未来を信じ、未来に生きる。

今に流されず、正論を認識し、社会貢献していく人生を切り拓くブログ道。

宗教と非宗教を区別することが科学。

2008-06-04 21:31:18 | 随筆・論説
 kaetzchenさんへ。 (東西南北)

2008-06-03 12:21:06

 科学的社会主義でも宗教の定義はあるんじゃないですかね?どうなんでしょう?本当にありませんか?東西の定義が科学的社会主義かどうかは知りませんが、宗教団体を帰納法的に普遍化すると次のように定義できませんか?

 宗教とは超自然的、超人類的な妄想、観念を抱き、その観念、妄想を実現させようとする行為のこと。その行為は加持祈祷、瞑想、念仏、礼拝など平和的なものもあるが、創価学会、オウム真理教、統一教会のように反人類的、反社会的な人権侵害行為に及ぶものもある。

 どうでしょうか?笑。

 慈愛に満ちたヒューニズムは人権の実現ですから、科学ですよ。kaetzchenさんが専門にしてきたのは自然科学でしょう?社会科学と混同していませんか?自然科学と社会科学は同列ではないというのは猿社会の法則を人類社会の法則へ当てはめるカルトと同じになります。

 日本人は天皇制という国家神道を持っているということですが、確かにそれはありますね。要するに、自らの力で自らの国家、企業を管理、運営していくという主権者意識、社会科学の力が弱いんですね。では、社会科学の力が弱いのは何故か?まさに、戦前、戦争中、戦後も社会科学は弾圧対象となった点に原因があるのでしょう。誰が弾圧したか?といえば国家神道を信奉する右翼と経団連の結合でしょうね。それと政教一体のアメリカ政府という所でしょうか?

 困ったおばさんですね (kaetzchen)

2008-06-03 13:44:38

 うーん,確かに石黒マリーローズさんと言えば,福音教会つまり原理主義過激派(英知大学はこのメッカ)の理論的リーダーで有名ですね.この本は読んでませんけど,自らも被災者のくせして,宗教がどうのと関係ない視点で批判をするのは許せません.

 私自身がプロテスタント (但し,アンチ原理主義) なので余計に頭が痛いのですけど,特に関西地方の方は熱心な仏教徒が多いので,キリスト教に対する誤解や偏見もまた多い.前のブログ主さんのコメントは何だかそういう部分もあるんじゃ,と思ったりしますね.私も洗礼を受ける前は親戚からずいぶん嫌味を言われました.

 以前から指摘しているように,日本人は宗教を信じていないように見えて,実は熱心な「日本イデオロギー」の信者です.極右の山本七平が生前に「日本教」という言葉を遺していましたけど,あれは半分当たっているなと政治的に反対を向いている私も素直に受け取れます.

 聖書やコラーンを読んで「一神教」と名付けられた宗教概念を研究するほど,実はそれは反対で神という抽象的なものを仮定して,複数の人間が神掛っているだけではないかと思うのです.でないとキリスト教やイスラム教の国々が細かく分かれるはずがない.政教一致なら統一国家になってもおかしくない.でも実際には神掛った王や皇帝たちが政治的に争っているんですよ.

 それでは日本は「多神教」でしょうか.違います.「祖霊」と呼ばれる一つのカミだけを信仰する「一神教」なんです.その「祖霊」に観音やら天皇制やら様々な宗教が乗っかっているために,それが宗教だという自覚ができないのです.これは堀一郎『民間信仰』(岩波全書)に詳しいので,そちらをお読み下さい.

kaetzchenさんへ。 (東西南北)

2008-06-03 13:57:12

 うーん。そんな複雑奇怪なことなんでしょうか?東西の宗教の定義でよろしいのでは?民俗学、文化人類学を学習すると東西の定義が覆りますか?不十分な点を補足する可能性は考えられますが基本的には正しいのではないですか?

 さらに、「日本は「多神教」でしょうか.違います.「祖霊」と呼ばれる一つのカミだけを信仰する「一神教」なんです.その「祖霊」に観音やら天皇制やら様々な宗教が乗っかっているために,それが宗教だという自覚ができないのです.これは堀一郎『民間信仰』(岩波全書)に詳しいので,そちらをお読み下さい.」

 とありますが、これも時間の無駄というか、そんなことより先に日本の雇用失業問題、低賃金、低社会保障、教育問題、労働問題をどう解決するかに切り込んだ書籍を読むほうが先決じゃないですか?

 さらに、日本人に次の質問したら簡単にわかると思いますが、「祖霊を信仰するし、祖霊に祈り、拝む行為をしたら自分の生活が向上したり、戦争、犯罪が消滅したりするというのは宗教ですか?」と。9割以上の人は宗教と回答するでしょうね。すなわち、祖霊信仰は宗教である、と自覚していますし、信仰にとどまる限り「どうでもいい」と考えているんじゃないですか?

 日本人が宗教から離脱できず、縮こまっているのは正しい社会科学の普及が弾圧されているからですよ。マスコミ、教育現場でも職場でも、社会教育でも。

いつも長いコメントですみません (kaetzchen)

2008-06-03 14:11:33

 東西南北さん,ごていねいにお返事をども.

| 科学的社会主義でも宗教の定義はあるんじゃないですかね?

 困った人ですね(笑) ドイツ・イデオロギーだとかを読み直して下さいな.

 旧ソ連では「記号学」という形で宗教学研究が続けられていました.有名な人だとИ.トポローフなんて学者がモスクワ科学アカデミーにいましたけど.


| 宗教団体を帰納法的に普遍化すると次のように定義できませんか?

 あ,その段階で東西南北さんは科学的論理がお分かりになっていない.帰納法は必ずジャミングが入って,結論を間違った方向へ導かれます.反対に演繹法で正しい結論が出たかどうかを確認しなければ,少なくともその定義は仮説のままで検証されません.これは疑似科学が陥りやすいポケットですので,気をつけましょう.

 結論から言うと,宗教というのは人間の世界観そのものである.のみです.だからオウムや創価学会や統一協会(!)のようなカルトも宗教だし,日常的に行われている年中行事,例えばホタルまつりだとか花火大会なんかも宗教に当てはまります.


|  慈愛に満ちたヒューニズムは人権の実現ですから、科学ですよ。

 そう思うでしょ.ところが,humanism =人権の実現じゃないんです.humanism というのは単純に「人間の好き勝手にすることができる」という意味で,その結果自然が壊されようと公害で環境が壊されようと知ったことではないんですよ(笑)

 社会科学はそういう意味では自然科学に追い付いていません.私はここでは環境科学という生物学や化学を中心とした複合科学の視点で見ていますから,気をつけないといけません.実際,日本の文化人類学者や社会人類学者のほとんどが理学部動物学科の出身です.つまり,サル学研究室の出身者なのです.サルの行動が人間の行動とイコールであるまたは近似しているという前提がないと,社会人類学という社会科学は存在し得ません.私も自然人類学を学ぶうちに,他の人類学をかじるはめになりました.

 そういう意味では,マルクス再生のためには,マルクスの時代に戻って,もう一度自然科学を学び直し,計量経済学を学んで新自由主義に勝てる思想を作り直さないといけないと私は考えています.


| 猿社会の法則を人類社会の法則へ当てはめるカルトと同じになります。

 果たしてこれはカルトでしょうか? 既に自然科学の方で実証されたことに楯突くということは,それこそアメリカの進化論反対論者と同列にされますよ.


| 誰が弾圧したか?といえば国家神道を信奉する右翼と経団連の結合でしょうね。それと政教一体のアメリカ政府という所でしょうか?

 そういうことです.そして経団連からさらに飛び出た連中が,例の日本会議な訳です.日本会議は統一協会という受け皿があったため,組織がすぐにできたという事実も抑えておくと良いでしょう.東西南北さんには悪いですけど,学生時代にサークルから民青を追い出しても,彼らには共産党という行き場があった,というのと似ています.

また長いコメントですみません>ブログ主さん (kaetzchen)

2008-06-03 14:26:58

 東西南北さん,先ほどはどうも.お互いに入れ違いになってしまいましたね.私も細かく突っ込むと長くなるので,今度は短めに.

| 不十分な点を補足する可能性は考えられますが基本的には正しいのではないですか?

 そうでもないんですよ.下に出てくる「祖霊」概念がもっとも基本的な「日本イデオロギー」の出発点です.


|  とありますが、これも時間の無駄というか

 それは東西南北さんの体調やお仕事や休暇や読書時間など,環境の問題じゃないでしょうか.文科系の人の悪い所は,結論だけ急いで取りたがる所です.私は子供の頃から,途中経過が楽しくて,結末なんてどうでも良い派でした.その辺は教育環境や労働環境など,お互いの経験の違いのせいだと思いますよ.私だって視力が落ちて,いま入力は6点点字でテンキーから行っています.本を読むにしたって,読書器という新品で買ったら24万もする機械を同じクリスチャンで失明した方から無料で譲ってもらってPCの画面一杯に本を拡大して読んでいます.

 現実の問題は他人が切り込んだ本を読むより,まず一次情報を自分で咀嚼できる社会科学の方法論を身につけた方が速いと思います.私のように失明が近くなってからでは遅すぎるのです.だからこそ,私は他の社会科学の分野の本を紹介したのです.人文・社会・自然にせよ,科学というものは方法論を抜きにしては語ることはできません.結論だけが欲しいという甘ったれた根性は既に子供の時に捨てたのではないでしょうか.これは大人の会話です.


| すなわち、祖霊信仰は宗教である、と自覚していますし、信仰にとどまる限り「どうでもいい」と考えているんじゃないですか?

