西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

蟻に訊きたし 3

2005年12月30日 02時36分42秒 | 小説
 ドームの中には、雨だけでなく、風もない。太陽も雲も月も星も、それらを満たす空もない。そして暑くもなく寒くもない。つまり朝でも昼でも夜でもなく、春でも夏でも秋でも冬でも、そのどれでもなかった。
 その代わりドームの中には、音がいっぱいあった。何万人という観客の声援に占領される一軍の試合の場合と違って、多い時でも二、三百人程度のお客しか入ることのない二軍戦は、とにかく野球のナマ音が聞こえやすい。ベンチやコーチからの指示や野次、プロの選手たちが投げる音打つ音、走る音守る音は勿論、ボールが空を切って飛ぶ音さえ聞こえる。それはもう、野球アニメでも観ているかのような臨場感で、その独特の臨場感を味わいたいがために、足しげく球場に通う二軍戦ファンも多くいる。そしてドームの屋根や壁は、こうしたすべての音を増幅させ、残響音となって木霊(こだま)する。その上ホームチームであるバファローズの選手が登場する度、テーマミュージックが流れ、またヒットやホームランを打つ度、或いはピッチャーが三振を奪う度、いちいち派手なファンファーレが響き渡る。ここまでくれば、それぞれの音は本来の自然な領域を超え、やけに大げさに演技演出された効果音となって、主役であるはずの選手たちの名演技をも、翻弄させてしまっているかのようにもみられた。繁は思った。
「なんや、これ、テレビゲームみたいやないか……」
 一方、派手な演出とは対照的に、観客席は冷めていた。もっとも、バックネット裏のボックス席の背もたれの後ろに仕込まれたエアコンが、効き過ぎていたせいかもしれないが……。繁は、球審のプレイボールがかかる直前、そのバックネット裏に父の姿を見つけた。やはりまた今日も、息子の晴れ姿を観にきてくれていたのだ。ドームという、何もかもがいつもと違う条件の下で、観客席には今日も父がいる。ただそのことだけが、いつもと同じだった。

(続く)

蟻に訊きたし 2

2005年12月29日 03時22分49秒 | 小説
 初夏、繁は大阪ドームのマウンド上にいた。プロの世界に入って二年目。初めてのドーム球場は、夢のような空間であった。しかし確かに夢ではなかった。紛れもなく、彼はそのマウンドに、ピッチャーとして立っていた。
 夏の終わりにはビールジョッキに例えられるであろう大阪ドームという器にも、さすがに昼間は、観客席の一部の飲んだくれオヤジを除いて、アルコールの匂いはほとんどしない。ただ繁が気になったのは、その大きなジョッキの蓋ともいうべき、大屋根を打ちつける豪雨の音だった。「梅雨のフィナーレ」といったところであろうか、ゴーという雨音が時折激しくなる度、思わず天井を仰いでしまう。どうも落ち着かない。だいたい、今朝は一時大雨洪水警報が出ていたというのに、そんな日に野球ができること自体、何かしっくりこなかった。気が付けば、いつの間にか大雨の中をバスに乗って、野球場に向かっていた。しかも二軍とはいえ、プロ野球の試合のマウンドに立つために……。それもこれも、とにかく何もかもが、しっくりこない繁であった。
 五日前、監督に先発を言い渡されて以来、ずっと舞い上がってしまっていた。昨年高卒でドラフト外入団。一年目は養成期間ということでトレーニング中心の毎日。僅かに試合に出たのはシーズン後半。それも敗戦処理程度のが五、六回あっただけだった。しかし今シーズンは、一軍二軍共に新監督が就任したこともあって、ひょっとしたら自分にもチャンスが巡ってくるのでは、と期待はしていた。そして今シーズン。開幕当初はまだ昨年と同じようなリリーフ起用ばかりであったが、繁はそこでまずまずの出来を見せ、こつこつと良い成績も残していた。それが晴れて監督や首脳陣の目にとまり、今回の先発起用となった。でもまさか自分のプロ先発デビューが、大阪ドームになるとは、夢にも思っていなかった。だからこそ舞い上がってしまって、まずそこからして、リズムがくるってしまっていた。おまけに当日はこの大雨。繁が小学校三年の頃から野球を始めて十数年、雨の日に雨に打たれることなく試合をしたことなんて、ただの一度もなかった。雨が降れば試合は中止。替わりに屋内で軽めの練習をして上がる。それが常識だったのに……。体が自然と憶えた常識を、まず否定することから始めなければならなかった。だがドーム球場には、今までの野球の常識―――少なくとも繁の中にあった野球の常識―――を、ことごとく覆してしまうような要素が、まだまだたくさんあった。

(続く)

貧乏ヒマなし?

