基本法10条違反、憲法19条違反として違法だと東京地裁で判決されたわけです。

 さらに、世界観の違いによる不快感はお互い様であり、それをお互いに寛容する社会が自由社会というわけです。(東京地裁判決と同旨・憲法19条)

 加えて、入学式・卒業式においては校旗と校歌を各学校が自主的に決めて行けばよいことです。「日の丸・君が代」を是非、式典に導入すべきだという意見が住民、国民の多数意見なのでしょうか。そうではありません。教育行政が各学校に導入してきたものを既成事実として追認しているだけでしょう。

 そして、既成事実のねじ込み、蓄積で自公政権が住民・国民をどこに持っていこうとしているかは現在の政治情勢から明らかです。

 そのような全体の自公政権の政治路線の一環として、「日の丸・君が代」導入が各学校に実施されているのであり、単なる「国歌・国旗」導入ではない、ということです。

 ゆえに、教育基本法10条の禁じる不当な支配に当たることは明白なのです。

 基本認識は、日の丸・君が代を学校に導入する方が違法だからだからであり、現行憲法にふさわしい国歌・国旗を定めればよいのであり、卒業式・入学式に日の丸・君が代を導入するなど子供たちの自主性に基づく式典であれば、およそ採用されえない国歌・国旗だからであり、学校教育の自主性に逆行する存在の象徴であるのが「日の丸・君が代」です。

 何故、教育行政が学校の卒業式・入学式のやり方に首を突っ込み、介入してくるのでしょうか。

 教職員・保護者が主権者であり、地域住民・学者は統治者として無能ではありません。教育行政が教育現場に介入してくるのは主権者である住民と国民を衆愚扱いするものではないでしょうか。

 教育行政は金と設備と情報提供だけして、後は放っておいてくれ、ということです


 なお、①学習指導要領の法的拘束力は各学校の具体的な教育内容・方法には及ばないという判断が最高裁の判決で確定しております。

 さらに、②学校長の職務命令(教育行政権ではなく、学校教育の自主性としてのそれ)に基づく教職員の服務義務については原則として認めねばならないが、職務命令に重大かつ明白な瑕疵がある場合はこの限りではないとの最高裁判例も確立されています。

 ゆえに、①学習指導要領に基づく一切の通達の法的拘束力は大綱的なものに限る、各学校に対する教育委員会等の教育行政は助言・指導に留まるのであり、具体的な教育内容・方法には法的な拘束力はない。各学校で自主的に決定すべきことである。

 ②学校教育の自主性に基づく学校長の職務命令についても教職員の人権を不当に侵害する場合はこの限りではない。

 以上のように、すべての論点について、今回の東京地裁の判決は最高裁判例を踏襲しているのであり、これが覆ることは余程の事情がないと変更されえないものです。

 今現在、教育基本法・憲法を改定しようとしている自公政権の政治的な圧力が最高裁にかかり、最高裁がこれに屈する場合にしか判例変更はないでしょう。

 以上。
 

 追記:なお、教育問題について、さらに全面的に知ろうとする人は、本ブログの06・9・28の投稿「社会の規律について」と06・9・24の投稿「自民党・安部総理の教育バウチャー制度」をあわせて参考にしてください。



コメント (18)   トラックバック (2)

社会の規律のこと。家庭教育・学校教育・社会教育・企業教育。

2006-09-28 22:41:51 | 国内教育
 基調報告 

規律の問題ですね。あきらさんも僕も基本的に同じだと思っているのですよ。実は。

 つまり、社会規範とは個人の社会性であり、個人の社会性が内心に留まれば道徳規範です。ゆえに、自らの道徳を表わした態度に社会性があれば社会規範だということで、そのような規律が社会には必要だということですね。

 身勝手に自分の生活だけが向上すればよい、という拝金主義とエゴイズム、ギャンブル生活、アルコール依存症、薬物中毒、悪質商法の横行、あるいは、尊属殺人、児童虐待、児童売買春、性生活の不倫、乱交的退廃、無気力な勤務態度、どうなっているのだ、と。

 家庭教育、学校教育はどないなっとるのか、と。同感なんです。

 ただ、僕は「話し合って分からせる」ことが教育だと考えるのですが、あきらさんは「現実を見ろ、と。話して分からん奴が犯罪を犯し、犯罪じゃないと言う理由で無気力な勤務態度、アルコール依存、政治無関心、しらけ、ギャンブル三昧、娯楽と遊興にあけくれている、と」そういう奴はどこから発生するのか、と。

 家庭と学校である。だから、学校と家庭で規律と道徳精神を強力に恐怖を与えてでも体得させねばならない、と。無規律な者が、豚箱に行く前に。国土を中共に強奪される前に。本土を命がけで戦争する一億総民族の国家への帰属意識を叩き込まねばならない。

 敵前逃亡するものは不道徳の典型であるから死刑にする、と。いくぞっ、と。覚悟を決めろ、と。祖国を裏切る者には、こうでもしないと規律は維持できない。本来は自ら志願して特攻して当たり前である。それができない奴は軟弱である。道徳教育、しつけの愛情がたりないからである。

 「話し合い」などという無責任な奴らは、自由、自由と騒ぎ立てて、国家権力、会社権力、親の権力、教員の権力などすべてを否定して子供を放任するだけだ。

 そんな無責任な親と教員の態度と思想が今日の日本国の荒廃の原因である。よって、子供に規律を体得させるには国家権力、会社権力、教員の権力、親の権力、年長者の権力、男性の威厳と威力・腕力によって、厳しく子供、女性をしつけていく、と。

 そのことで子供と女性たちは規律を体得し、国家権力、男性の腕力などの威厳と誇りに対して、尊崇し、敬愛し、態度と思想で心から男性と権力に献身し、尽くし続けるようになる。ああ、美しく、整然とした日本国の魂と伝統が復活した。ジェンダー教育と自由教育の息の根を止めた。さあ、新しくすばらしい日本国へ、と。

 結局、子供・女性の自由とは子供・女性にすべての責任をとらせる権力と男性の命がけの腕力・威力によってでのみ実現する、と。

 あきらさんの言いたいことはこんなところでしょう。 

 家庭と学校で具体的に起こる社会問題について、どのような態度と言論で解決していくか、という議論をしないと拉致があかないと思います。

 ちなみに、僕は祖国を捨てて、中国の日本国を明渡すことが道徳などとは微塵も思っておりません。真の道徳は侵略国家に対しては専守防衛で受けて立つことが当然である、強く考えております。が、逃げ出すものを軽蔑しても強制することはできません、誠に遺憾で悲しく情けないと思い、怒りを覚えますが人権尊重の限界なんです。