 ようやく,東西南北さんも私の言わんところがお分かりになりましたね(笑) つまり,宗教概念をどのような「ことば」で捉えているかを言語化できないんです.

新約聖書の福音書しか見ないと (kaetzchen)

2008-06-04 10:58:13

Runner さんが言われる「本来のキリスト教なら、非暴力だけでなく、死刑反対、そして、経済的には共産主義のはずです」という結論は正しい.

ところが人間はそんなきれいごとでは済まされないのが現実でしてねぇ.これは宗教に限らず,無宗教(笑)を自称する「日本イデオロギー」カルト信者の日本人にも同じことが言えるんですよ.矛盾したイデオロギーが平気で併存し,お互いに殺し合う.

これってサル社会の「秩序づくり」とまったく同じでね,むしろ人間の方がサルより社会秩序づくりには退化したんじゃないかと見られる部分があります.それを「オカルト面」と名付けるかどうかは Runner さんの自由だと思いますけどね.

# そもそも occult の定義があやふやです.私が occult blood test なんて聴くと「潜血反応試験」か,なんてウンコ臭い経験を想い出すんだけど.

 kaetzchenさんへ。 (東西南北)

2008-06-04 17:26:35

 宗教について辞書を引いて見ました。

 やはり、kaetzchenさんの宗教の定義=「宗教とは人間の世界観である」という宗教と科学を区別しない定義を批判していますよ。こうです。

 宗教と非宗教と明確に区別する基準は、神聖観念の有無である。神聖観念は、例えば、神、仏、魔、精霊、霊魂、あるいは、他界(霊界、天国、地獄など)、さらに、呪力などである。つまり、神聖観念とは超自然的、超人類的な存在のことである。

 宗教と非宗教と区別しないでごっちゃにする非科学的な宗教論は宗教を人間性、実存、心情、態度などに解消したり、世界観とは無縁な超次元のものとしたりし、その宗教性を覆い隠す。こうして宗教性を覆い隠した上で非科学的な宗教をあたかも科学であるかに装い「宗教教育」などを押し付けるのが支配階級のやり方である。これを宗教のアヘン的利用という。宗教と非宗教を区別しない世界観は現実認識を曇らせ、人間の解放闘争を幻想に溺れこませる意義を持っている。ゆえに、宗教の非科学的な定義づけに対しては、宗教の科学的な定義づけが必要なのである。宗教と非宗教を区別することが科学となる。

 宗教は古代、中世を通じて文化の王座を占め、科学・芸術を従属させていた。科学と芸術を宗教から解放するのは、近代ブルジョアジーの課題となった。科学と芸術を宗教から解放する闘争の中から、近代哲学、科学が成長した。しかし、ブルジョアジーは宗教と妥協し、正しい宗教批判、無神論は労働者階級の科学的社会主義の課題となった。

kaetzchenさんへ。 (東西南北)

2008-06-04 18:51:26

「果たして猿社会の法則を人類社会の法則へ当てはめることはカルトでしょうか?既に自然科学の方で実証されたことに楯突くということは,それこそアメリカの進化論反対論者と同列にされますよ。サルの行動が人間の行動とイコールであるまたは近似しているという前提がないと,社会人類学という社会科学は存在し得ません.」

 上記のようにkaetzchenさんは述べています。これについても辞書を引いてみました。

 どうも性質の悪い反科学のようですね。こうです。

 ダーウィンの生物進化論を自然と人類との発展段階を無視し、同列に置き、これを機械的に人類学に取り入れ、生存闘争と自然淘汰を社会進化の起動力とする反科学論である。社会ダーウィニズムという。社会ダーウィニズムは資本主義的な搾取社会を当然視し、科学的社会主義が主張する搾取社会からの人類の解放に反対した。また、この説は人種差別、帝国主義侵略、ファシズムを合理化する理論ともなった。グンブロヴィッツ、ラッチェンホファートなどはその理論的代表者である。日本でも加藤弘之を代表として、この説を唱えるものがある。

 人類の祖先は猿であるが、人類は猿ではなく、猿から進化、発展した存在である。これが進化論である。進化論を築いた科学者たちは、物事を発展すると見なさなかった、当時のキリスト教会の妨害と闘う中で進化論を確立した。 分子生物学のDNA研究や京大霊長類研究所によればチンパンジーは、ほとんど人類といってもよいと言われている。しかし、チンパンジーと人類には、やはり質的な違いがあり同列視することは非科学である。類人猿と人類の質的な違いは次のとおりである。チンパンジーは骨格や喉の構造から、直立二足歩行、道具製作、自立的な言語発明は不可能であるが、人類は、その骨格や喉の構造から、直立二足歩行、道具製作、自立的な言語発明を成し遂げた。
 チンパンジーに人類が記号としての言語を外から教え込めば、チンパンジーが記号としての言語をある程度は使用することができるが、チンパンジーが自力で言語を開発することはできない。言語は、初めは音声として発達し、それが記号化、文字化する。しかし、チンパンジーの喉の構造は人類と異なっており、有節音の発生が困難なのである。こうして、チンパンジーが自立的に可能な音声はギャーとか、クワンとかの無節音としての合図しかできない。こうして合図ではなく、原始言語として成立したのが人類の有節音の発声である。
 直立二足歩行、道具の使用、製作、改良、言語発明によって人類は類人猿と決定的に区別できる。

 他人の褌でスモウをとってはいけない (kaetzchen)

2008-06-04 19:04:50

 東西南北さん,私は生物学が専門なので,まずこちらから,あなたの無知をさらけ出すことにします.

1)辞書を引かれたと言いますが,ソースは何でしょうか.その辺の百科事典とか Wiki 程度のものではないでしょうか.あなたの書き方を見ていると,Wiki の丸写しではないかという疑問が多く出て来ます.

2)|  ダーウィンの生物進化論を自然と人類との発展段階を無視し、同列に置き、これを機械的に人類学に取り入れ、生存闘争と自然淘汰を社会進化の起動力とする反科学論である。社会ダーウィニズムという。

 というふうに,社会人類学と社会ダーウィニズムとの区別さえ分かっていない.申しわけありませんが,高校3年の生物の受験参考書でもお読み下さい,としか言い様がありません.つまり,あまりの無知に反論する意欲もないということです.

3)| 人類の祖先は猿であるが、人類は猿ではなく、猿から進化、発展した存在である。これが進化論である。進化論を築いた科学者たちは、物事を発展すると見なさなかった、当時のキリスト教会の妨害と闘う中で進化論を確立した。

 それって,いつの話ですか(笑) 少し西洋史を復習されて下さい.進化論という考え方は最初からあった訳ではありません.もともとはダーウィンが様々な動物や植物の分布を調べて,それが新種ごとに広がっていった事例が多いと記述したのが岩波文庫のダーウィンの本です.中学生でも読める本ですので,ぜひ一読を.これを方言に応用したのが柳田國男の方言集圏論で,これを「アホ」「バカ」「タワケ」という言葉で番組にしたのが朝日放送の「探偵!ナイトスクープ」です.

 と,いうことで,東西南北さんの圧倒的な敗北に終わりました.すみませんね.

kaetzchenさんへ。 (東西南北。)

2008-06-04 19:26:51

 いや。笑。その1点だけ答えてくれたらいいんですよ。

 社会人類学だとかいろいろな学問があるのは知っていますが、要するに、類人猿と人類の質的な違いはどこにあるか?類人猿と人類は同質なのか?同列視するのであれば社会ダーウィニズムとなりますよ?kaetzchenさんは類人猿と人類の質的に異なる点がどこにあると認識していますか?

 進化論とキリスト教の妨害の時代っていつ頃なんでしょうね。笑。ま、19世紀頃じゃないですか?進化論が出てきたのは。20世紀でもアメリカの州では進化論を教えた教員が裁判で有罪になったりしているみたいですね。

 恐怖ですね。宗教裁判。

 kaetzchenさんへ。 (東西南北。)

2008-06-04 19:38:16

 忘れていました。辞書を調べてみたと書いていますが、丸写しではなく、いちおー要約しましたが。笑。

 1:森宏一・古在由重「哲学辞典」青木書店。
 2:労働者教育協会編「哲学」学習の友社。
 3:田中隆荘・田中昭男「新編生物図録」第一学習社。

 以上の3冊を参照して要約しました。

 東西南北さん,関係ない話題はやめましょう (kaetzchen)

2008-06-04 19:44:18

 東西南北さん,あんまりつまらないことで引っ張り出さないで下さいよ.この話の流れから外れているし,こういうことは次から kaetzchen@goo.jp にメールでお願いします.ブログ主さんにも迷惑ですから.

| 同列視するのであれば社会ダーウィニズムとなりますよ?

 なぜですか? 私に言わせれば,東西南北さんのその発言のソースが知りたい.


| kaetzchenさんは類人猿と人類の質的に異なる点がどこにあると認識していますか?

 酵素が違いますし,血液型も違います.つまり,動物としての「種」としては異なるというだけです.ところが,いざ社会の造られ方を見ると,特に「言語」をあやつる類人猿は非常に人間と似た社会構成を持っている.となると,社会科学的に「質的に異なる点は言語を持つか持たないか」という話になります.言語学を基礎として社会や文化を見るのが人類学ですから,社会人類学のお出ましという訳です.


|  恐怖ですね。宗教裁判。

 東京都でもやってますね(笑) 君が代日の丸という日本イデオロギー宗教裁判.