2005年12月28日 14時08分11秒 | Weblog
昨日はインフルエンザの予防接種を受けた。

長年予防注射は受けていなかったのだが、同居の母が高齢ということもあり、母の為にも念のため昨シーズンから接種をしている。子供の頃から体が弱かったので、注射は何百…、いやひょっとしたら千本を超える注射の経験があるかもしれない私だが、未だに注射は嫌なもので、こればかりは何度経験しても慣れるようなものではない。

注射を受けたこともあり、昼間は安静に過ごしたが、夜は年賀状の印刷…。今年も兄のデザイン画が出来上がるのが遅くて、毎年周りがやきもきイライラしながら、ようやく年末ギリギリになって、やっと印刷に取り掛かることになった。しかし今回印刷したのは、母と兄の分だけ。私の場合年賀状は数年前から、失礼ながらいただいた方だけに出すようにしているので、私の分の作業は、年が明けてからになる。デザインはここ数年と同じで、このブログのプロフィールに使っているようなオリジナル4面相写真。これからその写真のセレクトに入る。今回はどんな写真を選ぼうか…。
年賀状の印刷を終えたのが朝5時半頃。6時過ぎに朝飯を食ってから就寝。昼過ぎには起きて、先ほど昼飯を食った。嗚呼、なんという生活…。

失業から1週間を過ぎたが、やはり年末は忙しい…。いやいや、これこそ貧乏ヒマなしってヤツなのであろうか?
さて…、今夜はどこへ出掛けようかな…?

蟻に訊きたし 1

2005年12月27日 00時00分01秒 | 小説
 ほとんど一日中うるさく聞こえていた、近所の子供たちのはしゃぐ声が、最近少し静かになった気がする。多分、溜まってしまった夏休みの宿題に追われている子が、家で缶詰になっているせいであろう。一方、蝉のコーラスも、それまでのニイニイゼミやアブラゼミに変わって、そろそろツクツクボウシが、リードを担当し始めたようだ。
「ツクツクボウシが鳴き出せば、もう秋だ」と、亡くなったお婆ちゃんがよく言っていたらしい。なるほどそう言われてみれば、夜の空気が少し冷たく感じられるようになったような気もする。確かに、真夏日や熱帯夜の日数から芸能界のゴシップまで、<この夏の総決算!>と称した話題が、新聞、雑誌、テレビやラジオを賑わわせている。そして高層ビルや野球場などといった、大仏様でも使えないようなとてつもなく馬鹿でかい器が、例によってジョッキに見立てられるという、そう、この夏のビールの消費量を伝えるニュースを耳にするのも、恐らくもう間もなくであろう。だがそれなのに母や妹たちは、まだ相変わらず「暑い、暑い」を連発する。季節は、ほんとうにもう秋なのだろうか?
 今年の夏、坂上繁(さかがみしげる)は、あまり暑さを実感することがなかった。なぜなら繁は、この夏の大半を屋内で過ごしてしまったからである。つい昨年まで、殺人光線のような夏の日差しに挑むように大地を駈けていた日々を思えば、今年の夏は極楽であったかもしれない。だが繁にとっては、実際に陽の光を浴びることのない夏なんて、反対に地獄でしかなかった。そして今その夏がようやく終わりを告げようとしているのに、繁は、まだなお地獄の淵に佇(たたず)んでしまっている自分を感じていた。久し振りに帰った実家の縁側に腰をかけ、パチン、パチンと爪を切りながら……。

(続く)