 僕もあきらさんも祖国を捨てて自己保身の存在も、同じ人間という事実がある限り、きっと僕とあきらさんが認識した地点に人間は到達するのではないですか。

 どう考えても、オウムの麻原・北の金正日ですら同じ人間だという事実は不動なんです。

 あんたも俺も同じ人間だろう、わかるだろう、と。この魂のぶつかりあいとしての話し合い、時には激論、罵詈雑言もあるでしょう、しかし、強制は教育ではなく、魂の闘論を手段として成立するのが人間教育なんだと考えます。

 エピソード始まり

 報告1

 地裁判決が出たのに「石原都知事」は判決に従わないで、校長会を招集したみたいですが、規律違反者は石原都知事の方ではないですか。判決に従わないのは何故ですか。彼がただの唯我独尊の自己中心だからでしょう。

 石原都知事の言う社会規範とは「俺が法だ」ということであり、ルイ14世のいう「朕が国家なり」と同じですね。そんな者が教育を語る資格などないのです。

 反論1

 石原都知事の独裁ってのはどうでしょうね? 都教委は知事の命令で動いてるんでしょうか? 校長会は、判決に左右されることなく従来通りの立場を貫くよう決定したようですが。

 回答1
 
 教育長は知事が任命します。テレビでも都知事が出てきて回答していましたね。従来どおりにするということは、判決が違法としたやり方ですから、それを執行停止することを決めることが規律を守る知事だということです。それを無視するから、独裁者だと言っているのです

 反論2

 まあ熱弁を振るって右派を貶めてみたところで、現実社会では君たち左派の見解は到底、多数意見とは言えまい。これは厳然たる事実であろう。違うかね?

 回答2
 
 現実社会の多数は右か左かではなくで「あいまい」「わからない」ですね。「日の丸・君が代」で言えば、別に立っても、立たんでも、歌っても、歌わんでも、どっちゃでもいいというのが厳然とした多数説ですね。

 処分してでも歌わせ、立たせるという説は現実社会では違法であり、極めて少数の説ですね。

 エピソード終わり

 質疑応答

 さて、規律についてですが、早速、今現在、学校と家庭で具体的に問題となっている規律違反として、どのようなものがあるでしょうか。あきらさんが問題視していることについて、お聞きしたいのですがよろしくお願い致します。子供のことで議論いたしましょう。労使関係、職務命令、通達の法的拘束力の問題は置いておきましょう。

 質問
 
 「わかりました。では…最近特に心配なのは不登校児童が増えたこと、また学校での子供が同級生を刃物で傷つける事件の多発です。これは勿論子供が悪いわけではなく社会や親の責任だと思います。ほかに何かありますか?」

 回答

 僕は中高生の中絶と性教育、また、勤労による社会貢献よりも金儲けを優先させる風潮、つまり、他人の人命に対する愛情と勤労の社会貢献性をもっと教えて行くべきだ、と考えています。

 拝金主義、株価至上主義、賭博が健全な勤労意欲を殺ぎ落とす存在だと言うことをもっと子供たちに教えて、勤労による社会貢献のすばらしさ、デイトレード、公営ギャンブルでの不労所得のあぶく銭の害悪性を教えて、金はなくとも誇りをもった勤労者を育成せねばならない、と考えています。

 人命と勤労への愛情と社会性についてです。

 そこで、「学校での子供が同級生を刃物で傷つける事件」についてです。

 やはり、「自分が責任をとれば何をしてもよい」という自己中心主義を批判し、「他人の命、財産、思想」そのものを尊重していく公共性、社会性を育成する必要があります。

 要は、「死刑になる覚悟があれば何人殺してもよい」などいうハイリスク・ハイリターンの自己中心的なドグマを共に学校生活し、家庭生活し、話し合う中で、改善させる必要があります。

 次に、「不登校児童が増えたこと」についてですが、この点は、例えば、「イジメ」「授業がわからない」などの理由が一般的です。しかし、①「朝起きるのが嫌だ」②「先生の容姿が嫌いだ」「だれだれ君、だれだれさんがなんとなく嫌だ」などという理由であれば、学校へ行かせるべきです。

 ①については、まさに規律です。朝起きて、将来、勤労者として社会貢献し、家庭を持って子育てし、国家・自治体の主権者として社会貢献していかねばならない。そのことを学習しに行くことをさぼろうとするとは何事なのか、と怒らねばなりません。お父さんもお母さんも含めて、みんなが勤労して社会貢献して建てたみんなの学校なんだ、と。だから、みんなの社会に貢献するような人間に成るようにみんなで協力して学習しなさい、ということです。

 ただ、現実は受験競争制度でバラバラにされているし、保護者の間でもギスギスしています。受験制度は教育的には完全に悪ですよ。

 ②については、容姿だとか雰囲気だとかで人間を排除することは差別だと教えなければなりません。それは個性なんだということです。容姿とか雰囲気はそれぞれであって当たり前だという寛容性を認め合いなさい、ということです。

 例えば、給食の時間に、正面の人が「ぐちゃぐちゃ」ならして食べるのが気持悪い、とか牛乳を拭いた雑巾を洗わないでそのままにしておく、などということは、確かに行儀の悪いことです。

 でも、行儀の悪い子を学校から追放するか、自分が不登校になるかではなく、先生と行儀のよい子が協力して、長い目で、お行儀を体得させていくという寛容性が教育の実際ではないでしょうか。

 質問

 「あなたも指摘された通り、公共性への感覚は、まぁゼロに近いですね。私は極論を言えば、子供を教育する親を教育しないといかんように思います。今、アパートやマンション住まいで近隣との付き合いがどれほどあるでしょう。昔は隣組があり、引っ越してきた人は必ず挨拶に行くことが当たり前でした。インドネシアではまだその習慣が残ってる地域があるように聞きます。拝金主義は個人主義社会では 当然そうなるでしょうね。カネは魅力的だし、詐欺だろうがなんだろうが、オレの勝手…ですからね。まぁ言い出したらきりがないですよ」