 ちょっと今日は疲れてますので,もう片方のコメントに関しては勘弁して下さい.体力的に限界です(目もおかしい).

あとはブログ主さんにお任せします (kaetzchen)

2008-06-04 19:53:27

東西南北さん,あなたの持ってる「辞書」はデタラメです.哲学なんて,辞書を引いて分かるわけないでしょ? もし,哲学を大学レベルで学ばれたことがないのでしたら,素直にそう言われて下さい.基本からお教えします.

疲れました.ブログ主さん,削除可です.

kaetzchenさんへ。 (東西南北。)

2008-06-04 20:00:33

 なるほど。「類人猿と人類は動物としての「種」としては異なる」そのとおりですね。これは上で挙げた「3:田中隆荘・田中昭男「新編生物図録」第一学習社。」に書いていました。高校生物の参考書なんですが。笑。生物の種というのは、生殖できるかどうかで区別するんですね。確かに、チンパンジーと人類が生殖することは不可能ですねー。笑。この点でチンパンジーと人類は質的に異なるというわけですね。同時に、白人、黒人、黄色人は生殖可能なので同一種というわけですね。わかりました。シンプルな回答です。納得。

 では。おやすみなさいませ。

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冥王星さんへー見てくれてるかな?(笑)ー

2008-01-29 19:19:47 | 随筆・論説
 このところ立て続けに冥王星さんがあげている記事に対する東西の反論は、すでに1年以上前に回答しているのですが、一応、異なる角度から取り上げている最近の記事などをご案内しておきます。冥王星さんが間違うのは、歴史における「区別と関連」ができていない、人類の特質に対する事実認識が誤っているの2点。その背景は冥王星さんの周辺にいる人々の悪影響でしょう。

 最近ではやめ蚊さんのブログのコメント欄でも述べていますので、参考にしてください。コメント欄に参照記事等の案内をしておきますので、よろしくです。
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犯罪抑止力論ー人間の本能が犯罪原因?ーその2

2008-01-09 04:41:31 | 随筆・論説
共通?

死刑廃止論者と存置論者の争いは、本質的には人間観・宗教観に関わることで、宗教論争同様どうしようもないです。
でも、「冤罪防止」「被害者支援」「犯罪発生防止研究」「再犯防止研究」が必要だということは合意できないでしょうか?
どれも死刑の存廃に関わらず必要なはずです。
死刑廃止・存続の議論に費やされるエネルギーを、なぜ上に使うことができないのでしょう。
あと、どちらも死刑議論の背景にある自分の人間観・宗教観を一歩引いて分析・反省し、それらの多様性を認めることはできないでしょうか。

[2008/01/07 21:00] URL | Chic Stone [ 編集 ] TOP ▲

コウトさんへ

わぁ~お久しぶりです。

う~ん・・平行線ではないですよ。
同一線でしょう(笑)
ただ、少し観る位置が違うだけでは?

例えば、人は理由なく悪にはまらない・・ですが、
人は、もともと悪でしょう。
東西南北さんによれば、愛情や教育の足りない人間は、犯罪者になるようですから。

『生まれながらの犯罪者はいない』のではなく、
『生まれながらの善人はいない』が真実に近いのでは?
だからこそ、教育が重要なのですね。

あと、刑罰の抑止効果は認めるが、どの程度かは疑問・・ですが、
その通りだと思います。
ただ、少しでも抑止効果があれば、意味はあるでしょう。
それによって助かる人がいるわけですから。

最後に、どんな生き方をしたいのか・・以降の部分に関しては、その通りだと思います。
『内面からの安定』が必要・・これが達成できれば、問題は解決でしょう。
しかし、これを1億2千万人すべてに求めるのは、不可能では?

もしも、遠い将来に達成できたら、その時点で、刑罰以外の手段を取るべきだと思いますが?

う~ん・・やっぱり平行線ですかね?
それとも離れてますか(笑)

[2008/01/08 01:31] URL | 田柄 [ 編集 ] TOP ▲

Chic Stone さんへ
 
 人間には犯罪の遺伝子はないから犯罪の可能性もないというのは価値観ではなく、事実ですので共通認識ですよ。ただし、精神障害との関係で遺伝子に原因があるという人間は存在しますから、特別に医療が必要です。しかし、人間は他人の人権を侵害する犯罪の遺伝子・素質は存在しないというのが事実であり、ゆえに、人間には生まれながらに犯罪の可能性はないです。にもかかわらず、他人の人権を侵害する犯罪が存在するには何故か?という問題なのです。ですから、人間には犯罪の遺伝子があるだとか、素質があるだとか、犯罪の可能性を遺伝子に秘めているいう価値観は事実無根であるということです。

 ですから、「死刑廃止を推進する上で、抑止力や冤罪を主題にする事がふさわしくないと考えているのです。死刑廃止を訴えている人の多くは仮に、抑止効果があるとはっきりした場合でも、冤罪の全く起こりえない制度が出来たとしても、死刑廃止の考え方を変えるものでは無いと思います。(自分もそうです)」という見解が正しいと思います。

 殺し合い、人殺しに対して反対しているのが死刑廃止論者ですので。ただし、その理由は多様であり、認めて当然です。東西のように科学の立場で反対もいれば、宗教的、精神的な理由で反対の人もいるでしょう。

[2008/01/08 05:02] URL | 東西南北 [ 編集 ] TOP ▲

 >東西南北さん
僕は「抑止」の話より先にやることがある、と申し上げただけですが?

>人間には犯罪の遺伝子はないから犯罪の可能性もないというのは価値観ではなく、事実ですので共通認識ですよ。

前のコメントでも言ったように、遺伝子だけでも育った環境だけでもなく、パチンコの玉がどこに入るか同様予測不能のカオスだ、と僕は考えています。
犯罪の可能性がないなら、なぜ現実に犯罪があるのでしょう。
自分の人間観を「事実」「共通認識」と思い込むのは危険ですよ。

[2008/01/08 08:11] URL | Chic Stone [ 編集 ] TOP ▲

 Chic Stone さんへ

「犯罪の可能性がないなら、なぜ現実に犯罪があるのでしょう。自分の人間観を「事実」「共通認識」と思い込むのは危険ですよ。」

 犯罪の原因は人間の遺伝子、素質にないなら社会に原因があるということですよ。家庭環境、職場環境、自治体・国家環境、教育環境などに原因があるから社会を人間らしくしていく運動に意味があるんですよ。人間の特質として労働の遺伝子があるように犯罪の遺伝子があるのならば、社会や政治を「人間らしく」するというのは根拠があるのでしょうか?

 人類、人間に犯罪の遺伝子、素質があるという事実があるならば教えてもらえますか?そんな事実は無根だということであり、東西の価値観ではないですよ。事実と価値観は次元が違います。価値観は多様であっても当然ですが、事実、行為については共通認識が必要です。

[2008/01/08 08:47] URL | 東西南北 [ 編集 ] TOP ▲

>自分の人間観を「事実」「共通認識」と思い込むのは危険ですよ

横からごめんなさい。でもお玉もそう思います。「私はこう思います」という書き方をして頂きたいです。

[2008/01/08 08:49] URL | お玉おばさん [ 編集 ] TOP ▲

 本能と社会性

>犯罪の原因は人間の遺伝子、素質にない
というのは無理があるでしょうね。
遺伝子に組み込まれた、人という生物の本能(食欲、性欲など)を発揮する方法を間違えれば犯罪になります。

同時に人には、その本能をコントロールし、社会的な動物になれる素養もあるのでしょうね。その素養を伸ばし、自分を尊重するのと同じように、他者を尊重できる人に育てるのが、親だけでなく社会全体の責任なんだろうと思います。

もっとも、今はある程度ワガママで強引でないと生きていけない社会になっちゃってますが・・・

[2008/01/08 10:53] URL | Looper [ 編集 ] TOP ▲

Looperさんへ
 
 いや、コメントありがとうございます。違う記事では共感もしてくれていました。ありがとうです。Looperさんのことは「反日ブログ監視所」で奮闘しているのをみたり、眠り猫さんのブログで見たりして、「おー、良識ある人だ」とずっーと思っていました。今も思っていますし、結論、行動は同じ立場だと思います。ですから、まったく気楽に話せる感じです。

 さて、一言でいってその観念というか常識で論を推し進めていくと、例の法律と憲法の関係に行き着きます。全体主義と個人の尊重の問題です。やはり、社会合意=法律に対抗する憲法は事実関係しかないと考えます。多数の社会合意に少数の理論を対置しても、多数意見にも少数意見にも理論はありますし、感情もあります。ですから、どちらが人間の事実関係に基づいているかで争うのが憲法だと考えます。そこで、人間の本能について犯罪可能性、すなわち他人の人権を侵害する行為の可能性を容認しているようですが事実無根なことを説明します。

 人間は①社会貢献のために労働する②火など道具を使う③言葉を使う④二本足歩行をする。以上の4要素を総合した社会的存在である。

 人間の本能は①食欲②性欲③睡眠欲。以上の3要素を総合した社会的存在である。

 人間の本能は生きていくための社会的存在です。しかし、人間らしい本能である。例えば、猿らしい本能。豚らしい本能。鳩らしい本能。カンガルーらしい本能。犬らしい本能。レッサーパンダらしい本能があります。人間の本能は人間らしい本能であって、猿や豚などの本能と同列ではなく、還元すれば事実誤認です。人間の本能と猿、豚などの本能は次元が違います。猿の本能=人間の本能ではないです。種族が異なりますから質が異なるのであり比較対象として成立しません。

