・知床の白き海よりてりかへす光のなかにしばし憩ひき・
「冬木」所収。1962年(昭和37年)作。
佐藤佐太郎の第8歌集「冬木」の冒頭に「オホーツク33首:3部立て」があるが、その1にあたる「氷海(宇登呂行)」と題する14首のなかの1首。特徴は結句の「しばし憩ひき」だろう。
なぜなら、あとの12首は叙景歌で作者は登場しない。勿論、「氷海」を見ている作者がいるのだが、直接は詠いこまれてはいない。その点この1首は「憩ひき」と作者が登場する。しかも「光のなかに」である。
眩しいばかりの照り返しのなかで、言葉を失っている作者がいる。「絶句」という言葉がふさわしいだろう。それほどの迫力があったに違いない。
佐太郎の自註。
「まばゆい白の中にほんとうは『憩ひ』はない。私が『しばし憩ひき』といったのは、それもうそではないが、そう言ってその中に身を置いたことを現わしたかった。」(「作歌の足跡-海雲自註-」)
人間の感情は複雑である。厳寒の緊張感のなかにあって、ほっとする一瞬があったのかも知れない。だがそうなら、ここは「わが身置きたり」の方がよい気もする。「しばし」と時間の経過を入れたかったのかも知れない。おそらくそうだろう。
しかしそれによって、やや緊張感が薄れたところも確かにある。ここが難しいところだが、そのせいか、佐藤志満編「佐藤佐太郎百首」にははいっていない。
「氷海」14首のうち、12首は叙景歌と言ったが、あとの一首は次のもの。
・さかひなく陸より海となる雪のつづきのところ何かこちたし・
問題は結句。「何か・こちたし」か「何・かこちたし」か。前者なら「何か・ことごとしい」「何か・おおげさである」となり、後者だと「何を・嘆いているのか」となる。僕は後者だと思う。前者ではいかにも無味乾燥だ。いずれにせよ叙景歌のなかに主観が詠みこまれているのは、一連のなかでの特徴ある一首だ。
「何嘆くべし」「何を嘆くか」とする方法もあるが、これだと擬人法が目立ち過ぎて、わざとらしくなる。佐太郎も苦心したのだろう。結句の文語表現が何かピタリと来ないところがある。「そこはかとなき青のたつまで」の一首には比ぶべくもない。
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