 回答

 僕の言うレベルのことは僕が小学校・中学校に行っていたときから先生たちはがんばって指導していました。だから、職務怠慢な教員など実際はほとんどいない、ということですよ。

 各教科の授業・宿題・テストを授業して、成績表をつけて、保護者懇談会を開き、家庭訪問までする、クラブ活動の顧問、引率。遠足、社会見学、林間学校、修学旅行、文化祭、体育祭、運動会、入学式、卒業式、始業式、終業式朝礼等の準備・指導。給食、掃除の指導。

 さまざまな問題行動の相談、話し合い、生活指導、進路指導など激務を極めているのではないでしょうか。

 ただ僕はそのような先生たちのことを今、振り返り恩師に感謝の念を持っております。学校にいる時間の方が家庭にいる時間よりも長く、さまざまな気苦労をおかけしたであろうし、本当にお世話になりましたという気持ちです。僕の社会性を支える大きな根拠の一つです。

 ただ、①中絶と性教育のこと、②拝金主義と勤労の社会性・公共性の関係、③「朝起きて、将来、勤労者として社会貢献し、家庭を持って子育てし、国家・自治体の主権者として社会貢献していかねばならない。そのことを学習しに行くことをさぼろうとするとは何事なのか、と怒らねばなりません。お父さんもお母さんも含めて、みんなが勤労して社会貢献して建てたみんなの学校なんだ、と。だから、みんなの社会に貢献するような人間に成るようにみんなで協力して学習しなさい、ということです」

 以上の三点については、集中的に教育された経験がないので、その点が今現在、学校教育、家庭教育に必要なことかと感じています。

 賭博は勤労意欲を殺ぐから犯罪ですね。このことをもっと教えるべきだということですよ。

 で、証券取引所自体が賭博開帳ではないか、という所まで問題意識が発展すれば成功ではないか、と。

 「今、アパートやマンション住まいで近隣との付き合いがどれほどあるでしょう」

 僕はマンションに住んでいるのですが、子育て世代のお母さんたちはマンションの自治会で子供祭りをしたり、下で子供らを遊ばしたり、お互いの家に招待したりして、交流を深めて雑談している姿をよく見かけますよ。

 元気よく、ギャ-ギャ-わめき散らしながら、走り回っていますね。ほほえましい光景です。昔の僕たちの頃を思い出して、笑ってしまいます。

 ただ、ごく一部ですが、大人らをにらみつけるような根拠のない反抗的な態度で失礼極まりのない者がいます。(このようなチンピラは、だいたい、原付、タバコ、セックス、恐喝、窃盗、ナイフ、木刀等の所持等の要素を揃えており、その品性・道徳の下劣性を集団で実現しています)が、そのような者に威圧的な態度で臨めば刑事問題へと直ちに発展し、問題の教育的な解決にはなりません。そこで、大人の役割が求められます。

 つまり、教員とチンピラ集団の親の力を中心に友達やその保護者らの力でチンピラを更正させていくことが教育です。

 鎮圧、没収、補導というのは社会分業の下で、警察の役割となっています。子供のことですから、極力、教育の力で「話し合い」を手段として、本人らの自発的な社会性・公共性を育てることになります。
 
 が、明らかな犯罪行為については警察へ通報することになるのは当然ですが、その場合においても少年法の理念である教育刑主義で対処していく必要があります。

 質問

 「そう、問題山積みですね。受験制度は狭き門ではなく、入り口は大きく、出口を狭くすべきです。これは、言われ出して久しいことです。学校については、あなたは勤労者の努力で建てたとの意識が第一義のようです。ま、確かにそうなんですが、私らはお国が建てたくれたって気持ちが強くありますね。だから教科書などもそれは大事にしたものです。今の高齢化社会は三層からなる断絶の構造があるように感じます。75歳以上の人口は国民の一割を占め、65歳以上は二割となっています。私は一割の中の一人ですが、今の活気がない日本を見ていると、このさきどうなるのか心配になりますよ。日本は労働者の集合体の共和国なのか、天皇を象徴として戴く立憲君主国なのか…あなたはどちらだと思いますか?またどちらが理想でしょうか?」

 回答

 受験制度の解決策として、入り口を広くする、つまり、「希望者全員入学を実現する」には賛成です。

 しかし、出口を狭くする、つまり、「卒業できる生徒、学生を少なくする」ということであれば、卒業を巡って生徒間、学生間、保護者間で競争が起こることになり、ギスギスした人間関係(協力するよりも自分が勝ちぬけようとする、他人を出し抜いて自分が勝ち残ること、みんな自分がかわいいという自己中心主義を正当化する制度上の根拠)は維持、存続されるのであり、問題の解決にならず、賛成できません。

 ゆえに、「①朝起きて、将来、勤労者として社会貢献し、家庭を持って子育てし、国家・自治体の主権者として社会貢献していかねばならない。そのことを学習しに行くことをさぼろうとするとは何事なのか、と怒らねばなりません。お父さんもお母さんも含めて、みんなが勤労して社会貢献して建てたみんなの学校なんだ、と。だから、みんなの社会に貢献するような人間に成るようにみんなで協力して学習しなさい、ということです。

 ②ただ、現実は受験競争制度でバラバラにされているし、保護者の間でもギスギスしています。受験制度は教育的には完全に悪ですよ」

 ①を実現する阻害要因である②を除去するには、「希望者全員入学」と同時に「希望者全員卒業」制度を実現せねばなりません。

 このような公正・公平な民主主義教育制度に対し、戦後一貫して受験競争、差別・選別・競争の財界・国家主義教育制度を頑なに維持・実現し、子供・保護者を苦しめ、ギスギスした人間関係(自己中心主義、他人より自分、自分が責任をとれば何をしてもよい、競争原理至上主義)の要因をつくってきたのは財界と自民党であるのは感情・ドグマ・偏見・思い込みではなく今も昔も変わらない財界・自民党の事実であり、等身大の実像なんです。

 質問

 「試験は何も入試だけではありません。試験を全て廃止したら、成績評価はどうするんですか? 競争は官において無さ過ぎたため、様々な弊害が生じたことは国鉄のケースを見ればよくわかります。一般に社会主義の国柄は暗い感じは否めません。ギスギスした関係ってのが、よくわかりませんが、努力した者がしない者より報われることは当然かと思います」

