・手の白き労働者こそ哀しけれ。
国禁の書を
涙して読めり。・
「黄昏に」(1912年・明治45年刊)所収。
石川啄木の第二歌集「悲しき玩具」出版を手助けし、共同で雑誌を作るのを企てたことで知られる土岐善麿。この一首は、青年時代の作品である。
一首のポイントは三つある。「手の白き労働者」「国禁の書」それを「涙して読む」。「手の白き労働者」は作者の自画像だろう。「国禁の書」とは、労働運動関係の書物か。「涙して読む」とは、自分がインテリゲンチャであり、労働運動に入っていけないことへの悲しみと僕は考えている。
作品が詠まれた時期の出来事を思いつくままあげてみると、
・1900年(明治33年):幸徳秋水、日露戦争を直前にして「非戦論」を「万朝報」に発表。
・1901年(明治34年):安部磯雄らの社会民主党結成。(即日禁止)
・1902年(明治35年):呉海軍工廠の職工らストライキ。
・1903年(明治36年):内村鑑三ら「万朝報」で日露戦争反対論を展開。
・1904年(明治37年):平民新聞に「与露国社会党書」掲載。
・1907年(明治40年):足尾銅山ストライキ。
などなど。
生活派・石川啄木とは肝胆相照らす仲だっただろう。土岐の作品も、明治という時代の一つの側面をよく捉えていると感じる。
島田修三の著書にこうあった。
「ある歌人の出版記念会の場で、さかんに野次を飛ばしている老人がいた。それが土岐善麿だったのである。石川啄木の親友が何でここにいるんだ、と一瞬戸惑った。」
また佐佐木幸綱は言う。
「私には元気で長生きの土岐先生のイメージが強いが、短歌の世界では、若山牧水、北原白秋の同級生、石川啄木の親友して知られている。・・・労働、経済といった視点を短歌史に持ち込んだ・・・幸徳事件前後の緊迫した時代背景のもとでの彼の志向を読みとることができる・・・。」(「NHK歌壇」2000年3月号)
そう、土岐善麿はジャーナリストであり、後に早稲田大学で教鞭をとり、大学図書館に蔵書も寄贈している。
土岐善麿が北原白秋の同級生ということは、斎藤茂吉とも同世代でもあるということ。。歌壇は何と稔りの多い時代だったのだろうか、と思う。