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尊厳死についてーその2-

2007-11-04 07:26:21 | 随筆・論説
 尊厳死について、私の整理

 春野ことりさん(医療界では医師はすべて「先生」と呼ばれることは承知していますが、ここでは「NHK方式」にさせて頂きます)から頂いたコメントとトラックバック記事も考え合わせて、自分としての「尊厳ある死に方」を整理してみたくなりました。最後の瞬間まで死ぬまいと戦いつづける人たちもいる、自覚的でなくても、本能的にそうする場合もあるということですから、他人のことは、ここでは考えないことにしましょう。
 
 春野さんの著書「天国へのビザ」にもありましたが、私が考えるのは「死の受容」または「生に組み込まれている死との共存」です。私は小学2年生のときから「なぜ生きているか」を考え始め、死ぬときは自分が主人公として決めたいという願望を持つようになりました。それは今も変りません。大方の老人と同じように、私も「ぽっくり死ねたら本望」と思っています。そして74歳の今、「蘇生術お断り」も、ぜひ実行したいと思っています。問題は、病床について他人の世話を受けないと生きていられなくなった場合の身の処し方です。

 私は概して健康に過ごしてきたので、寝たきりで世話される身の上になって再起が不可能になった場合は、精神的に弱いのかもしれません。そのときは、口に入れてもらった食物を、自力で嚥下できなくなったときを、自分にとっての尊厳の限界点にしようと思います。つまり経管栄養の拒否です。技術が進んで点滴で高カロリーの補給が可能になっても、辞退することにしましょう。
 
 ここまでは一応の基準を考えられました。しかしその先に、書きにくい大きな懸案があるのです。それは「自死の権利」ということです。健康状態に関係なく、自分で自分の死に時を決める権利は、基本的人権に含まれるのか、含まれないのか。含まれるとすれば、現代の医療は快適な自死の手段を提供できるでしょう。一気に書いてしまえば、公認される自死に理由を問うべきではありません。近い未来に、死亡原因のかなりの部分を自死が占めるようになっても、私は少しも不自然ではないと思っています。長寿社会を初めとする、現代社会がもたらしたさまざまな「不自然さ」の帰結として、そのような時代を私は予感するのです。大問題だということは自覚しています。私の尊厳死は、自死を含むのです。

 P osted by 志村 建世 at 15:42:25 | コメント (15) | トラックバック (1) | リンク (0)

2007.10.22 18:31:42 古木涼子 : いのちの始まりと終わりについて、そもそも命そのものについて、人間に権利はあるのでしょうか。私にとって、「死の受容」とは、人の思い通りにはならない現実を受け入れ、人間を超えた力に身を任せることです。これができれば安らかな死が迎えられそうな気がするのです。
「心と体、傷ついても、あなたのいのちは変わらないよ。美しく光かがやいている。生きて、生きて、生きて欲しい、かけがえのないあなたのいのちを」

19:04:42 志村 建世 : 私の思い上がりを見抜かれていましたね。あの歌を私に送って下さったのも、神の意志ですか。古木さんには、かないません。

20:20:33 古木涼子 : 明日は、大好きだった姉の命日です。病床で「クレド(ある兵士の祈り」の歌を何度も何度も聴いていたそうです。(私は、フィリッピンに居ましたので死に目にあいませんでした。)志村さんのおかげで、今日は私も死について少し考えることができました。ありがとうございました。

22:01:33 ナツ : 昨年の今頃私は初めてEnding Noteを手にしました。薄いノートですが、自分のそのときの気持ちを素直に書いたつもりでした。
その後葬儀のことお墓のことを夫と話し合ったのですが、考え方の相違で平行線の状態です。

いくら望むこと、願うことを書いても、それを受けてくれるかどうかが我が家では問題なのです。
自分の人生の終わりは自分で決めたいと思うのは我侭な事なのでしょうか。
一年前のEnding Noteのことを今日投稿したところでした。