 回答

 ①試験は子供の弱点診断のためにします。当然です。

 ②あきらさんが言っているのは競争でなくて、賃金評価のことですね。あきらさんの言うとおり、賃金評価は必要です。金額に差をつけて当然です。ベテランと若手は労働能力に高低があるので賃金額に高低をつけて当たり前です。

 ③僕はあきらさんのいう社会主義を完全に否定しています。すなわち、人間社会である限り、諸個人の労働能力の格差はあり続けるのであり、賃金の金額も当然異なるということです。これを無理に同じにしようとすれば強力な国家権力による人民抑圧が必要となり、いわゆる悪平等の共産主義社会となり、結局は、反人間的、反社会的な分配思想であるから、国柄は暗い感じとなることは否めません。

 ④「ギスギスした関係」

 みんなで教えあって協力して学習するのではなくて、出来る子と出来ない子に分けて学校生活を過ごすということがギスギスした関係です。

 出来る子の間や保護者の間でも、進学校の椅子とりゲームでギスギスするということです。自分が教えたことで他人が合格すれば自分は損するからお互い隠しあってギスギスするのですよ。

 これは教育問題ではなく、賃金・労働条件の問題ですが、参考までに言えば、賃金体系は終身雇用・年功序列が一般的だったのは、仕事を教えあうような関係が阻害されないからです。

 今現在、解雇競争、つまり不安定雇用、それと下剋上の成果主義賃金制度が会社と公務員に導入されてきているのでチームワークが取れなくなって個人主義が横行し、メンタルヘルス、技術承継等で社会問題化しています。

 僕は終身雇用・年功序列賃金制度がベストだとは思いませんが、不安定雇用・成果主義賃金制度と比べて、よりましなベターな選択で終身雇用・年功序列賃金制度に戻すべきだと考えます。

 質問

 「学校で、出来る子出来ない子を振り分けるんですか? それこそ揉めませんか?かつて経験がない手法ですね。まぁ知恵遅れの子の特殊学級はありましたが。問題ありすぎなように感じますが」

 回答

 いや、出来る子と出来ない子が一緒に学校生活を協力して過ごすということです。

 「ギスギスした関係」というのは、出来る子と出来ない子の学校に分けるシステムで学校間格差という受験制度です。進学校と底辺校ということですね。これが今の偏差値による受験競争システムです。

 今、習熟度別編成といって、学校間格差を教室にまで拡大してきているのが自民党と公明党の教育政策です。

 このような偏差値・学校間格差・習熟度別教育は受験競争制度の貫徹であって、あきらさんの言うように「揉めること」になるし、出来ない子に恐ろしく暗く惨めな劣等感をうえつけますし、出来る子も転落したくないので、過度の競争のストレスから、うさばらしで弱者を見下すような無残な犯罪行為に走ることすらあります。

 質問

「なるほど…ま、主要五科、技術四科の教育はその手法も考慮に値するかと思います。しかし学校教育で最も大事なのは道徳(修身)教育ではないでしょうか?

  徹底した個人主義の考え方で、豊かな教育が可能でしょうか?家族とは何かを真剣に考えてゆけば、国家と言う概念も理解できるでしょう。家族とは単なる個人の集まりではないですよね。夫婦、親子その他親戚どとの付き合いも関係しています。そして家族の歴史も当然あります。国家もまた単なる個人の集まりではなく、共通の文化、言語、伝統を有する共同体なんです。

 国家を愛せないような教育で家族愛が養われるとは思えません。何しろ戦後の憲法論は国家と政府を区別しないままなおざりにしてきたと言わざるを得ません」

 回答

 そのとおりだと思います。

 特に、政府と国家の区別については、今現在であれば、政府とは自公政権のことであり、国家とは日本国に生活し、勤労する人民全体と民族文化のことであり、両者は区別せねばならない、と考えます。

 で、政府(時の国家権力)ではなく、国家、すなわち、日本国に生活し、勤労する人民全体、民族文化に社会貢献していく人間を育てることが道徳(修身)教育だと言えます。

 その場合に、まず、社会の最小単位である家族に対して、自らが自発的にどう社会貢献していけるかを考えて、生活していくことを教えることが教育の始まりだと言えます。

 学校教育でも、同じです。あきらさんの言うように、個人主義で自分勝手で無規律な反社会的または非社会的な消極的な人間は自主独立した積極的な活気ある元気な社会人とは言えません。

 そこで、こうしたことの対策として、家庭教育でも学校教育でも①ボランティアの奨励だとか、②勤労の社会貢献性、③自治体・国家を所有し、運営する主権者としての自主独立した積極的な社会貢献性、公共性、勤勉性などを子供らに体得させて行く学習環境と教育がなされねばならないと思います。

 こうしたことの大切さを①拝金主義の個人主義②非行・犯罪行為、中絶③政治的無関心、無気力などの反社会的、非社会的な、あらゆる個人主義的行為と比較しながら、大人たちを先頭に子供の間でもわかりやすく社会性、公共性を教え合い、積極的に学習していく道徳教育・学習を家庭、学校、地域、企業、報道等あらゆる場面で実践していく必要があります。

 知徳体の個人主義的な無規律、身勝手を排し、知徳体の社会的、公共的な実践者を育成することが人格の完成を目指す教育です。

 








 
コメント (1254)   トラックバック (7)

障害者自立支援法を強行採決した自民・公明議員を落選させよう

2006-09-25 18:01:04 | 国内政治
 本日、朝日新聞が自民・公明が強行採決して社会を騒がせた「障害者自立支援法」の実施状況を報告した。これにより、民主・社民・共産が反対した理由が明確となった。

 自民・公明議員が障害者の人たちの就労と生活を不安と混乱の前にめちゃくちゃにしている事実を本日の朝日新聞は報告している。有権者は自民・公明の議員に政治責任をとらせ、彼らを国政・地方選挙において落選させなければならない。

 以下、無責任にも自民・公明議員が自立支援法を強行採決した結果、障害者の人たちの就労と生活がどうなったか、さらに今後どうなっていくかの朝日新聞の報告を引用する。

 障害者とその両親への悪影響について。

ケース1

 鳥取県米子市の共同作業所「吾亦紅(われもこう)」に通う重い知的障害の女性(28)は、10年前から菓子などを焼く作業に携わる。工賃は月に九千円。施設利用料の一割負担が始まった4月以降、毎月1万1600円の請求がある。不足分は月8万円の障害基礎年金から支払う。

