西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

近鉄橿原神宮前駅

2008年04月30日 14時11分00秒 | ステンショから
 近鉄南大阪線&吉野線「橿原神宮前(かしはらじんぐうまえ)」駅。

 初めてこの駅を利用したのは、確か昭和50年代半ば以降のこと。河南町の大学に入学し、その後京都にいた家族も羽曳野に引っ越してきた頃、最寄りの「神宮」と呼ばれる大きな神社へ初詣に出かけた。それが橿原神宮であった。

 以来、毎年正月には、なるべく橿原神宮へ初詣に行くようにしている。
 最初は両親、兄、私の家族4人で出かけていた初詣も、やがて父が死んで、母も高齢で出不精になり、おまけに兄までが数年前から骨折治療中ということで、近年は私一人で参拝することも多くなっていた。

 そして昨年、一月一日。朝、役所で入籍を済ませた後、その足で早速、夫婦に成り立ての二人で橿原神宮に参拝した。また今年も何とか、二人で行くことが出来た。

 そんな訳でこの駅と言えば、利用目的は初詣以外にはなかったのであるが、昨年夏、眩暈に襲われた際、友人に専門医のいる医院を紹介してもらい、以来通院時も、この駅を利用している。


 個人的には、もうそろそろ「初詣の為だけの駅」に戻したいと思っている、今日この頃である。

橿原市のフタ

2008年04月30日 09時40分00秒 | マンホール
 奈良県橿原市(かしはらし)のマンホール。

 亀の子柄の真ん中に、市章がある。

 市章は「橿原」の頭文字「カ」を表象。上部分の羽根の形は、同市にある橿原神宮に祀られている初代天皇、神武天皇縁の鳥、鵄(トビ)の雄飛を表し、下部分の円形は、融和と平和を表す。
 平和に発展する、古代文化の都を表現しているのだそうだ。昭和31年9月5日制定。(橿原市公式ホームページ参照)。


 2008(平成20)年4月26日(土)午前、橿原市久米町で撮影。

MEGADORA

2008年04月27日 18時03分00秒 | グルメ
 以前このブログで「ちくわパン」を紹介した。

 その正しくチャレンジャーメーカーと呼べるフジパンが、またまたこんな商品を出した。

 それが、「MEGADORA(メガドラ)」!

 端的に例えれば、あのお馴染みのメガマックの、ドラ焼き版みたいな物である。

 しっとりとした生地の美味しいドラ焼きの間には、ミルクホイップとクリーミーホイップレーズンバターと粒あんが、たっぷりと挟んであって、なかなかのボリューム感。甘~~~い、のなんの!!

 いくら甘い物好きの私でも、食後、軽い頭痛を覚えてしまった程で、数日後、またスーパーで見かけた時には、さすがに手が出せなかった。しかし……、どうやら売れ残ってしまったらしく、翌日割引シールを貼られてワゴンセールされていたのを見て、なんだか可哀想になって、結局また買ってしまった。でも……、2度目は、もう頭は痛くならなかった。これって、ヤミツキってやつか?

 さっきフジパンのホームページ「おいしいネット。」を見てみた。

 「MEGADORA」は、どうやら関西中四国地区と九州地区の、西日本限定発売らしい。しかも「今月の新商品」。


 もしかしたら、来月はもう食べられないのかな? そういや最近「ちくわパン」見ないしなぁ?

私は昔、聖火を見た

2008年04月26日 19時09分00秒 | Weblog
 1964(昭和39)年。私は、京都市東山区山科(現在の山科区)に住んでいた。

 ある日、母が「聖火を見にいこう!」と、4歳だった私を連れて出かけた。その年開催された、東京オリンピックの聖火リレーを、私に見せる為に……。

 当時、聖火ランナーが走るコースは、一般には報じられていなかったようだ。しかし、学校には事前に知らされていたであろうことを察した母は、恐らく沿道へ声援を送りに向かうらしき小中学生達を見つけ、列を成して歩く彼らの後を付けるように、私の手を引いて北へ向かって歩いた。

 多分、30分以上歩いただろうと思う。今から思えば、4歳の子供がよく片道30分も頑張って歩いたものだ。それだけ、子供心にもオリンピックの聖火に対して、興味津津だったのかもしれない……。
 そうして到着したのは、府道143号線。京都薬科大学前を通る、通称三条通り。

 沿道で今か今かと待っていると、何台かの白バイやらパトカーやらの車列の後に、いよいよ聖火ランナーが走ってきた。
 トーチの赤い火より、もうもうと噴き出す白い煙が印象的だった。すぐに辺り一面の空気が、真っ白に煙ってしまった。
 気がつくと、私の目の前を通り過ぎたランナーが、何故か沿道の建物の中に消えていったことを憶えている。

 後に母に聞けば、あの時、聖火を受け継がれた次のランナーが東へと走り去り、それまで走ってきたランナーが、まだ火が点いたままのトーチを持って、建物へ入っていったのだという。今のトーチと違って、昔のトーチは燃料が燃え尽きるまで、火が消せなかったのだそうだ。

