岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

「星座α」14号作品批評

2017年07月13日 13時48分49秒 | 作品批評:茂吉と佐太郎の歌論に学んで

人間や社会を見据えて


 (書き散らす短歌手帖を見て自分の過去を振り返る歌)


 自分の生き方を深く見据えた作品である。作者は手帳に作品を書き留めている。手帳が何冊にも及べば、それがそのまま作者の生(いき)の軌跡を表すことになろう。



 (義母の遺骨を胸に抱く歌)


 遺骨。時がたてばコンクリートの塊のように乾く。一首は骨あげの直後なのだろうか。亡き人がまるで生きているように遺骨にぬくもりがある。死者への愛惜の念が感じられる。



 (シュレッダーに10年分の書類を刻む歌)


 手許で刻まれてゆく書類。その一枚一枚に作者の過去10年の体験や心象と結びつくはずだ。書類は作者の生そのもの。それが刻まれてゆくとき作者は何を思ったのだろう。



 (エスカレーターが期間を繰り出す歌)


 連続するエスカレーターの動き。そこに作者は時間の動きを連想した。次々と時間が生成されてゆく感覚だ。下の句の表現に独自性がある。擬人法だが、それほど気にならない。


 (過去に過ちを言ったことに気づく歌)


 「夜の川を渡る」ここが上の句の心情とマッチしている。忸怩たる思いが作者の心をよぎる。それが重すぎずに自然に表現できた。


 (辻斬りが現れそうな夜の参道を歩く)

 (地軸がずれる思いしてこの世の何かがおかしいと嘆く歌)


 紙数の関係で批評が出来なかったのでここで批評しておく。二首とも比喩に独自性がある。比喩は間接的な表現だが、独自性のある比喩は作品を引き立てる。何よりも物事を言い当てている。それでいて新しさがある。だが反対に平凡な比喩は一首を駄作にする。



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