高い高い、そして甘い

2005年12月26日 00時31分40秒 | Weblog
乗り放題の鉄道&バス切符が1日分余っていたので、それを使って遠出をしてみた。

以前から行ってみたいと思っていたのは、大阪府や大阪市の財政赤字の温床として、よくニュースなどで話題になっている、泉佐野の「りんくうゲートタワービル」と、大阪南港の「WTCコスモタワー」のそれぞれの展望台。
まずは「りんくうゲートタワービル」へ行ってみたのだが…、なんと偶然にも、今日を限りに展望フロアが閉鎖されるとのこと。ラッキーと言えばいいのか何と言えばいいのか…。つまりは最後の日のお客になってしまった。まあこう言っては何だが、仕方ないと言えば仕方がない。関空への玄関口としての集客を当て込んだのが、結果的に大失敗。25日のような休日でも、人影はまばら。展望台のお客も、1日に100人を超えることがないという。ビルの高さが256mもあるのに、展望台は120m辺り。まずまず景色はいいのだが、飲食店はないし、飛行機のシミュレーターは壊れているし、ネット体験コーナーの接続速度は遅いし…、あまり目玉となる呼び物がない。私が訪れていた小1時間に広い展望台フロアには、私を含めてお客は6人だけだった。晴天にも恵まれて美しい景色だけは堪能できたが、何とも物足りない、寂しい気分を残しながら、「りんくうゲートタワービル」を後にした。
変わって行ったのが「WTCコスモタワー」。こちらは「りんくう…」と同じ、ビルの高さが256mでも、展望台の高さが252mとほとんどてっぺんに近いところにある。それはもう高いの何の…、眺望も素晴らしかった。その他展望フロアには喫茶店のようなドリンクコーナーもあるし、カップル専用シートもあり、なかなか集客の工夫が見られる。今日も多くの家族連れやカップルで賑わっていた。とは言え、その程度の集客があったとて、大阪市の財政難にとっては正に焼け石に水、といったところなのであろうが…。

ナントカと煙は高いところに上る、という言葉があるが、高所恐怖症であるにも拘らず、このような高い所巡りをしている私のようなナントカは、他にそうはいないと思う。ましてやその高いところで仕事をする人や企業が、そう簡単に集まる訳がない。やはり大阪府や大阪市の考え方が、甘かったとしか言いようがない。

余談ではあるが、帰路デパ地下でクリスマスケーキを買って帰った。これがまた、甘い甘~いケーキだった…。ケーキなら、多少甘くてもいいのである。

素晴らしい眺望の写真を何枚か撮った。私のBBS「カームラ・Kの新南大阪紀行」https://www.eonet.ne.jp/~karmula/bbs/index.htmlにて、紹介することにする。

四緑木星

2005年12月25日 00時26分23秒 | Weblog
私は、四柱推命で言うところの「四緑木星」である。

年末になると、来年の運勢を占う冊子が、新聞集金人らによって配布されてきたり、雑誌などの付録として付いてくることがよくある。
別に私は占いを信じている…、という訳ではないが、やはり人の運勢や未来を予測予知予言などすることは、なかなか面白いものだとは思っているので、こういった占いの冊子が配られてくるのを、実は毎年楽しみにしている。
今年の四緑木星は、運気が低迷していたらしい。そういえば仕事もあまり上手くいかないことが多々あったし、知人や友人の訃報も、例年よりやや多かった。そして年末最後の最後になって事務所を辞めて、とうとう失業状態になってしまった。なるほど今年の運気低迷は、当たっているといえば当たっているかもしれない。
しかし来年の四緑木星はというと、新年早々から運気が開けてきて、その幸運期はしばらく続くのだという。何度も言うが、占いを信じていなくても、このように良いことが書いてあると、やはり嬉しい。是非その通りに、来年こそ好調な年にしたいものである。

占いと言えば、つい2年程前京都に行った際、生まれて初めて占い師に見てもらったことがある。その店は母が60年も前に見てもらったことがある店で、当時母が言われたことで、その後色々と当たっていることが多いと聞いていたので、一度試しに行ってみたという訳だった。
私も色々と言われたのだが、その中で一番気になったのが、婚期。それが平成17年~19年の3年間にかけてあると言うのだ。今年は平成17年、つまりは婚期1年目だったはずなのだが…、今のところそれらしき兆候は見られていない。さて後2年…、果たして占い通り、私の結婚は現実のものとなるのであろうか?どうか皆様にもご注目いただきたい!