 人間、つまり生きていくための社会的存在は①社会貢献のための労働を行い②内面言語(意識)、文字言語、音声言語で意思疎通を行い③道具を使い、改良していく社会活動の中で人間らしい在り方に発展していきます。

 人間は食欲、性欲、睡眠欲を「衝動」として「人殺し」などの反社会的行動を実現する存在ではないです。

 ①食料はみんなで協力して労働して生産して分けます。
 ②異性は両性の合意と社会的労働に基づいて子孫を繁栄させていきます。 
 ③睡眠は社会的に安全な環境を創りながら、各個人に実現していきます。

 こうして人間の反社会的行動は人間の本能から出てくるものではないことが分かります。すなわち、反社会的な社会構造が人間の意識に反映し、人間の社会性を破壊し、蝕み、ついには人間を反社会的行動に追い込みます。

 反社会的な社会構造が人間の反社会的意識、行動の真因なのです。

[2008/01/08 17:38] URL | 東西南北 [ 編集 ] TOP ▲

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犯罪抑止力論ー応報刑か、教育刑かー

2008-01-05 23:31:45 | 随筆・論説
まず、死刑で殺人が抑止できない・・ですか?
あの・・抑止って完全に無くすってことではないですよ。
年間300件あった殺人が、299件になったら抑止効果ありでしょ(笑)

逆に聞きたいのですが、
終身刑や懲役刑に、殺人の抑止効果があると思われますか?

あと、死刑に殺人以外の犯罪を抑止する効果がありますか?


次に、懲役刑や禁固刑は教育刑だから、恐怖による犯罪の抑止効果は無い・・ですか?
あの・・いくら教育刑と言っても、懲役を受ける人は、失業しますよね?
家族や友人とも暮らせませんよね?
自由な行動もとれませんよね?
そして、これらのことを拒否することも、出来ませんよね?

これが『恐怖』でない!?
正直、ビックリしました(笑)

最後に、死刑は応報刑だから廃止すべきだが、
懲役刑や禁固刑は教育刑だから問題ない・・ですか?
では、終身刑は?
終身刑は認めるのでしょうか?
死刑廃止派の中には、死刑の代替として、終身刑をあげてる人もいますが・・?

[2008/01/04 19:10] URL | 田柄 [ 編集 ] TOP ▲

 1:「まず、死刑で殺人が抑止できない・・ですか? あの・・抑止って完全に無くすってことではないですよ。 年間300件あった殺人が、299件になったら抑止効果ありでしょ(笑)」

 これはいろんな人がコメントしていますよ。お読みください。

 一つ。死刑廃止国では、「俺は人を殺したよ。殺しても殺されないんだから、法律でそうなってるんだから殺して何が悪いんだ?ええ?って感じで居直って復讐殺人を犯す奴」が多発しているところはないということ。

二つ。死刑廃止国で凶悪犯罪の発生率が一律に上昇していることはないこと。

三つ。死刑廃止と凶悪犯罪防止策とは決して矛盾しているわけではないこと。

[2008/01/02 13:38] URL | 村野瀬玲奈 [ 編集 ] TOP ▲

 死刑には犯罪の抑止力がないだけではなく、死刑が犯罪の目的になっています。
宅間被告は自分を死刑にしてもらうために、何の罪もない児童たちを犠牲にしたのです。
死刑がなければ、子供たちは死なずにすんだでしょう。

またアメリカで多発し、日本でも佐世保で発生した銃乱射事件では、犯人は自殺することが多く、死刑は大量殺人の抑止力にはなっていません。

追い詰められて自暴自棄になった人間には、死刑は無力だと考えるのが妥当ではないでしょうか。

[2008/01/02 17:35] URL | MNG [ 編集 ] TOP ▲

 死刑による利益の筆頭として挙げられる一般予防効は、各種の統計データによってその有効性を疑問視される段階に至っています。アメリカにおける死刑廃止州・存置州の比較や、ある国での死刑廃止前後の比較において、死刑廃止が原因と見られるような死刑対象犯罪の顕著な増加が見られなかったことが、その根拠として挙げられています。

死刑廃止国・廃止州が、死刑を廃止したがために犯罪が多発し社会秩序が崩壊した、と言うようなケースは無かったこと(統計データによるとむしろ死刑廃止州より死刑存置州の方が凶悪犯罪は多いとのこと)などから考えても、死刑の一般予防効は無い、仮に有っても教育・雇用の確保・犯罪捜査能力の向上等の他の要素に比べれば微々たるものに留まる、というのが実情でしょう。

[2008/01/03 12:52] URL | trilemma [ 編集 ] TOP ▲

 。「死刑には凶悪犯罪を抑止する効果がある」とか「被害者感情を考えて死刑を支持する」とか物事を簡単に考えたいという誘惑に私は抵抗して、より深く考えて自分のブログでも死刑廃止関係の記事を書いています。よろしければごらんください。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-category-4.html

[2008/01/03 15:22] URL | 村野瀬玲奈 [ 編集 ] TOP

2:「終身刑や懲役刑に、殺人の抑止効果があると思われますか? あと、死刑に殺人以外の犯罪を抑止する効果がありますか? 」「次に、懲役刑や禁固刑は教育刑だから、恐怖による犯罪の抑止効果は無い・・ですか? あの・・いくら教育刑と言っても、懲役を受ける人は、失業しますよね? 家族や友人とも暮らせませんよね? 自由な行動もとれませんよね? そして、これらのことを拒否することも、出来ませんよね? これが『恐怖』でない!? 正直、ビックリしました(笑)」

 殺人や犯罪への抑止力は福祉政策、教育政策、雇用政策などの組み合わせです。その一環として犯罪者を隔離して教育する刑罰があるのです。これが教育刑論から言う犯罪抑止力です。福祉政策、教育政策、雇用政策などの組み合わせが犯罪を減らしもするし、無くしもするのです。犯罪・殺人がなくなるという根拠は人間は生まれながらに犯罪者ではないという事実にあります。

 刑務所に隔離されて教育刑を受けることは恐怖が恐怖でないかといえば隔離されるわけであり、恐怖ですね。しかし、恐怖が犯罪を抑止しているのではないというわけです。犯罪を抑止するのは恐怖ではなく福祉、教育、雇用政策などの組み合わせなのです。恐怖が犯罪を抑止するというというのは人間を恐怖で支配するということですから、事実無根です。人間は生まれながらに犯罪者でもなければ恐怖で支配できる存在でもないのが事実です。人間は生まれながらに自由だということです。

 3:「最後に、死刑は応報刑だから廃止すべきだが、 懲役刑や禁固刑は教育刑だから問題ない・・ですか? では、終身刑は? 終身刑は認めるのでしょうか?」

 原則としては仮釈放ありの無期懲役刑です。人間は生まれながらに犯罪者ではなく、社会に原因があるので更正教育によって社会復帰できるというのが原則だからです。しかし、具体的な社会状況の中で、無期懲役の受刑者に更正教育を実施しても仮釈放の基準に到達しない場合のありますので、この意味で終身刑もありうるということです。

[2008/01/05 00:20] URL | 東西南北 [ 編集 ] TOP ▲

う~ん・・恐怖が犯罪を抑止してるのではない。事実無根だ・・ですか?
つまり、捕まるのが怖いから、罪を犯さない人などこの世にいない・・ということですね。
では、国が駐車違反の取り締まりを止めます!と宣言しても、違法駐車は増えないと思いますか?
捕まるのが嫌で、交通ルールを守っているドライバーなどいないのでしたら、増えないでしょうね(笑)

そして、恐怖で人を支配できない・・ですか?
では、なぜナイフを突き付けられて、財布を渡す人がいるのでしょうか?

恐怖に支配されていませんか?

次は、えーと・・死を覚悟した人間に死刑は無力・・ですか?
無力なのは死刑だけでなく、全ての法律ですね。
何故、無力なのか? それは、死を覚悟した人間には、法の恐怖が通用しないからでしょう。
つまり、一般の人間には恐怖が通用するってことですね。

最後は、死刑を廃止しても凶悪犯罪は増えないから、死刑に意味はない・・ですか?
え~・・ここに三つの刑罰があります。
死刑、終身刑、懲役刑です。
このうち、死刑を廃止しても犯罪は増えなかったわけですね。
あの・・増えなかった理由は、終身刑(ロングの懲役刑含む)があったからでは?
仮に、死刑ではなく、終身刑を廃止しても凶悪犯罪は増えないでしょう。
それは死刑があるからですね。
そのデータは、死刑が無意味なのではなく、死刑と終身刑が同等の効果を持つことを示しているのでは?

もし、死刑も終身刑もロングの懲役刑も、全て廃止したらどうなるでしょう?

何をしても懲役10年までとなったら、凶悪犯罪は増えないでしょうか?

逆に死刑と終身刑を残して、懲役刑を廃止したら?
窃盗も詐欺も痴漢も、全て死刑か終身刑です(笑)

犯罪自体が減るとは思いませんか?