 3月までは、1泊2日で600円のショートステイを利用し、週末を仲間と過ごしてきた。が、それも食費込みで2200円に跳ね上がり、行くのを止めた。

 8月の盆休み、女性ははさみで耳の上の髪を丸く切り落とした。丸く露出した地肌と、トイレに散らばった髪の毛に母親(55)が気づいた。

「ショートステイを止めて、生活リズムが狂い、ストレスになったのでしょう」

 自宅で過ごす女性から目が離せず、母親は山口県に住む親の介護に通えなくなった。

ケース2

 大津市の身体障害者通所授産施設「いしづみ」では、負担増を理由に6人が通所をやめた。

 脊髄の異常で、19年間車椅子での生活を送る市内の女性(51)がその一人だ。乾燥させた切花をかごに生ける作業で得る収入が1日当たり約700円なのに、施設の利用料と食費を合わせると1300円になる。

 施設で友人も増え、休日には一緒に映画などを楽しんでいた。が、「仕事の技術を磨くことが出来て収入が増えるならまだしも、通うほど赤字では」と肩を落とす。

ケース3

 千葉市緑区の入所・通所授産施設「セルプ・ガーデンハウス」に5年前から通っている重度の知的障害を持つ男性(24)は、今までの週5回の利用を8月から週3回に減らした。それでも、負担は3月までの2.5倍だ。

 彼は言葉での意思疎通は難しいが、施設の送迎バスを見るたびに笑顔を見せ、母親(50)が「今日は休み」と声をかけると、がっかりした顔つきになる。

「施設には世代を超えた交流や仲間からの刺激があった。これ以上、利用は減らせません」

 しかし、10月から始まるシ障害程度区分認定では、施設入所は「区分4」以上と定められている。

 この点、身体的自立の程度を問う介護保険の調査項目を中心に区分を決めるため、知的・精神障害者は実際より軽く認定される恐れがある。日本知的障害者福祉協会が医師の診断を加味する前の1次判定で2万人分を分析したところ、「最重度・重度」とされてきた知的障害者の7割強が「区分3」以下だった。母親らの不安は大きい。

「私が世話をできなくなったら施設入所を希望しても、それは不可能になる。将来の希望が崩れて行く感じです」


 障害者施設の職員への悪影響について。

ケース1

 大阪市住吉区の知的障害者通所授産施設「よさみ野障害者作業所」。

 障害者ら30人が通い、ハンガーの組み立て、紙すき作業に励む。今のところ利用者の退所や利用控えはないが、荒木勝司施設長(47)は「外出時に必要な移動介護を出来るだけ使わず、1割負担分に回すなど、家族がやりくりしている」と漏らす。

 法施行に伴い、身体、知的障害者の入所・通所施設に報酬単価の日割り計算が導入された。これまで利用者の人数に応じて支給されてきた額が、1日ごとに何人がサービスを利用したかで決まるため、利用者が病院への通院などで来所しないと、その分、施設の収入が減る。

 同作業所の場合、月々の収入が昨年より1割ほど減った。減収分は職員のボーナスを減らして補っている。

ケース2

 兵庫県尼崎市の「あぜくら作業所」では日割り計算に移行した結果、4-8月の収入が昨年同期比で776万円減った。このため、昨年度は休みだった土曜日を作業日にして、稼働日数の上乗せを図る。

 田中恭所長は「ちょっとした体の不調なら、できるだけ作業所にきてもらうよう呼びかけている」と打ち明ける。

 71人の通所者に対し、職員は常勤13人、非常勤8人だ。福祉講演会やバザーなどを開いて副収入を増やそうとも試みているが、とても追いつかず、職員減を検討せざるをえないのが実情だ。


 〇障害者自立支援法は、障害者福祉サービスを一元化し、障害者の地域での自立を支援することを目的とする制度である。自民・公明が野党反対と国民の合意を無視して強行採決して制定した制度である。

 しかし、同制度は所得を基本とした「応能負担」から、利用したサービス量で利用料が決まる「応益負担」の仕組みを導入したことを問題点とする。4月からの本人1割負担に続き、10月からは障害の程度を6段階に区分する認定制度が始まる。

 1割負担をめぐっては、同法で障害者の所得によって負担の上限額(1万5000~3万7200円)が設けられ、生活保護世帯は対象外。だが、食費や光熱水費は一定の実費負担が課せられており、金銭的負担を理由に、施設を退所する障害者が全国で続出している。

 例えば、熊本県の調査ではこうだ。利用料の定率1割負担などを導入した4月の障害者自立支援法の一部施行に伴い、負担増を理由に施設を退所したり、サービスを中止したりした利用者が5801人中56人(7月末現在)いることが21日、熊本県の影響調査で分かった。4月の負担平均額は入所、通所、児童デイサービス、ホームヘルプのすべてで3月と比べ増加していた。

 調査は7月末、サービス実施主体の施設・事業所と全市町村に郵送し、224施設(81%)、対象者数で5801人(84%)の回答を得た。

 通所、児童デイサービス、ホームヘルプの利用時間や日数が施行前の3月と比べ、2カ月連続で20%以上減った人は2444人中158人。50%以上減も98人いた。

 負担平均額は、入所は14700円増▽通所者は16700円増▽児童デイサービスは1500円増▽ホームヘルプは3150円増。通所利用者の約96%、ホームヘルプの86%は3月まで負担ゼロだったため、急激な負担増となった。法施行の影響では「他の生活費が足りない」(46%)「家族の負担が増えた」(31%)などの回答だった。



コメント (6)   トラックバック (3)

安部・自民党総理の教育バウチャー制度と教育改革

2006-09-24 19:25:04 | 国内教育
 現在、安部・自民党総理が言っている教育バウチャー制度とは、①義務教育段階で学校選択性を導入する。②公立小中学校の予算を削り、私立小中学校へ予算を配分していく、③私公問わずに、人気校に予算を重点配分する、という教育政策です。

①について、「東京都では二十三区中十九区が学校選択制を導入した結果、「進学実績のある伝統校」「施設のよい学校」が選ばれ、「荒れのうわさのある学校」「小規模校」が敬遠されています。品川区や荒川区、墨田区では入学者ゼロの小中学校が出ています」

 江東区でも入学者が七人という小学校が生まれました。「保育園のお友だちは頭のいい(隣の)学校に行った」と話す子どももいます。別の学校では「学力向上」のため小学一年生から毎日六時間授業をおこない、保護者から「やりすぎでは」の声があがっています」
(日本共産党ホームページから引用)