 少しばかり煙に巻かれてしまった、私のオリンピックの聖火の思い出ではあるが……。
 それでもその後数年は、棒キレや丸めた新聞紙を高くかざしながら走るという、聖火ごっこをよくやったものだ。


 さて……、今日の長野での聖火リレーを見た子供達は、将来どんな風に、その思い出を語ってくれることであろうか? いささか心配である。

近鉄喜志駅

2008年04月26日 12時48分00秒 | ステンショから
 近鉄長野線「喜志(きし)」駅。

 初めてこの駅を利用したのは、1980(昭和55)年2月。大阪芸術大学を受験直前、父と二人で下見に来た時だった。
 同年同大学入学後28年間(高松在住の一時期を除き)、ずっと現在に至るまで、最寄り駅として利用している。
 恐らく、生まれてからこの方、一番多く利用してきた駅であろう。

 「喜ぶ」に「志(こころざし)」と書いて「喜志」。友人の誕生日にこの駅の入場券をプレゼントなぁんて、昔はそんな気障な真似をしたこともあった。


 私の様々な思い出が、いっぱい沁み込んだ駅である。

喫茶ペニーレインの名残

2008年04月25日 18時52分00秒 | Weblog
 実家で、ちょっと古い写真を見つけた。恐らく、10数年前の写真かと思われる。

 我が家の最寄り駅で、大阪芸大の最寄り駅でもある、お馴染みの、近鉄長野線「喜志(きし)」駅。富田林、河内長野方面への1番線ホーム北端から、北西側の風景を撮ったもの。

 線路脇に、喫茶「ペニーレイン」の縦型看板が見える。
 だがその「ペニーレイン」も、既にこの時にはもう無い。あの店のあとには、魚屋が入っていた。すぐ後ろに、青地に赤い文字で「魚の海…」という看板が見える。確か「魚の海伸」だったように思う。

 魚屋は、その後ベーカリーショップとなり、今現在は美容室になっている。
 隣は化粧品屋だったんだな……、忘れてた。今は学習塾が入っている。

 「ペニーレイン」の看板も、さすがにこの数年後には下ろされた。


 それにしても「ペニーレイン」なんていう名前の喫茶店(カフェちゃうで!さてんやで!)……。大阪芸大OBOGならずとも、ある程度の年代なら、誰しも懐かしさを覚える名前ではないだろうか……?

玉子屋さんがやってくる

2008年04月25日 14時28分00秒 | グルメ
 毎週金曜日の午後、実家の前に1台のトラックが停まる。

「毎度有り難うございます。こちらは○○鶏卵です。本日も生み立ての玉子を、只今より販売さしていただきます。養鶏場直接持ってきております、新鮮な玉子でございます。生でお召し上がりの方は、どんどんお召しになって下さいませ……」

 てな具合に、スピーカーから小父さんらしき大きな声が響き渡る。

 トラックを運転してきたのは、もう60歳を過ぎたと言う鈴木さん。奈良の生駒にある養鶏場から品物を仕入れ、トラックを借り、中河内から南河内辺りのあちこちを回る行商人さんである。
 鈴木さんが営業するのは、月曜から金曜までの週5日間。全部で40~50ヶ所で停車して、販売しているのだそうだ。

 仕入先が養鶏場ということで、新鮮な地玉子が一番の売りだが、その他、塩干物、野菜や果物、漬物、牛乳にお菓子まで、食料品の品揃えもなかなか充実している。

 大阪でもこの地域には、まだまだ近所にスーパーも商店街もない、不便な場所が多々あるので、特にお年寄りや、小さな子どもに手が離せないママさん達にとって、こういった行商人さんの存在は、大変有り難く大助かりだ。

 生駒の養鶏場では、毎朝鈴木さんのような行商人さん達が、30人程で行列を作って品物を仕入れ、それぞれが受け持つ地域へと、今日もトラックを走らせているという。


 さて、皆さんがお住まいの地域には、どんな行商人の方がいらっしゃいますか?

近鉄今里駅

2008年04月25日 02時10分00秒 | ステンショから
 近鉄大阪線「今里(いまざと)」駅。

 19日(土)に妻と二人で布施駅周辺を散策した後、徒歩で鶴橋を目指すも、途中で便意を催し、急遽計画を変更。「今里」駅のトイレに駆け込んだ。

 スッキリした後、この駅から乗車し「上本町」へ。造幣局桜の通り抜けへと向かう……。


 今のところ、後にも先にも「今里」駅は、その一度きりしか利用していない。全くこの駅には、行き成り思いもよらぬ思い出を作ってしまったものである……。

大阪市のフタ

2008年04月24日 22時23分00秒 | マンホール
 大阪府大阪市のマンホール。

 真中に市章の澪標(みおつくし)。
 澪標は、昔の水路の標識。
 水の都大阪に親しみがあり縁の深い澪標が、1894(明治27)年4月に、市章となった。(大阪市公式サイト参照。)
 ちなみに明治27年とは、日清戦争が始まった年。


 2008(平成20)年4月19日(土)午後、大阪市東成区で撮影。