まさに、恐怖による犯罪抑止ですね(笑)

[2008/01/05 07:32] URL | 田柄 [ 編集 ] TOP ▲

いや、すでにもう判っていらっしゃると思います。つまり、「一般の人間には恐怖が通用するってことですね。」

 これがすべてですよ。恐怖が通用するということは人間は生まれながらに犯罪者ではないということです。ですから、恐怖が犯罪を抑止しているように見えますが、実は人間の本性が犯罪を抑止しているんです。人間が生まれながらに自由な存在でなけければ恐怖を与えても抑止できないでしょ?つまり、犯罪抑止が効くのは人間が恐怖によっては抑止できない存在だからです。

 ですから、恐怖による抑止ではなく、福祉、教育、雇用政策などの一環として犯罪者を隔離し、その更正を図るのが教育刑です。恐怖によって人間を更正させるのは事実無根だし、恐怖を与える応報刑こそ犯罪の原因だと知るべきです。

[2008/01/05 09:16] URL | 東西南北 [ 編集 ] TOP ▲

・人間には恐怖が通用する
・恐怖が通用するのは生まれながらの犯罪者ではないから
・犯罪が抑止できるのは、人間が恐怖では抑止できないから
・応報刑こそ犯罪の原因・・

う~ん・・どなたか、これを解説できる方は、いらっしゃいますか?
私には、まったく解りません。
唯一解ったのが
『応報刑を無くせば、犯罪が無くなる』
ことです(笑)

すでに判っていらっしゃるはず・・って・・・まったく解らないのですが?(笑)

[2008/01/05 18:56] URL | 田柄 [ 編集 ] TOP ▲

人間が人間を殺そうとしてその瞬間、犯罪を実現しようとするその瞬間、心に芽生える感情と理性が犯罪抑止力であり、それは「恐怖感、怯え」ではありえないのです。人間が犯罪を抑止するのは人間の温もり、愛情、人命尊重の社会環境の中で育てられることに起因するのです。社会環境が人間に「恐怖」を与えてもそれは犯罪を抑止する力にはなりません。無力です。東西は恐怖が犯罪を抑止し、恐怖が家庭の秩序を保ち、恐怖が職場の秩序を保ち、恐怖が国家の秩序を保つ。恐怖は犯罪抑止力になるんだ、という態度については、深い悲しみに襲われるのです。涙が出るくらいです。そうではないんじゃないか?人間が人間の犯罪を抑止していくには人間が人間に対して恐怖を与えるのではなく、思いやり、ぬくもりを与え、人命を尊重してありのままを抱きしめる態度以外にありえないのではないか。人間が人間に恐怖を与えて保つ犯罪抑止って何なんだろうか?東西は虚無しか感じないです。深刻な闇と悲しみ。子供が実の両親を殺害することを決意したその瞬間に涙が流れて止まらないのは決して死刑の恐怖感が作動して抑止されているのではない。両親から受けてきたぬくもりや愛情の欠片がぬぐいがたく真実として心にあり続けているからです。他方、涙も流れないで表情も変化しないで両親を殺してしまう子供があるとして、それは社会による恐怖がたりなかったから恐怖と制裁による犯罪抑止力が足りなったから子供は両親を殺す瞬間に冷酷だったんでしょうか?そうではない。ここに犯罪抑止力の真実があるのであり、人間の真実があるんです。それは恐怖によって実現する犯罪抑止力ではなく、教育、福祉、雇用政策などの組み合わせの一環として実現される教育刑だということです。人間は生まれながらの犯罪者ではない。犯罪者の人間性を押しつぶしてきたのはまさに、応報刑などにもあらわれる国家の恐怖支配、死刑に極言される社会的な無関心、排除、抹殺、放置ではないでしょうか?

[2008/01/05 23:05] URL | 東西南北 [ 編集 ] TOP ▲
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刑事政策学で犯罪の遺伝子のお話ありました

2008-01-05 02:48:33 | 随筆・論説
 Unknown (あゆ)

2008-01-03 22:07:19

刑事政策学で犯罪の遺伝子のお話ありました。遺伝子ないなら環境要因はおおきいですよね。遺伝子がもしあるなら、これは先天的だから本人に責任は問えませんよね。国や社会が治療とか面倒見ることになりません?

どうなんでしょう?

本人を責めるだけでは問題は解決しない (ヤメ蚊)

2008-01-03 23:09:51

…のは間違いないですよね。まずは、収容人員の過剰を解決しないと先に進みそうにありません。

あゆさんへ (東西南北)

2008-01-04 08:20:31

「遺伝子ないなら環境要因はおおきいですよね」

 大きいという量的な問題ではなく質的な問題です。人は生まれながらに犯罪者ではないのですから。完全に社会、経済、政治などの環境が人間を犯罪者にしたという因果関係が成立します。しかし、同じ環境でも犯罪者にならない「強い」人間もいるじゃないか?という俗論がありますが、それは人間が犯罪者になる程度は押しつぶされていないというだけであり、質的にはどの人間も社会、経済、政治が原因して人間性を押しつぶされているのです。個人を潰すのはいつも社会であるが、個人は社会を正す可能性を持っているということであり、ここに生まれながらに犯罪者ではない人間の真実がある。

「遺伝子がもしあるなら、これは先天的だから本人に責任は問えませんよね。」

 犯罪の責任は行為にあるのであり、人間の存在自体にあるのではないですよ。ですから、犯罪が遺伝するという悪質な観念を仮定した場合でも、人間の行為が犯罪であれば責任はあります。が、この場合に問題となるのは、犯罪の遺伝というものが特殊な個人にだけある特質なのか、それとも人類に共通する特質なのか、です。後者であれば、何を犯罪とするかはその時代の社会の合意、多数しか基準はなくなります。治安維持法も合法だとあります。前者であれば、犯罪を実現した場合、刑務所へ隔離して責任をとって貰うことにありますが、もちろん、医療的な治療が必要になるか、または、無期懲役で死ぬまで隔離かのいずれかであり、死刑は必要性がないですね、隔離で社会の安全は保障できるからです。



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宗教と科学の峻別と協力

2007-11-17 22:25:54 | 随筆・論説
 Unknown (imacoco)

2007-11-15 11:15:12

厳密に言うと 宗教も科学なんです・・けどね。
それは、300年前に東京~大阪を2時間半で移動する装置を考案しようという人間が(恐らく)存在しなかったのと同じで、人間存在の内面の神秘が現在は殆ど明らかにされていない、っていうか、眼に見えな領域が否定される傾向にある、という問題と同じだと言えます。 

imacocoさんへ (東西南北)

2007-11-15 22:38:43

 「厳密に言うと 宗教も科学なんです・・けどね。」

 これはimacocoさんがおっしゃれば笑いますし、それでよいと思いますが、創価学会、統一教会などがわれわれは科学団体であり、宗教団体ではないと言い出せば、明らかに宗教団体であり、非科学的、反科学的な集団です。

 imacocoさんが言っているのは科学の発展、進歩のことですね。宗教とは神など自然にも社会にも存在しない観念を根拠に実践する思想と行為の結合です。たとえば、未発見の霊なる存在が病気の原因だと観念し、お払い、加持祈祷などで治療するという行為は完全に宗教となります。

 霊などは自然、社会の存在しない観念であり、それを根拠に加持祈祷などの実践をしているからです。この手の悪質商法が霊感商法として問題化しております。

 ゆえに、科学と宗教の分別はメディアにとって必要なわけです。

Unknown (imacoco)

2007-11-16 10:25:52

東西さんが言う事は「宗教」ではありません。
それは人間のエゴです。僕が言う宗教とは、存在の本質を見つめる、精妙な科学といったところです。
神は存在しますし、人間は肉体だけの存在ではないことも確かです。
ただ、それを人に教えることは非常に難しく、安倍晋三に日本国憲法の素晴らしさを説くようなものでしょう。

imacocoさんへ (東西南北)

2007-11-16 23:30:28

 東西は人類の肉体的な存在が精神的存在を規定していると言うのが科学だと思います。例えば、人間は殺しあう存在であり、殺人も戦争も死刑もなくなりはしない。強姦も強盗もしかりだ、などと想像し、妄想する精神的な存在がいかに非科学的で反科学的な宗教かということですが、こうです。

 人類の肉体的な存在、つまり、受精卵から植物状態へいたるまでにおいて、殺し合い、奪い合い、戦争、強姦の遺伝子など存在しないということです。ということは、先にあげた精神世界は完全に自然界、人類の肉体的存在に根拠を持たない想像、妄想であり、それに基づく犯罪行為は宗教だといえるわけです。

 人間の精神性は人間の肉体が規定しているということです。結局、精神世界の科学、非科学は人類の肉体が規定しているのであり、人類の肉体は共に生きて、共に労働するということですから、あらゆる観念論は人類の肉体的な本質を根拠とする科学的ヒューマニズムによって変革されなければならない、ということです。

 共に生き、共に働く。これが人間の本質であり、思い込みではないのです。

以下は参考記事です。

2007年11月14日(水)「しんぶん赤旗」

共産主義では宗教は不必要?