 ②と③について、「私立にも生徒一人あたり公立と同じ予算を配分します。例えば一学年五十人の学校と八十人の学校があるとすると、現在は学級数をもとに予算配分するので四十人学級ならどちらも二クラスで予算はほぼ同じです。しかし、生徒数を配分基準にすれば大きな差がつきます。

 バウチャー制では学校選択制で人気のない学校や、過疎地の学校は生徒が減った分だけ予算が減ることになります」
(日本共産党ホームページから引用)

 「イギリスのサッチャー改革では、一九九二年に教育水準局をつくって学校を定期的に監査し結果を公表しました。それにより以前は年間三千人程度だった退学者が、監査が始まった翌年は一万二千人に急増。評価結果を引き下げるような問題のある生徒を学校が退学にしたためでした。

 その結果、義務教育を修了できない子が8%にのぼりました。イギリスでニートが問題になったのも、学校教育から排除された青年の存在が大きいと言われます」
(日本共産党ホームページから引用)

 そこで、教育バウチャー制度を現実に実現した場合、義務教育がどのような事態になるかを述べ、野党勢力を躍進させる教育政策を対置するものです。

 その後、若干の質疑応答を掲載します。

 まず、子供の学習嫌いの原因がどこにあるかでしょうね。人間は生まれながらにして知的好奇心の塊ですからね。この人間の知的好奇心を発達段階に応じて満足させていく社会的な営みが教育です。

 ところが、今の自公政権の受験体制、検定教科書の内容は子供の好奇心、発達段階をベースにしたものなのでしょうか。

 学習することは楽しいことなのに苦しいことになっている原因は教員・保護者にあるのでしょうか。

 自公政権の受験体制、指導要領体制による政治介入が子供の学習嫌いを生む原因なのではないでしょうか。

 したがって、バウチャー制度を導入すれば必然的に受験進学校に子供が集中し、底辺校は統廃合され、教職員はリストラとなり、教育内容と方法は受験一辺倒となる傾向が加速され、学校間格差、受験競争は一層、過酷となり、「過度な競争が子供に対するストレスとなり」学校問題は一層深刻になるだけです。

 バウチャー制度は最悪の愚行だと言えます。

 最後に、安倍首相の主張とうり二つの文書があります。

 「四月十八日に日本経団連が発表した「義務教育改革についての提言」です。(1)学校選択制の全国的導入(2)学校評価(含教員評価)(3)教育の受け手の選択を反映した学校への予算配分(教育バウチャー制)を求めています。 政府の規制改革・民間開放推進会議(当時の議長・宮内義彦オリックス会長)も七月三十一日の中間答申でまったく同じ要求を掲げました」(日本共産党ホームページから引用)

 受験制度の廃止、少人数制学級の導入、教職員の多忙化解消、教職員の労働条件の維持、向上、教育費の無償化(機会均等の実質化)が緊急的に必要な教育改革です。

 その後、教科書改革へ進みますが、これは時間がかかるでしょう。


 質疑応答

 ①「ガイドラインとして指導要領による内容の一律化は是非は公平性を保持するためには否定しない立場」

 同感です。ただ、今現在の文部科学省・財界・自公政権主導の指導要領ではなく、子供・保護者・教員・研究者主導の指導要領である必要があります。これを制定するのに時間がかかりますが、すばらしいものができると考えます。

 ②「バウチャーの問題はある種、職業専門学校(高専など)を加味していないことも問題になるでしょうね。学校進学よりも「自分がしたいこと」を探すことの方が圧倒的重要であって、学歴至上主義的な見解でバウチャーを見るのは疑問視します」

 ①でコメントしたような新しい指導要領を制定し学校公教育を実現して行く中で確実に解決できますね。いや、コメントしていてワクワクしますよ。好奇心が刺激されて。

 ③「勉強は辛い側面」

 辛いのは何故でしょうか。

 ④「最近思うのですが、人間の好奇心というのは情報が少ない時代のことであって、現代のような情報飽和の時代では、好奇心のレベルが落ちているのではないか」

 そもそも、人間は外界の刺激無しには存在し得ない社会的な存在ですから、孤独と感覚遮断を完全化すれば、廃人になることは科学的に証明されていますね。

 だから、人間の好奇心のレベルは今も昔も底なしであるから科学の進歩と自由の実現も底なしに歴史的に実現して行っているのですね。

 メディアリテラシーを的確に行う授業計画を実践できないのは何故でしょうか。先生がいうように、

 「自分教員時代の睡眠時間は4時間でしたから(日曜は含めませんが)。オイタも現役時代に自殺しそうになるほど、現場と自分の構想の差異が出てしまったわけですが、かなり劣悪な環境ではあります。公務員というより学校の下僕ですからね」

 つまり「自公政権の受験体制、指導要領体制による政治介入が子供の学習嫌いを生む原因なのではないでしょうか」ということです。

 ⑤「授業がつまらないから&勉強したことが効用になる機会が少ないから・・・だと思います」

 その背景が、自公政権の受験制度等の教育現場への政治介入なのでは?(教育基本法10条違反・学習指導要領体制、教育基本法「改正」勢力(自公政権))

 ⑥「自殺しそうになった原因は、教師としての自分の能力不足です。断言します。自分の理想とする教育像と求めるあまり、それを押し付けてそうになったことへの自己嫌悪であり、教育システム的なものの責任は皆無ではないにしても、主因は自分だと断定しております」

 「ちなみに、勉強が辛いのは、強制されてるという側面と、苦手意識、分からないことへの苛立ち、ルーチン作業の嫌悪など色々ありますが、楽しく勉強する手法を知らないからでもあるでしょうね」

  「情報に対して、INPUTされたものをそのままOUTPUTするという情報の未消化の状況が顕著なのだと思うのです。これは、思考訓練(自己の価値観を疑う)ができないために、思い込み、思考停止に至るということです。疑問を持たないこと、教えられたことをそのまま受容する、こんな教育をした人間に責任があるのです」

 しかし、自然と社会を対象として「何故か」を思考し、実験、社会行動することが人間の探究心であり、科学の発展史ですよね。

 そうすると、何故、本来、「何故か」を探求する思考力を持つ人間が思考停止の教育を行わざるをえないかという問題になりますね。明確な矛盾であり問題点です。

 そこで、財界、自公・文部省式の学習指導要領上の知識詰め込み型の過度に競争的な受験教育制度、教員の多忙化によるメディアリテラシー教育の不十分性に問題があるのではないでしょうか、ということなのです。

