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宗教と科学の峻別と協力

2007-11-17 22:25:54 | 随筆・論説
 Unknown (imacoco)

2007-11-15 11:15:12

厳密に言うと 宗教も科学なんです・・けどね。
それは、300年前に東京~大阪を2時間半で移動する装置を考案しようという人間が(恐らく)存在しなかったのと同じで、人間存在の内面の神秘が現在は殆ど明らかにされていない、っていうか、眼に見えな領域が否定される傾向にある、という問題と同じだと言えます。 

imacocoさんへ (東西南北)

2007-11-15 22:38:43

 「厳密に言うと 宗教も科学なんです・・けどね。」

 これはimacocoさんがおっしゃれば笑いますし、それでよいと思いますが、創価学会、統一教会などがわれわれは科学団体であり、宗教団体ではないと言い出せば、明らかに宗教団体であり、非科学的、反科学的な集団です。

 imacocoさんが言っているのは科学の発展、進歩のことですね。宗教とは神など自然にも社会にも存在しない観念を根拠に実践する思想と行為の結合です。たとえば、未発見の霊なる存在が病気の原因だと観念し、お払い、加持祈祷などで治療するという行為は完全に宗教となります。

 霊などは自然、社会の存在しない観念であり、それを根拠に加持祈祷などの実践をしているからです。この手の悪質商法が霊感商法として問題化しております。

 ゆえに、科学と宗教の分別はメディアにとって必要なわけです。

Unknown (imacoco)

2007-11-16 10:25:52

東西さんが言う事は「宗教」ではありません。
それは人間のエゴです。僕が言う宗教とは、存在の本質を見つめる、精妙な科学といったところです。
神は存在しますし、人間は肉体だけの存在ではないことも確かです。
ただ、それを人に教えることは非常に難しく、安倍晋三に日本国憲法の素晴らしさを説くようなものでしょう。

imacocoさんへ (東西南北)

2007-11-16 23:30:28

 東西は人類の肉体的な存在が精神的存在を規定していると言うのが科学だと思います。例えば、人間は殺しあう存在であり、殺人も戦争も死刑もなくなりはしない。強姦も強盗もしかりだ、などと想像し、妄想する精神的な存在がいかに非科学的で反科学的な宗教かということですが、こうです。

 人類の肉体的な存在、つまり、受精卵から植物状態へいたるまでにおいて、殺し合い、奪い合い、戦争、強姦の遺伝子など存在しないということです。ということは、先にあげた精神世界は完全に自然界、人類の肉体的存在に根拠を持たない想像、妄想であり、それに基づく犯罪行為は宗教だといえるわけです。

 人間の精神性は人間の肉体が規定しているということです。結局、精神世界の科学、非科学は人類の肉体が規定しているのであり、人類の肉体は共に生きて、共に労働するということですから、あらゆる観念論は人類の肉体的な本質を根拠とする科学的ヒューマニズムによって変革されなければならない、ということです。

 共に生き、共に働く。これが人間の本質であり、思い込みではないのです。

以下は参考記事です。

2007年11月14日(水)「しんぶん赤旗」

共産主義では宗教は不必要?

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 〈問い〉 私は、宗教は不満からの逃げ道と考えています。それならば、共産主義によって不満が取り払われれば、宗教は不必要になるのではないでしょうか。共産主義はそもそも宗教否定主義と思っていただけに、そうではないということをこの欄(07年4月7日付)で知りショックを受け、あらためて質問させていただきました。(メールで、S生)

 〈答え〉 宗教は原始社会に芽生え、人間が生活する自然条件や社会のあり方によってさまざまに変化してきました。資本主義社会では、一部の大企業と大資産家が優遇され、民衆の圧倒的多数はつねに生活の没落と破たん、人生の転落と破滅の危機感におそわれています。人間の老病死や、資本主義の目に見えない力への恐怖に、今日の宗教の存在理由の根源があります。これが宗教についての科学的社会主義の見方です。

 ですから、宗教を否定するのではなく、弱肉強食の社会、非人間的労働や人間の尊厳をふみにじる社会保障などにたいして、宗教を必要としている人びとと連帯して、社会的反撃をもってこたえ、よりよい社会を実現するとりくみが必要となります。

 宗教は人間の内心の問題、精神生活に根ざしていますから、政治的な対策つまり政策で「消滅」をはかっても実現できないことは、250年にわたる徳川幕府の厳格な禁教政策のもとでも隠れキリシタンが受け継がれてきたことをみても明らかです。

 日本共産党がめざしている共産主義社会では、戦争はもちろん貧困や格差、投機や自然破壊などの資本主義的悪徳の社会的基盤は廃絶されます。宗教のめざした人間の幸福の多くが現実に実現する将来社会で、宗教がどのように存続しているかは今後の探求課題ですが、人間社会であるかぎり、病気や寿命、結婚や家庭などの人間関係、自分の才能についての希望と現実などの悩みがなくなるとは考えにくいことです。

 共産主義社会でも人間の苦悩にたいする精神的活動として宗教が存在する場合、自由な人間関係の社会の自由な精神活動が保障されることはいうまでもありません。

 宗教の社会的役割としては、現世の苦悩の解決を天上にゆだねて民衆の社会的自覚をはばんだり、政治権力とむすんで権力者の支配を助けたりしたこともあります。同時に、宗教が民衆の立場にたって社会進歩を推進した歴史があります。

 20世紀には「神を信ずる者も信じない者も」共同してファシズムに立ち向かい、今では異なる信仰の宗教者が共同する平和運動が発展しています。

 信教の自由を擁護し、政教分離の原則の徹底をはかることを綱領に明記する日本共産党は、オウムや統一協会などの反社会的集団にたいしては犯罪として対処することをもとめ、創価学会・公明党の政教一体にも反民主主義的な集団として批判しています。同時に、憲法第9条を守る運動をはじめ平和と民主主義のために宗教者との共同を重視しています。(平)

 〔出所:日本共産党HP 2007年11月14日(水)「しんぶん赤旗」〕

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2 コメント

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Unknown (imacoco)
2007-11-18 10:33:04
人類はこの宇宙の神秘の多分、0.0001%も認識出来ていないでしょう。生命が何故存在するのか。宇宙の果てはどうなっているのか。人類は何も知りません。なので、人間はどれだけ威張っても所詮、その程度なんですよ。

しかし、神の存在霊魂の存在は、理屈を超えた処にあります。心の眼で認識するだけです。で、その認識を得る為の条件は唯一つ「心から願う事」。

ただ、全ての人達がそれを願える分けではありません。

そこで、全ての人、世界共通で為せる事は何か…。

人間とは、人間性を追究する存在ではないのか。ならば、それを追究する生き方が、神を求める事だと言っても良いのではないか。

要は、神の存在を証明する事よりも、世界に平和と人の幸福を如何にもたらすかが大切なんです。



その為にも、悪い考えが心を占領する事を許す分けにはいきませんし、体制批判と云う姿勢を持ち続けねばならんのです。
返信する
imacocoさんへ (東西南北)
2007-11-20 01:13:29
 「悪い考えが心を占領する事を許す分けにはいきませんし、体制批判と云う姿勢を持ち続けねばならんのです」

 宗教家の良心の真髄ですね。反権力で政教分離。大衆と共にがんばる。

 「要は、神の存在を証明する事よりも、世界に平和と人の幸福を如何にもたらすかが大切なんです。」

 御意。
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