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 〈問い〉 私は、宗教は不満からの逃げ道と考えています。それならば、共産主義によって不満が取り払われれば、宗教は不必要になるのではないでしょうか。共産主義はそもそも宗教否定主義と思っていただけに、そうではないということをこの欄(07年4月7日付)で知りショックを受け、あらためて質問させていただきました。(メールで、S生)

 〈答え〉 宗教は原始社会に芽生え、人間が生活する自然条件や社会のあり方によってさまざまに変化してきました。資本主義社会では、一部の大企業と大資産家が優遇され、民衆の圧倒的多数はつねに生活の没落と破たん、人生の転落と破滅の危機感におそわれています。人間の老病死や、資本主義の目に見えない力への恐怖に、今日の宗教の存在理由の根源があります。これが宗教についての科学的社会主義の見方です。

 ですから、宗教を否定するのではなく、弱肉強食の社会、非人間的労働や人間の尊厳をふみにじる社会保障などにたいして、宗教を必要としている人びとと連帯して、社会的反撃をもってこたえ、よりよい社会を実現するとりくみが必要となります。

 宗教は人間の内心の問題、精神生活に根ざしていますから、政治的な対策つまり政策で「消滅」をはかっても実現できないことは、250年にわたる徳川幕府の厳格な禁教政策のもとでも隠れキリシタンが受け継がれてきたことをみても明らかです。

 日本共産党がめざしている共産主義社会では、戦争はもちろん貧困や格差、投機や自然破壊などの資本主義的悪徳の社会的基盤は廃絶されます。宗教のめざした人間の幸福の多くが現実に実現する将来社会で、宗教がどのように存続しているかは今後の探求課題ですが、人間社会であるかぎり、病気や寿命、結婚や家庭などの人間関係、自分の才能についての希望と現実などの悩みがなくなるとは考えにくいことです。

 共産主義社会でも人間の苦悩にたいする精神的活動として宗教が存在する場合、自由な人間関係の社会の自由な精神活動が保障されることはいうまでもありません。

 宗教の社会的役割としては、現世の苦悩の解決を天上にゆだねて民衆の社会的自覚をはばんだり、政治権力とむすんで権力者の支配を助けたりしたこともあります。同時に、宗教が民衆の立場にたって社会進歩を推進した歴史があります。

 20世紀には「神を信ずる者も信じない者も」共同してファシズムに立ち向かい、今では異なる信仰の宗教者が共同する平和運動が発展しています。

 信教の自由を擁護し、政教分離の原則の徹底をはかることを綱領に明記する日本共産党は、オウムや統一協会などの反社会的集団にたいしては犯罪として対処することをもとめ、創価学会・公明党の政教一体にも反民主主義的な集団として批判しています。同時に、憲法第9条を守る運動をはじめ平和と民主主義のために宗教者との共同を重視しています。(平)

 〔出所:日本共産党HP 2007年11月14日(水)「しんぶん赤旗」〕

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「知らされていないことによって、世論もまたつくられる」

2007-11-14 21:22:57 | 随筆・論説
 知らされていないことによって、「世論」もまた作られる。

     「弱い文明」/ “レイランダー”

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日本人はあまり知らないことかもしれませんが、世界中で死刑を積極的に行っている国はむしろ少ないのです。昨年で最も多く死刑を執行した国は、アメリカと、ブッシュ大統領が「悪の枢軸」と呼んだイラン、イラク、そしてパキスタンと中国です。

日本はどうでしょうか。死刑廃止どころか、弁護士が積極的に死刑を求めて、裁判を起こす状態です。国民の間にも死刑を擁護する声が高いのです。マスコミも情緒的な記事を執拗に書いて、殺人者を処刑しようという世論を作りあげています。

法の裁きは社会の秩序を回復させるためにあるもので、復讐のための処刑を執行する“必殺仕事人”ではないのです。社会の秩序を回復するには、たとえば未成年者が何の関係もない主婦と子どもを殺害したとするなら、何がそのような事件を引き起こしたのか、を明らかにしなければなりません。

近年の、少年によって引き起こされる重犯罪の背景には、家族の崩壊、抑圧的な人間関係、子どもへの精神的・身体的虐待、さらには新しい「貧困」という問題があることは数少ない良質の報道によって知らされることがあります。私たちはそれを知っているのです。問題の根本には、社会のありよう、日本が今めざしている「効率主義」=生身の人間の感情や人格を置き去りにする価値観があるのです。

そういうことは飲み屋談義のネタになることはあっても、真剣に取り組もうとすることはどれほどあるでしょうか。わたしは思うのですが、日本人は今、問題の本質から目を背けたいのではないでしょうか。子どもの権利を尊重しようという方向への機運が起こらないようにしたいのではないでしょうか。

「経済大国」にのし上がるに当たって、企業も労働者も人間よりも利益をあげることの方を優先してきました。その結果として公害や家庭の崩壊が生じてきたのです。日本のこういう実態はユネスコをはじめ、人権団体から何度も警告されてきたのですが、日本のマスコミはそういうことはほとんど報道しません。

中曽根さんの時代から、新自由主義が台頭しはじめ、今日、労働者はまるで封建時代の農奴のような扱いをされてきています。何をめざすのかといえば、国際市場での価格を下げるため、そうやって収益効率を上げるため、です。日本人は家族の崩壊や国民の生活の安全よりも、「経済大国」のメンツを維持することの方を選んでいるのです。それが国民自身を害する事になるにもかかわらず!

「日本人が」と一般的な言い方をしましたが、わたしの身のまわりでは、おおかたの人はむしろ逆で、家族を愛している人のほうが多いのですが、選挙があると小泉自民党に票を入れて、自分たちの生活の安全弁を積極的に外そうとするのです。日本人は今、どこにむかって「特攻」しようとしているのでしょうか。自分たちの将来の生活に向かって、です。どう考えても異常な行動です。

これは日本人が望んでしていることとは思えません。異常な行動を取るよう、思考コントロールされているのではないでしょうか。いまやマスコミが自民党の提灯持ちとして情報を取捨選択して、世論を操作しているのです。戦争中のようにウソを報道するのではなくて、事実を知らせないようにする、という方法によって、です。こういうのを「白いウソ」といいます。真実を隠すのです。

今、日本国民を益する政治の方向は、大国主義からの脱却であり、今必要な政策は福祉重視です。社会のあり方を180度転換しなければならない局面に、現実にきているのです。そのためには、わたしたちはこれまでの価値観を切り替えなければならないのですが、それを拒否しようとしているのではないでしょうか。

刑法の厳罰主義化、個人よりも公益という価値観=国家主義的愛国心の教育、老人や身体障害者の切捨て、労働者の商品化。全体主義が子どもたちを荒廃させてきたことを薄々知っているのに、あえてそれを無視しようとしているのが、今のわたしたちの姿ではないでしょうか。わたしたちはマゾヒストではありませんので、自らそれを望んだのではなく、情報操作によってそう望まされているのではないでしょうか。

ひずみや矛盾が顕在化しているのは、それまでの方針に無理や間違いがあった、ということです。わたしたちは今一歩、身を引いて、深呼吸をし、冷静になって考えて見なければならない「淵」にきています。情報が操作されているのだとしたら、情報の受け手であるわたしたちは、慎重に判断しなければなりません。自分の命、自分の生活、自分の将来の問題なのですから。




「預言者のことばは、地下鉄の壁や、安アパートの廊下に書かれている」(「サウンド・オブ・サイレンス」/ ポ-ル・サイモン・作)




真実の情報は、大手新聞紙上ではなく、ましてTVのワイドショー的ニュース番組でもなく、ネット喫茶や、路上や、ハローワーク、たらいまわしにされる妊婦、病床が減り、医師がいない病院、毎年自殺する3万人以上の人間の遺体、自分の平穏な生活に埋没する主婦たち、…そして裁判にかけられている少年の背中に書き記されているのです。

(出所:http://blog.goo.ne.jp/psycho-sedric/e/ac28eff0fb2bb53ff089ea74f500c48b)
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メディアリテラシーー報道は信じる信じないではないー

2007-11-13 21:27:11 | 随筆・論説
--報道は信じる信じないではない。--

 1:報道は事実を報じること。個別事実を普遍化した科学を報じること。宗教と科学を峻別すること。

 2:国家権力と財界、企業資本を監視し、人間と労働者の立場から批判し、人間と労働者の知る権利を実現していくこと。

 この2点が絶対に不可欠です。権力、財界、企業資本に迎合する報道はもはや報道ではなく、大本営発表であり、デマの手段です。

 その上で、野党の機関紙誌は現実政治の最も鋭い権力監視機能、告発・暴露機能を果たすメディアとして存在しておりますが、忘れがちです。

 さて、メディアが報道した内容が事実か事実でないかはわからないから、信じる信じないの問題だというのが今現在、もっとも危険です。これは記事で言うところの「先入観」です。

 つまり、「読売新聞は事実と信じるが、朝日新聞は虚偽である、あるいは事実かどうかわからない」と信じる。「公明新聞は事実であるが、赤旗新聞は虚偽である、あるいは事実かどうかわからない。」と信じる。という認識、判断です。

 先入観を排した、いわゆる中立の態度、認識、判断とは「読売新聞も朝日新聞も事実を報道している」「公明新聞も赤旗新聞も事実を報道している」しかし、事実が食い違う報道が掲載されるときがある。どちらが事実であるかが問題になる。あるいは、誤報という場合もある。しかし、誤報は反対する具体的な事実を上げて訂正報道を求めることでメディアが誤報したかどうかは判断できる。こうしたメディアに対する積極的な態度と中立な態度が民主主義である。