 ⑦「自然科学と社会科学では回答が変わるでしょう。自然科学では数量、統計によって探求した成果が明確にできるわけですが、それ以上の探求は不可能になります。(統計的な数値を精査することはできますが、それ以上の検証作業は事実上不可能ですからね)

 社会科学ではその思考するにエンドレスがあるわけですね。だから教える上でどこかで理解するために簡略化することになります。例えば、この世に自然数は存在しません。

 まったく「1」「2」というものは存在せず、小数点までの数字でものは存在しえるわけです。机上の空論である経済学もあくまでも理論であって、その理論は細かい事象まで完全網羅した理論ではなく大雑把なものであるのですね。

 このような簡略化作業によって理解したことが全てだと思うから、思考停止になるんですね。このように教育における簡略化は教える上では回避しえないことではないでしょうか」

 学校教育のカリキュラムですので基礎・基本の自然科学の実験と仮説の授業となりますから、先生がいうような学校設備で実験不能な対象は基礎・基本を超えた最先端自然科学ですね(笑) 

 ただ、そのような現代の設備では実験不可能な仮説自体が科学であったり、非科学であったりした自然科学の歴史を教えることは必要ですね。仮説理論の確実性と不確実性が何に起因するかという学習です。

 僕もこんなことが優しく分かりやすく書かれた文献を読んでみたいです。

 社会科学についてはおのおのの価値観が社会行為化されたらどのような社会が実現するか、というおのおのの価値観と社会性の関係、さらに、現在と過去において、各々の価値観が実現した場合の歴史上の事実を学習することで、各々の価値観の社会科学性を思考、議論、日常生活化していくことになります。
コメント (12)   トラックバック (3)

東京都「日の丸・君が代」問題、東京地裁判決(06・9・22)

2006-09-24 01:23:57 | 国内教育
 前提事実というのは、被告(都教委)の出した通達の性格の実質を認定する背景・経過のことだと分かりました。
 
 この点、被告は各学校長に対する通達であり、直ちに教職員の服務命令になるものではないと主張していましたが、通達が出された背景・経過・具体的な教職員の処分状況を踏まえて、通達の性格の実質を認定していました。

 すなわち、通達は各学校長に対する通達という形式ではあるが、実質上は教職員への服務命令であると認定しました。

 さて、上記、通達は学習指導要領の一環として出されたものであるから、学習指導要領の法的拘束力を検討しました。最高裁判例を踏襲し、大綱的基準論を採用し、一般的な法的拘束力を認定しました。しかし、個別具体的な教育内容、方法は現場の裁量に任されるとしました。

 この点、国歌・国旗について教えなくてよいと言う判決ではなくて、これを積極的に教えて行くことが国際社会に生きる日本人民として重要な素養だということです。
 
 しかし、①国旗、国歌をどう教えるのか②入学式・卒業式以外のどの行事に国歌、国旗を導入するか③どのような方法で国歌・国旗を斉唱・掲揚するか、は現場の各学校の裁量だという判断です。その具体的な方法にまでは学習指導要領及び通達の法的拘束力は及ばないということです。
 
 さらに、学校長の職務命令についても、原則として、所属教職員は学校長の職務命令に従う義務があるが、職務命令に重大かつ明白な瑕疵ある場合には、これに従う義務はないとする最高裁判例を踏襲しました。

 今回のケースでは職務命令が教職員の精神的自由権を侵害する重大かつ明白な瑕疵があると認定しました。世界観の違いによる不快感は日本人民としてお互いに寛容である必要があるということでした。

 こうして、教職員に「日の丸・君が代」を起立、斉唱させる被告(都教委)の行政行為について違法だと結論しました。

 追記:現実は受験制度の下での教育となっていますから、どこまで「日の丸・君が代」を通して自国と他国に対する敬愛の念を育成する教育活動が行えるかは疑問ですが、ともあれ、国旗・国歌についての教育活動は学校教育で行われても当然だと言うことですね。

 06年秋の臨時国会の最重要法案である教育基本法「改正」と関連させて今回の判決の意義を考えると東京地裁はこのような政治情勢の中で司法権の独立を示したのであり、すばらしい判決だと言えます。なお、すべての論点について最高裁判例を踏襲しているので、今回の判決が上級審で覆ることがあるのならば、最高裁判例の変更ということになるのであり、明らかに政治情勢上(教育基本法「改正」)の判断が働いた判決ということになります。
コメント (2)   トラックバック (1)

公正な放送と安部晋三のドラマ

2006-09-23 22:09:28 | 国内政治
 本日、テレビ朝日が19:00-21:00の枠で自民党総裁・安部晋三のドラマが放映されました。

 そこで、まず、放送の公正とは何かを簡単に述べ、次に、では、有権者はどうすればよいのかについて書きます。

 各政党の代表者のドラマを同じ時間帯の同じ曜日に連続して放映すれば公正です。自民党を取り上げた時間だけが異常に長い。新聞もそう。国民の知る権利はないも同然。テレビ、新聞のメディアが不偏不党ではない。

 そこで、有権者は各政党のホームページから事実を知る。各政党の機関紙誌を購読する。それで政治の事実を全面的に知る。野党のホームページと機関紙誌の購読をお勧めします。事実を知ったうえで支持拡大し、投票行動で自民、公明の議員を落選させ、野党議員を激増させましょう。放送を公正にする道で最も簡単で現実的なのはこのやり方です。

 ちなみに、僕は自民・公明以外の野党の機関紙誌を購読して認識を全面化する努力を継続中です。新社会党もお忘れなく。

 
コメント   トラックバック (1)

06政治情勢と自衛隊海外派兵、憲法改正。

2006-09-23 16:11:38 | 国内政治
 自然法としての自衛権、政治革命権は僕も肯定してます。

 だいたい、日本国は銃社会でないのに、米国よりも治安がよいではないですか。

 しかも、戦争の要因が軍事力にあるというのことは事実です。日本国から、軍事力がなくなれば、他国にとっては日本国から軍事侵略される可能性が絶無になるので利益ですね。他国は大いに賛成するでしょう。

