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岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

斎藤茂吉・佐藤佐太郎の歌論を現代に活かす:「星座α」第3号作品批評

2011年11月19日 23時59分59秒 | 作品批評:茂吉と佐太郎の歌論に学んで
「星座α」(連絡先:03-5498-0452:島田)。「佐藤佐太郎の心を継ぐ」という趣旨で創刊された。茂吉・佐太郎の業績に「新」を積むのを作歌の目標としている僕が、創刊と同時に入会したのは、当然過ぎるほど当然だった。

 だから「星座α」誌上で作品批評するときは、茂吉・佐太郎の歌論を紹介しながら書く。それが「茂吉・佐太郎の歌論を現代に生かす」ことに他ならない。

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 作品批評「美しく詠む・一瞬を詠む」

 「美しくなければ芸術ではない」とは左翼の闘士坪野哲久の言葉。佐藤佐太郎もまた屎尿の匂いさえ美しく詠みました。「あの時は臭かったぞ」と豪快に笑ったと聞きました。

   (ビル街に咲く紫陽花を詠った作品)

   (橡の花の花房を詠った作品)

   (炎天に咲く赤い花を詠った作品)

 美しい情景が浮かびあがります。情景とは「心の景」すなわち「こころの形」。

 同時に佐太郎の「純粋短歌論」の特徴のひとつは、空間と瞬間との切りとりです。

   (小糠雨の降るもとに咲く紅の薔薇の歌)

   (傘を打つ雨の重さにたじろぐ歌)

   (新緑の中で闘志をかきたてる歌)

 見過ごしがちな一瞬を切りとること、そこに主観が表現されることに注目したいと思います。

 また、短歌を文学と考える場合、自己凝視や他者との関わりをどう詠むかが、一つのポイントとなります。

   (照れながら相手と向かい合う自分を詠う歌)

   (岩になりたい自分を詠う歌)

   (目に見えぬ傷を生きた証と考える自分を詠う歌)

 これらは自己表現の作品と言えますが、次に他者との関わりを詠んだ作品を。

   (家の前に植えたハーブ、道行く人が積んでいくだろうかという作品)

   (若い子とともに古い台所に立つという作品)

   (雑踏に見知らぬ人から声をかけられ自分と似た顔があるらしいという作品)

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 僕はこの批評の書き方を毎回変えている。一首ずつ批評することもあれば、今回のようにまとめて批評する場合もある。

 それぞれ茂吉・佐太郎の歌論のテーマの一つを実作で紹介すると決めている。歌論と実作は切り離せないと考えるからだ。

 何をテーマにするかは、その月の作品による。あらかじめ決めてかかるのでは意味がない。

 斎藤茂吉の歌論と実作。そしてその発展としての佐藤佐太郎の歌論と実作。これらは「棚」に置いて崇めるものではなくて現代に生かし、実作を以て応えるべきものだと思う。

 亡き今西幹一は「斎藤茂吉抜きに近代短歌は語れない」と言い、佐藤佐太郎は「岩波現代短歌辞典」(岡井隆監修)のなかで引用歌が最も多い。それらから21世紀の短歌が学ぶことは少なくないはずだ。結社の違いを越えて。

 その岡井隆は、

「斎藤茂吉を短歌の導きの杖にする」という。(岡井隆著「歌を創るこころ」)

 岡井と茂吉では随分作風が違うと思うが、「45歳の時」「現在」も同じスタンスだそうだから、どこか地下水脈でつながっているのだろう。








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