 最後に付言するなら、メディアは自然界と社会、歴史、経済、政治等のすべての事実を報道しているのではなく、現実社会に存在している事実と比較すれば多くは隠蔽された事実があるということであり、ゆえに、メディアの編集権とは個別事実を余すところなく掲載することではなく、個別事実に貫く科学的な法則を手段に個別事実を掲載していくといことに他ならない。この点で、各メディアがどのような自然科学観、社会科学観、人文科学観、編集方針を持っているかを知ることは重要である。
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食育は子供の学習権保障

2007-11-11 15:43:40 | 随筆・論説
ワンフレーズ教育の危険について [学校と子ども]  

我が家の子どもはまだ園児なので、国家主義的な考え方や規範を園で教え込まれるという機会はほとんどないようで、私はイライラせずにすみ、子どもも楽しそうに通園し、まずまず平和に暮らしています。私は人間として必要なマナーやしつけは小さいうちに身につけて、学校へ通う年齢になってからはそういう教育は少なくしていくのが理想だと思っています(もちろん、問題となる場面があったら、そのつど話し合うことは必要でしょうけれど)。ですから、しつけはちょっときびしめの園のようですが、良いことを教えてもらえるのなら、それでいいと思っています。

宗教を掲げている園なので、国家的思想がストレートに入ってきにくい面があることも気に入っています。日の丸君が代とも、いまのところ縁がありません(私は国旗国歌を否定しているのではありません。しかし、いまのように日の丸君が代が人間に対する踏み絵的に使われている場面がある限り、反対せざるを得ません)。ただ、服装の一部ですが決まったものを着用したり(全身制服ではありません)、背の順に整然と並んだり、運動会の踊りの練習を1カ月以上してみんなで合わせたりというように、私からみて画一的な面はあり、私が理想とするいわゆる自由教育ではないのですが、親としては許容できる範囲です。

そんな割合のどかな園生活のなかで、世の中の教育の流れが入り込んできているなあ〜と感じさせられるのが「食育」です。園として特に力を入れているというほどでもなく、たぶん他の園と横並び程度だと思いますが、なぜか6月19日が食育の日で午前中が「食育の話」になっていたり、県や市が配布したらしい食育関係のポスターやイベントのお知らせがはってあったりします。

また、毎月全員が購入している幼児向け絵本にも毎号必ず食育のページがあり、小さい子ども向けなので食品の種類などの紹介が多いのですが、付録の最後に「朝ごはんは大切です!朝ごはんをきちんととらないと「元気が出ない」「集中力が欠ける」「記憶力の低下」「反応の鈍さ」などが見られるようになります。牛乳だけ、バナナ1本だけではなく、毎日きちんと朝ごはんを食べましょう」などと、親への教育かな?と思わせるようなページがあったりします。

私は1〜2年前、世の中で食育という言葉が広く使われるようになって以来、はっきり言ってこの言葉は好きになれません。「うちの子どもにも朝食は毎日食べさせるようにしているし、別に悪い内容ではないのに、どうして好きになれないのだろう」とずっと自問自答してきました。最近になって、何となくその答えが見えてきたように思います。それは、「学」ではなく「育」である。結論が先にあって、そちらに親子を誘導していこうという意図がみえるところです。


子どもに対しては、有無を言わせずきちんと教えておかなければならないことがらはあると思います。例えば・・・

・自分の安全や生命にかかわること:交通ルールなどで、「左右をよく確認し、手を挙げて横断する」

・他者を損なうかもしれないこと:友だちに砂をなげたり、遊具から押したりする行為など。「自分がされてイヤで困ることは、お友達にしてはいけないよ」と言い聞かせる。

そういう重要なことについては、最初からきっぱりと教えるべきだと思います。しかし、その他の緊急性のないことについては、頭から教え込む態度には反対します。客観的な情報を与えて、自分の頭で判断ができるようになるのを待つべきでしょう。その点で言えば、食に関する姿勢は一生に渡るもので、子どもをネグレクトして食事を与えないなど、ごく例外的な虐待のようなケースを除いて、重要だけど緊急性は少なく、じっくりと考えさせるべきだと思います。

その上、食育は一見、子どもに言っているようでいて、実は主に親に「こういうふうに子育てしろ!」という規範を示しています。というのは、食事を用意し子どもに与えるという食事の責任者は親なのですから。そういう大人に対して、家庭のなかにまで入り込むかたちで、前のめりに結論を押しつけるような介入はしてほしくないです。たとえ、正しいことであってもです。

食育と関連して最近よく耳にする「標語」に「早寝、早起き、朝ごはん」というものがあります。地域ぐるみでそういう運動を推進しようとする「早寝、早起き、朝ごはん推進協会」のようなものまで、保守派の方々を中心に設立されています。こういうワンフレーズ教育には非常に抵抗を感じます。悪いことを言っているわけではありません。一見、誰もが反対できない「正しいこと」を掲げながら、しかし、こういうお題目のような教育は、人々に考えることをさせません。

何回もそのフレーズを耳に入れることによって、「自然に」そういうものか、そうしなくては・・・と思わせることを意図しているように見えます。人間の知性を信頼し、自由な思考を促していく真の教育ではなく、取りあえずこのことを覚え込ませ正しいと思わせる・・・そういう応用の効きにくい刷り込みでしかないと思います。

先日、ある公立高の前を通りかかったら、玄関の真ん前に大きな字で「挨拶励行」と書いた横断幕がかかっていました。小学校で「元気にあいさつしよう」という標語でしたら(特に賛成ではありませんが)、理解できます。それが、もう10代の後半の生徒たちに対してまで、「挨拶励行」と書いている。私はそれを見て愕然としました。考える力を育てない教育を続けた結果、こんなことをもう半分大人のような生徒に求める。そういう実態となっているようです。

食育や「早寝、早起き、朝ごはん」的なワンフレーズ教育の行き着く先が、高校での「挨拶励行」だというのは考えすぎでしょうか。同じような言い聞かせでも、私たちが親世代から聞かされた「お米はお百姓さんが汗水垂らして作ってくれたものだから、最後の一粒まで粗末にせずに食べるんだよ」というものは、農業が主産業であった日本人の実感と気持ちがこもっていて、いまでも「そうだなあ〜」と思い出しますが・・・。

家庭で上の世代から戦争中の話を聞くと、国民や子どもたちに対して、たくさんの標語的教育が行われていたように思います。「ほしがりません、勝つまでは」「生めよ、増やせよ」・・・。そういう標語的な教育には自分で批判的に考えて善悪を判断する力を鈍らせてしまう魔力があるように感じてなりません。

食育から戦争中のことまで飛躍しすぎかもしれませんが、私は根っこは似た潮流のように思います。06年教育基本法をもし自治体や現場が忠実に実行したら、こういう結論先取りの教え込み教育になるはずです。いまは反対の出にくい食事面から入ってきていますが、そのうち次第次第に意見の分かれそうな分野まで、こういう手法が用いられると思います。政治を変えて教育の流れを旧教育基本法の理想を実現する方向にしたい。心からそう思います。

2007-11-07 10:56 nice!(1) コメント(9) トラックバック(1)

 勉強になります。
「食育」という言葉は聞いたことはありました。先日の市議会選挙の時も「食育の推進」を公約していた候補者もいたように記憶しています。

その時、学校給食での食育推進の為の活動として「地元産の食材」を使う運動だと説明されていたようです。

私は、単純に食の安全の問題が取りざたされている今日、安全な(と思われる)地元産の食材を使うことは地元も農業振興にも役立ち、漠然と良いことだな~~あ。と思っていました。

今日、maiさんのブログを拝見し自分の無知を恥じているところです。
調べて知ったのですが「食育」って言葉だけではなく「食育基本法」って法律まであるのですね。それが平成17年6月10日、自民、公明、共産の賛成。民主、社民の反対で成立したとの事。何故共産が賛成なのでしょう。

(財)食生活情報サービスセンターなるものが一枚かんでいますね。公益法人の見直しが行われる中、仕事があるようにするための法律ではないのでしょうか。役人って強かですね。補助金にたむろする輩もいることでしょう。

これからも知らないことお教え下さい。期待しています。

 by 女衒の辰 (2007-11-07 22:36)

 食育。これは子供が安全で多様な食文化を実現していく権利を保障していくものであり、学習権の一環という位置付けなんでしょう。そうであれば、保護者のネグレクトのよる虐待に対して子供が食文化を要求していく根拠になるのであり、必要なことですね。子供の権利が食育ということであり、国家や保護者の命令を合理化するものではないというのは当然です。

 食というもはどういうことなのか、ということを学校での給食や調理実習、課外活動等を通じて学習していくということですね。こうした見地から子供たちに対して食生活の安全、健康、多様性、食生産労働への科学的認識、自然と食生産への科学的認識を体験させながら、感情的にも理論的にも「人間らしく」一貫して教育していく義務が保護者と国家にあるということですね。

 こうして食育と子供の権利として位置付け食育関係の予算を国家に保障しせていく運動が必要だと思いますが、学校や家庭への教育行政の介入は「学習指導要領」と同じ位置付けで退ける必要があります。

 追記:東西が小学生の頃の「食育」は作ってくれた人への感謝の心を忘れるな!ってことで、給食を残すことはありえないという教育でした。東西もまずくて飲み込みにくいメニュをいまでも憶えているんですが、「皮付きチキンのオレンジソース和え」「梅ゼリー」でした。これは東西にとってまさに「拷問」でしたが、我慢と忍耐で完食し、給食を残したことがないという金字塔を打ち立てました。