 その場合に、軍事侵略を日本国が受けた場合は、他国、地域、国連の軍事力を要請するわけです。

 何故、国際社会の公正と信義を信頼できないのですか。軍事力を持たない日本国に軍事力行使などすれば、民族虐殺になることは明らかであるので、ありえないでしょう。

 万が一の場合は、集団安全保障措置が法的に可能だし、必要となるでしょう。

 PKO法での自衛隊の活動は軍事活動であるが、戦闘行為ではない、と。

 なるほど。しかし、これは、小泉首相の言った戦闘地域ではないから、戦争参加ではない、という論法と同じではないですか。

 現に、軍事力を出動させる程度に現地の治安は危険なわけでしょう。ということは、いつ戦闘地域に変化するか分からない現実的な危険があるわけでしょう。

 そうでなければ、各国も軍事力は出さないでしょう。そこで、日本国には独自の判断が必要とされるのであって、やはり、そういった危険な地域には軍事力は出さない、と。

 非軍事の国際貢献で人、物、金、情報を提供することで外交的な評価を確立していく、と。これで十分ではないですか。

 そこをあえて自衛隊海外派遣、派兵していくから軍拡の政治的意図が伺えるわけです。

 現に、PKO法も軍拡の方向でしょう。今現在の米軍再編問題も、MD構想も、宇宙空間の軍事利用構想もすべて軍拡政策でしょう。

 他方で、自衛隊のイメージをよくするために災害救助支援等で軽々に自衛隊を活用していってますね。

 本来ならば、消防、警察、災害対策に予算を重点配分する必要があるのに、自衛隊依存でそれはしない。

 他方で、軍事拡大路線を突き進めているのが自公政権の安保政策の現実ですよ。
 
 挙句の果ては、教育基本法改正、共謀罪、改憲手続法、防衛庁昇格法案、自衛隊法改正、憲法改正を提起してきてますね。

 だから、そうした自公政権の安保政策の現実を見ると自公政権は抑止力論に立脚した軍拡路線を確実に進める上で、国民意識において自衛隊のイメージをソフトに洗脳しておいて、その実際は、一気に米国と海外での武力行使のできる集団的自衛権を行使する国家体制へ持っていき、日本人民を戦争の最前線へ送り込んで海外で日本人民の血を流させるような国際貢献を実現しようとしているわけです。

 もちろん、自公政権と財界の主要な人物たちは日本国で高級の生活を実現しながら、兵隊を募り、彼らを戦地へ送り込んで、勝手に感動して涙を流して、靖国神社に参拝して終わりなんです。

 海外で自衛隊員が戦死することを再現させてはなりません。自衛隊を自公政権・財界の金儲けの道具にしてはなりません。

 自衛隊は専守防衛がその建前だし、その限りで国民も許容しています。わざわざ、戦争をしに海外へ自衛隊を出すことは日本人民の安全をも報復戦争、テロの危険にさらすことになり、泥沼への道です。
 
 こうした政治情勢のなかで、憲法とそれに基づく国際安保体制政策を掲げ、政治運動していかねば、再び戦争の惨禍を自公政権によって味わわされることになるのではないか、と考えて僕は安保廃棄、憲法完全実施の政治方針を貫徹せねばならない、と考える次第です。

 自公政権に代わる野党勢力を見つけるために、みんなで学習して行きましょう。

 自公にできて、野党にできないことはありません。与党も野党も同じ人間集団だからです。

 野党は国家権力を掌握していないので、与党に比べて、人、物、金、情報面で不利な条件で闘っています。

 にもかかわらず、自公政権与党の国民に対する説明と政策は、テレビでも新聞でもホームページでも不利な野党と変わらないのは何故なんでしょうか。

 国民に詳しく説明せずに、言い訳しながらどんどん強行採決していくやり方を実行しているのが自公政権の卑劣な独裁政治の手法なのです。

 都合の悪いことは情報開示、説明を十分にしないで、自らに都合のいいことだけを言い訳しながら(100年安心年金問題、自己負担増の医療制度改革、障害者自立支援法改革等)国民に宣伝して、国民を欺くやり方で自公政権の政策を実現して行っているのが自公政権のいう民主主義です。

 自民、公明にだけは絶対に投票してはならないし、支持してもいけません。

 ひたすら無視することと対抗勢力である諸野党と協力して明日の日本を切り拓いていく時です。

 追記:ちなみに、この五年間で自民党員は約半減しております。保守層も自民党を見放してきている情勢です。小泉氏の人気にもかかわらず、自民党員の数は、2005年の末には2000年の約237万人から約122万人とほぼ半減しているのです。
コメント (15)   トラックバック (5)

判例と法の関係、法学研究は判例研究ではない。

2006-09-23 16:00:59 | 国内政治
 判例を引っ張り出して他人を強制、説得しようとする強権的な人がよくいるのですが、そもそも判例というものは個別具体的な事件にのみ強制力を発揮する不文法であり、他の個別の具体的な事件を解決するためには1つの参考資料に留まるわけです。つまり、判例というものは正しい法規範を打ち立てるときの方法、参考資料の1つなのであって、歴史、日常生活、経済活動、思想、社会学、成文法等と同列の参考資料に留まるのであり、正しい法規範に至る方法は判例研究を必ずせねばならないということではありません。要は、正しい法規範を打ち出す方法が判例研究を含めて多様な迫り方が認められるというのが真の法学研究となります。

 したがって、判例を精査せずとも、強固で体系だった自説があるのであれば、それ自体が有力な法規範であり、学説となります。それば一般に認知されれば通説となり、最終的には判例法なり、慣習法として完全に社会規範化される時代が来ます。これが自然法・人権法の歴史です。
 
 誰の説だから正しいとか、誰の説だから誤りだとか、そんな人の支配を退けた地点に、法の支配は成立するのです。つまり、法は客観的、社会的な存在であり、主観的、個人的な存在ではありません。法は権威を嫌い、人はみな法の下に平等だということです。

 そこで、法とは何か、について、一部の学者、官僚裁判官が議論し、決めるのではなく、人間みんなが議論し、決定していく民主主義の方法が採用されなければ法を分かったとは言えません。

 子供でも法を唱え、社会規範化するし、官僚裁判官が王様の裸であることがあるのであり、何度も言いますが法というものは誰が言ったからではなく、法そのものの社会性、客観性、科学性が問題となるのです。

コメント (2)   トラックバック (1)