本当にくどいようだが、私は別に占いなんぞ、信じているわけではない…、が、ちょっと信じてみたい気もする、年の瀬である。

トイレの魔人

2005年12月24日 03時01分50秒 | 小説
 昨年の秋のこと。近くの小学校で、地域対抗の運動会がありました。うちには子供がいないので、運動会なんてずっとずっと関係なかったのですが、去年は町内会の役員が当たっていたので、仕方なく参加しました。
 運動会では、役員として場内整理などの仕事の他、うちの町内を代表して、パン食い競走や綱引き、リレーなどの競技にも参加。文字通り、忙しく走り回っていました。
 さてそんなさなか、私は久し振りの運動会に緊張したのかどうしたのか、おなかが痛くなってきました。しばらくは様子をみていたのですが、もうどうしても辛抱できなくなってきて、お弁当を食べていたうちの町内会長の奥さんの持っていたポケットティッシュを「これ、ください!」と一方的に奪い取り、そのまま学校のトイレに駆け込みました。トイレの大をする方の個室に慌てて飛び込み、やれやれと用を足していますと、個室の外から「誰や? 誰が入っとんねん?」と言う男の子の声。
 私は昔のことを思い出しました。私が小学生の頃、やはり同じようにトイレでしゃがんでいると、きまって悪ガキどもがやって来て「誰やトイレ入っとる! ウンコしとる! くっさ~。ベンショベンショ、鍵しめた~!」などとはやされ、よくいじめられたものでした。
 いつの時代にも、こんな悪ガキがいるんだなあ、と思っていると、突然ガタンという音がしました。馬鹿なことにその悪ガキは、私の入っていた個室の壁に外から飛びつき、よじ登り始めたのです。どうやら上から覗くつもりのようです。お尻を捲ったままの私は一瞬慌てました。が、すぐに名案が浮かびました。
 申し遅れましたが、私の本業は声のタレントです。数多くのラジオCMに出演し、声だけでいろいろな役柄を演じてきた経歴の持ち主です。
 私はしゃがんだまま、しばらく息を潜めて上を眺めていました。そしてトイレの壁の上からニョキリと腕が出てきて、いよいよその悪ガキの顔が覗こうとした次の瞬間、私は思いっきり低く図太く大きな声で「誰が入っとったかて、ええやないかい!!」と怒鳴りました。するとバタズッテンガッタン、ドッシーン! と、大きな音がしました。どうやら悪ガキは、鬼のような魔人のような、恐ろしい私の声に大層驚き、トイレの壁をずり落ち、床の上に叩きつけられたようでした。
 私はおよそ三十年振りに、いじめっ子に仕返しできた気分でした。あ~スッキリした。


小説、次回はスポーツ人間ドラマ『蟻に訊きたし』をお届けします。

ホームレスへの道?

2005年12月21日 01時48分10秒 | Weblog
ついに事務所を辞めた。これで完全に失業状態になった。

以前から辞めたいという気持ちは抱いていた。それはギャラが驚くほど安かったからである。この事務所に入る前と後を比較すると、確かに仕事の量は多くなったものの、仕事1本についてのギャラは平均5分の1~10分の1に減ってしまっていた。最初に明細を見た時には、さすがに愕然とした。1本の仕事のギャラ金額が、3千円とか5千円とかいう数字ばかり並んでいたからだ。子供のお小遣いでもあるまいし…。1万円を超える仕事は、極僅かしかなかった。始めは、その内ランクが上がって高くなっていくのだろうと思っていたが…、甘かった。結局7年間金額は上がらなかった。
おまけに最近、契約書なるものが郵送されてきた。早速、某専門家に相談してみたが、答えは「疑問だ。不備がある。このままサインしてしまうということは、悪徳商法詐欺にひっかかるようなものだ」と言われた。事務所サイドとしては「形式上」と言ったり「効力はない」と言ったり、何だかハッキリしない説明だったが、その内容は、見るからに正式な専属契約書の形をとっていた。しかし、だからと言って契約金が支給される訳でもなく、月給制になる訳でもなく、歩合制のパーセンテージも具体的に明記されていない。
誠にお恥ずかしいことながら正直に言えば、この事務所から支払われる分の平均月収は、何と1~2万円程度。このままの状態で契約書にサインをするということは、ほぼ自殺行為に等しいことではないかと私には思えたし、絶対に署名捺印してはならないと考え、敢えて退社の道を選んだ。

職を失って、この芸能芸術家的世捨て人研究所の日誌も、いよいよもって真に迫る内容になってきたと言えるかもしれない。まさか、ホームレスの道を歩み出したとは思いたくはないが……。まあしばらくブラブラしながら、今後の対策を検討したいと思う。