23:15:28 みどり : 人は生まれたくて生まれて来た訳ではない。従って生は運命と規定しました。生まれるにも助けが必要でした。其処から死を考えました。私も若いときは自分の命を自分だけのものと考えていたような気がします。本当に自分だけのものだったのでしょうか。ミルクが無い時代重湯を毎朝毎夕作ってくれたという母や兄、長じては「頂きます」に込められた食糧生産者への感謝。全てが連鎖して命を育てゝくれていました。其れを末期に自分の命と考えるのはどうなのでしょう。残された者の想いはあまりにも痛切で想像を絶しています。どんな理由も自死を擁護してはなりません。神の存在はわかりませんが、人は自分が思う以上に、人の心に食い込んで生きている事を知らなければなりません。自分を死に至らしめる事は、信じて生きている周りの人間の心を圧殺します。老衰しても認知障害が起きてもいいから、傍らにいて欲しいと願う人々を沢山見てきました。生きたかった幼い子どもの命の叫びが聞こえます。多くの人達に支えられた命です。辛くて投げ出したくなる時、どうするかは未だ探る余地は沢山ありますが、基本的には自死を認めたくはありません。

2007.10.23 01:18:15 志村 建世 : 古木さん、おかげで少し頭を冷やすことができました。もう今日になりましたが、お姉さまの命日なのですね。歌声を届けられて、よかったですね。
 ナツさん、Ending Noteを見てきました。ご自分の希望を述べておくのは、大事なことだと思います。話し合いができただけでも、立派です。
 みどりさん、明日は続編で「自殺は尊厳死か」というのを書くつもりでいたのですが、よく考えて出直すことにしました。
 ブログ友の有難さを、しみじみと感じています。

13:19:30 biera : 先日、母が亡くなりました。数ヶ月、目も開けることもなく、指1本自力で動かすことができないまま呼吸器だけを頼りに息を繋いでいました。
そして、最期の数日は本当に苦しそうでした。

自分に置き換えるととても残酷なことに思えました。
それでも、家族は医師に殺してくれとは言えません。
一体、本人にとって何が希みだったのか知ることは出来ません。

自分だったら、やはり殺して欲しいです。
そして、それが叶わないのなら、まだ体が動ける間に自分で死にたいです。楽な死に方があれば。

13:42:45 志村 建世 : 優しいお顔のお母さまですね。今はすべての人間苦から解放されて、あなたの思い出を懐かしんでおられることでしょう。
 「看病ご苦労さま。あなたのときは、お医者さんとよく相談して、いい方法を考えて頂戴。しっかり元気なうちに、死ぬことをどう受け入れるか考えて、誰にもわかるようにしておくといいわね。これからは、たぶんそういう時代ですよ。」

2007.10.24 17:34:07 bando : 自死や自殺というのは、何処からがそうなのかよく考えます。結局いつも答えは見つからずで最近また疑問だけ増えました。今度は何処からが死なのだろうかと。
結局何も分からない私です。

21:07:09 志村 建世 : 臓器移植が可能ということは、人体の部品は独自の寿命を持っていることを示しています。すると統一された「人間」の寿命の限界がぼやけてきますが、私としては、意思の源泉である脳の死を「人の死」とすることは、妥当のように思えます。
 自死の問題は、懸案として考慮中です

(出所:http://pub.ne.jp/shimura/?cat_id=37900)

  脳死は「人の死」として議論が分かれていますので、客観的には三兆候基準でなければなりません。しかし、諸個人の尊厳の問題として、治療拒否の権利が認められるわけです。理由は、1:医療行為には過誤が伴う。2:身体の拘束を伴うからです。本人の意思を抑圧して、身体を拘束することは人権侵害ですし、本人の意思を無視して医療過誤が発生する場合は責任をとることができない。

 他方で、医療は人命を自然の限りに延命する行為であり、人命を自然の死期に先立って断然したり、縮める行為は原則として医療ではない。殺人、自殺幇助、傷害罪になる。鎮痛剤の投与により寿命が縮まるのは原則、医療ではないが激痛のあまり、自殺に及ぶ可能性が高いと判断すれば、利益を比較して鎮痛する行為は妥当。

 患者さんの納得が得れない場合、いかなる医療行為もすることはできないから、医療関係者は説得活動を続けていくことになる。

 なお、本人の意思の確認がない時、医療の原則は人命救助であるので、治療拒否の意思が明確でないなら、延命治療を続行して当然。延命治療を拒否するならば、リビングウィルを残しておくべき。遺書のようなもの
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