他方、友人のM君はトマトが嫌いでした。ある日、トマトをボイルしたようなトマトの風味が生暖かく強烈に出る調理法でトマトがM君の前に出されました。M君はギブアップして先生に残すことを申しでましたが、不許可。掃除の時間も永久にボイルトマトと睨めっこでした。東西らが「おい。一気に行け。大丈夫や」とかいってゲラゲラ笑って励ましていた所、M君がおもむろに一気に流し込みました。東西らは「おー」って感じで拍手。その瞬間、M君は東西らが綺麗に磨いた床にゲロを思いっきりぶちまけました。

M君は保健室行きです。先生は東西らに「おい。先生はMを保健室へ連れて行くから。東西。おまえ、ゲロの片付けしといてくれるか?」って、東西は「ぎょえー。何でやねん」って感じでしたがサボると先生にビンタされるのは確実だし、M君のうなだれる姿がかわいそうだという理由でゲロの片付けをしました。

 作ってくれるのはありがたいですが、食べる人の多様性を尊重したメニューを出してほしいなー。と要求する権利が子供にはあるということでしょう。

by 東西南北 (2007-11-10 16:56)

(出所:http://blog.so-net.ne.jp/kyoikushiminnokai_in_shiga/2007-11-07)
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尊厳死についてーその2-

2007-11-04 07:26:21 | 随筆・論説
 尊厳死について、私の整理

 春野ことりさん(医療界では医師はすべて「先生」と呼ばれることは承知していますが、ここでは「NHK方式」にさせて頂きます)から頂いたコメントとトラックバック記事も考え合わせて、自分としての「尊厳ある死に方」を整理してみたくなりました。最後の瞬間まで死ぬまいと戦いつづける人たちもいる、自覚的でなくても、本能的にそうする場合もあるということですから、他人のことは、ここでは考えないことにしましょう。
 
 春野さんの著書「天国へのビザ」にもありましたが、私が考えるのは「死の受容」または「生に組み込まれている死との共存」です。私は小学2年生のときから「なぜ生きているか」を考え始め、死ぬときは自分が主人公として決めたいという願望を持つようになりました。それは今も変りません。大方の老人と同じように、私も「ぽっくり死ねたら本望」と思っています。そして74歳の今、「蘇生術お断り」も、ぜひ実行したいと思っています。問題は、病床について他人の世話を受けないと生きていられなくなった場合の身の処し方です。

 私は概して健康に過ごしてきたので、寝たきりで世話される身の上になって再起が不可能になった場合は、精神的に弱いのかもしれません。そのときは、口に入れてもらった食物を、自力で嚥下できなくなったときを、自分にとっての尊厳の限界点にしようと思います。つまり経管栄養の拒否です。技術が進んで点滴で高カロリーの補給が可能になっても、辞退することにしましょう。
 
 ここまでは一応の基準を考えられました。しかしその先に、書きにくい大きな懸案があるのです。それは「自死の権利」ということです。健康状態に関係なく、自分で自分の死に時を決める権利は、基本的人権に含まれるのか、含まれないのか。含まれるとすれば、現代の医療は快適な自死の手段を提供できるでしょう。一気に書いてしまえば、公認される自死に理由を問うべきではありません。近い未来に、死亡原因のかなりの部分を自死が占めるようになっても、私は少しも不自然ではないと思っています。長寿社会を初めとする、現代社会がもたらしたさまざまな「不自然さ」の帰結として、そのような時代を私は予感するのです。大問題だということは自覚しています。私の尊厳死は、自死を含むのです。

 P osted by 志村 建世 at 15:42:25 | コメント (15) | トラックバック (1) | リンク (0)

2007.10.22 18:31:42 古木涼子 : いのちの始まりと終わりについて、そもそも命そのものについて、人間に権利はあるのでしょうか。私にとって、「死の受容」とは、人の思い通りにはならない現実を受け入れ、人間を超えた力に身を任せることです。これができれば安らかな死が迎えられそうな気がするのです。
「心と体、傷ついても、あなたのいのちは変わらないよ。美しく光かがやいている。生きて、生きて、生きて欲しい、かけがえのないあなたのいのちを」

19:04:42 志村 建世 : 私の思い上がりを見抜かれていましたね。あの歌を私に送って下さったのも、神の意志ですか。古木さんには、かないません。

20:20:33 古木涼子 : 明日は、大好きだった姉の命日です。病床で「クレド(ある兵士の祈り」の歌を何度も何度も聴いていたそうです。(私は、フィリッピンに居ましたので死に目にあいませんでした。)志村さんのおかげで、今日は私も死について少し考えることができました。ありがとうございました。

22:01:33 ナツ : 昨年の今頃私は初めてEnding Noteを手にしました。薄いノートですが、自分のそのときの気持ちを素直に書いたつもりでした。
その後葬儀のことお墓のことを夫と話し合ったのですが、考え方の相違で平行線の状態です。

いくら望むこと、願うことを書いても、それを受けてくれるかどうかが我が家では問題なのです。
自分の人生の終わりは自分で決めたいと思うのは我侭な事なのでしょうか。
一年前のEnding Noteのことを今日投稿したところでした。

23:15:28 みどり : 人は生まれたくて生まれて来た訳ではない。従って生は運命と規定しました。生まれるにも助けが必要でした。其処から死を考えました。私も若いときは自分の命を自分だけのものと考えていたような気がします。本当に自分だけのものだったのでしょうか。ミルクが無い時代重湯を毎朝毎夕作ってくれたという母や兄、長じては「頂きます」に込められた食糧生産者への感謝。全てが連鎖して命を育てゝくれていました。其れを末期に自分の命と考えるのはどうなのでしょう。残された者の想いはあまりにも痛切で想像を絶しています。どんな理由も自死を擁護してはなりません。神の存在はわかりませんが、人は自分が思う以上に、人の心に食い込んで生きている事を知らなければなりません。自分を死に至らしめる事は、信じて生きている周りの人間の心を圧殺します。老衰しても認知障害が起きてもいいから、傍らにいて欲しいと願う人々を沢山見てきました。生きたかった幼い子どもの命の叫びが聞こえます。多くの人達に支えられた命です。辛くて投げ出したくなる時、どうするかは未だ探る余地は沢山ありますが、基本的には自死を認めたくはありません。

2007.10.23 01:18:15 志村 建世 : 古木さん、おかげで少し頭を冷やすことができました。もう今日になりましたが、お姉さまの命日なのですね。歌声を届けられて、よかったですね。
 ナツさん、Ending Noteを見てきました。ご自分の希望を述べておくのは、大事なことだと思います。話し合いができただけでも、立派です。
 みどりさん、明日は続編で「自殺は尊厳死か」というのを書くつもりでいたのですが、よく考えて出直すことにしました。
 ブログ友の有難さを、しみじみと感じています。

13:19:30 biera : 先日、母が亡くなりました。数ヶ月、目も開けることもなく、指1本自力で動かすことができないまま呼吸器だけを頼りに息を繋いでいました。
そして、最期の数日は本当に苦しそうでした。

自分に置き換えるととても残酷なことに思えました。
それでも、家族は医師に殺してくれとは言えません。
一体、本人にとって何が希みだったのか知ることは出来ません。

自分だったら、やはり殺して欲しいです。
そして、それが叶わないのなら、まだ体が動ける間に自分で死にたいです。楽な死に方があれば。

13:42:45 志村 建世 : 優しいお顔のお母さまですね。今はすべての人間苦から解放されて、あなたの思い出を懐かしんでおられることでしょう。
 「看病ご苦労さま。あなたのときは、お医者さんとよく相談して、いい方法を考えて頂戴。しっかり元気なうちに、死ぬことをどう受け入れるか考えて、誰にもわかるようにしておくといいわね。これからは、たぶんそういう時代ですよ。」

2007.10.24 17:34:07 bando : 自死や自殺というのは、何処からがそうなのかよく考えます。結局いつも答えは見つからずで最近また疑問だけ増えました。今度は何処からが死なのだろうかと。
結局何も分からない私です。

21:07:09 志村 建世 : 臓器移植が可能ということは、人体の部品は独自の寿命を持っていることを示しています。すると統一された「人間」の寿命の限界がぼやけてきますが、私としては、意思の源泉である脳の死を「人の死」とすることは、妥当のように思えます。
 自死の問題は、懸案として考慮中です

(出所:http://pub.ne.jp/shimura/?cat_id=37900)

  脳死は「人の死」として議論が分かれていますので、客観的には三兆候基準でなければなりません。しかし、諸個人の尊厳の問題として、治療拒否の権利が認められるわけです。理由は、1:医療行為には過誤が伴う。2:身体の拘束を伴うからです。本人の意思を抑圧して、身体を拘束することは人権侵害ですし、本人の意思を無視して医療過誤が発生する場合は責任をとることができない。

 他方で、医療は人命を自然の限りに延命する行為であり、人命を自然の死期に先立って断然したり、縮める行為は原則として医療ではない。殺人、自殺幇助、傷害罪になる。鎮痛剤の投与により寿命が縮まるのは原則、医療ではないが激痛のあまり、自殺に及ぶ可能性が高いと判断すれば、利益を比較して鎮痛する行為は妥当。

 患者さんの納得が得れない場合、いかなる医療行為もすることはできないから、医療関係者は説得活動を続けていくことになる。

 なお、本人の意思の確認がない時、医療の原則は人命救助であるので、治療拒否の意思が明確でないなら、延命治療を続行して当然。延命治療を拒否するならば、リビングウィルを残しておくべき。遺書のようなもの
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