静かな夜平和な夜

2005年12月19日 00時41分23秒 | Weblog
隣の住人が引っ越した。
これで深夜のピアノの音も、馬鹿みたいに大笑いする声も、音痴で下手くそな歌声も、風呂場で鼻をかむ音も…、そして猫に対する苦情も、み~んな聞かずに済むようになった。

10数年前のことになるが、特に猫に対する苦情は酷かった。一時期、奥さんが毎日のように我が家のインターホンを鳴らして文句を言いにやってきた。「クルマの上で猫が喧嘩して汚れた。これから掃除する前に見ておいて下さい!」、なんていうのを始め、来る日も来る日も「何とかして下さい!」の連続だった。しかしこちらも負けてはいなかった。「軒裏の蜂の巣を処分して下さい。オタクは蜂を飼ってるんですか!?」とかを始め、子供に関する苦情、路上駐車に対するの苦情…、と随分応戦してやった。噛みつかんばかりに怒鳴りつけてやったことも何度かあった。ある時、どうも私が怒鳴りつけたのが原因で、隣家で仲間割れの夫婦喧嘩が勃発。危うく離婚の危機に発展しかけたこともあったらしい。
まあ20数年間の付き合いの中で様々なことがあったが、とにかく隣家の家族がいなくなった。ハッキリ言ってせいせいした。ようやく何かホッとした感じだ。
既に隣家は次の入居予定者が決まっているようで、空家になっているのはほんの束の間らしいのだが…。

例え束の間とはいえ、これだけ静かな夜を迎えられたのは、果たして何年ぶりのことだろうか?イヤハヤ本当に平和な夜だ……。シ~~~ン・・・・・・。

ワラ人形は使っていない

2005年12月15日 02時27分49秒 | 短歌
 「そんなことしてたらいつか酷い目に…」思っていたら殺されちゃった
 クマちゃんのシャッターにある「廃業」の貼り紙悲し店主殺さる

駅前の薬局が廃業閉店して、2ヶ月が経った。シャッターに描かれていた動物たちの絵も、最近になって消されてしまった。

この薬局が開店したのは、今から10数年前。始めは若いご夫婦二人だけで営む、小ぢんまりとした店だった。ご夫婦はいつも明るく心安い人柄で、私もよくこの店を利用していた。薬の配達もしてくれたし、ご夫婦に赤ちゃんが誕生した時には、美味しい酒も少々進呈したりもして、割と親しい付き合いをしていた。そして数年後、店は近くに建設されたマンションの1階テナントに入り、規模も大きくなり、バイトやパートの従業員も増えた。
ある時、「アルバイト募集」の貼り紙を見た私は、「私はダメでしょうか?」と店主に聞いてみたのだが、「男性はちょっと…」とあっさり断られてしまった。そしてその後の店主の言葉が、やや気に食わなかった。「何でそんなことになってしまったんですか?」。バイトをすることは「そんなこと」と言われるほど、惨めなことなのだろうか?たぶん私が、タレントとして大成功しているように思われていたのであろうが…。
それから数ヵ月後、病院帰りの母がこの店に寄った際、ポイントカードの暗証番号を言い遅れて、レジの女性に「先に言うて欲しかったわ!」ときつい言葉を吐かれたと言って帰宅した。それを聞いて立腹した私は、早速店主に電話で苦情を言った。「いったい何のための会員なんですか?オタクとは今までどんな付き合いしてきたんですか?!」と…。翌日店主から詫び状が届いた。「今後は従業員の教育を徹底させます…」と書いてあったが、その事を境に私たち家族は、その薬局を二度と利用することはなかった。その後も店主は、駅前で私に会う度会釈をしていたが、それでも私は店には行かず、そうして10年近く経っただろうか…?
今年の10月始め、店主は殺害された。あの時詫び状に「従業員教育を徹底させる」と書いていた店主は、店の元アルバイト従業員によって刺し殺されたのだった。私は大きなショックを受けた。

私は、決してこの店主を恨んでいた訳ではなかった。だが多少の嫌悪感を抱いていたのは事実である。そして最近、以前から私が嫌悪感を抱いていた人たちが、病気や事故で急死するといったケースが周辺で相次いでいる。「俺に嫌われたらロクな死に方をせんぞ!」と言っていた冗談も、もう冗談でなくなってきて、いささか自分が恐ろしくも感じる。中には「あの人を恨んで」という申し出もあるが…。

別に私は、人の恨みを晴らす必殺仕事人でもなければ、ワラ人形も使ってはいない…。