goo blog サービス終了のお知らせ 

岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

なぜ「日華事変」でなく「日中戦争」なのか

2011年08月24日 23時59分59秒 | 歴史論・資料
斎藤茂吉は遺歌集の「つきかげ」を含めて17の歌集を出しているが、そのうち「白桃」「暁紅」「寒雲」「のぼり路」が戦争中発行されたもので、そのうち「白桃」「暁紅」「寒雲」は「戦中三歌集」と呼ばれる。(岡井隆著「茂吉の短歌を読む」)収録作品の制作年代は1933年(昭和8年)から1940年(昭和15年)。

 この時期の一番大きな事件は、盧溝橋事件に始まる「日中戦争」。1970年前半までは「日華事変」と呼ばれていたが、この変化には歴史学の進展の結果があらわれている。

 まず「事変」と「戦争」の違いから。ともに軍事衝突だが規模、範囲、被害の大きさといった実態が違う。「事変」はどちらかと言うと「地域的に限定された小競り合い」という感がある。

 また「事変」の場合、現地での早期解決が図られるのに対し、「戦争」は特に第1次世界大戦後は国家同士の総力戦となり、国際法上、第三国からの輸入が出来なくなる。また「戦争放棄」を規定したパリ不戦条約に抵触する。

 さらに形式上の問題で言えば、相手国への最後通牒、宣戦布告というものを経る必要がある。最後に日本に限った問題として、大本営の設置・天皇の勅令を受けた日本軍の指揮官(陸軍参謀本部総長や海軍軍令部長)の命令(奉勅命令)が必要となる。

 さて「日華事変」か「日中戦争」かの問題。

 満州事変が関東軍の謀略だったことは史料・証言の一致によってもはや動かし難い事実。「中国軍の満鉄の線路爆破」と日本軍・日本政府ともに発表したが、「爆破」のあったとされる時刻の直後にその場所を列車が通過しているのだから、いまとなっては隠しようがない。関東軍参謀は石原莞爾と板垣征四郎。「満州民族の独立」を名目に清朝の宣統帝溥儀(愛新覚羅溥儀)を執政とする満州国という傀儡政権を作って早期解決が図られた。まさしく「事変」だった。1931年(昭和6年)。

 1937年(昭和12年)の「日華事変」はどうか。現地軍は早期解決・自治政府樹立を企図していたから、「事変」にしたかったらしいが、政府(第一次近衛内閣)は初戦の勝利を見て、「不拡大方針」を言いつつ軍の増派を決定した。「不拡大・早期解決」は軍の大量投入によって中国軍を一挙にたたくというもの。軍も一枚岩ではなくこの決定には軍中央の中で、強硬論と慎重論とのあいだで激論が行われたが、結局、関東軍から二個混成師団・朝鮮軍から一個師団・内地より三個師団と航空部隊の投入が決定された。杉山元陸軍大臣を始めとする陸軍省の主導だった。は杉山元不拡大とはいうものの中国側が無反省ならば機宜の措置をとると、これを機に華北への一層の進出をはかろうとするものだった。(藤原彰著「日中全面戦争」) このときの政府・軍部の戦争指導の不統一については、古屋哲夫著「日中戦争」と大江志乃夫著「日本の参謀本部」に詳しい。例えば次の通りだ。

「参謀本部内に意見対立をかかえ、少数の部長が正面にでなければならない状況では、(強硬派の)陸軍省を説きふせることはできなかった。スターとして個人プレーを演じてきた石原(莞爾=当時・参謀本部作戦部長)には、参謀本部の見解を統一する力量、つまり組織的に運用する能力が欠けていた。」(「日本の参謀本部」)

 次に戦争の実態。戦闘期間は1937年(昭和12年)から、1945年(昭和20年)の8年間に及ぶ。日露戦争が約一年半だったのとは比較にならぬほどの長期戦だった。
 
 投入兵力は23個師団・85万人(1938年末の時点)。満州には8個師団35万人を置いており、戦争の全期間を通じてほぼ100万の兵力を常時中国におくっていた。日露戦争は17個師団40万人と比べ、その2倍以上である。

 また大本営は1937年11月に設置された。近衛文麿首相の強い希望だった。奉勅命令はこれに先立つ7月27日に出された「平津地方の支那軍を膺懲(こらしめる)して同地方主要各地の安定に任ずべし」。(江口圭一「二つの大戦」)

 翌1938年1月には御前会議が開かれ「国民政府を相手にせず」という決定がなされた。この会議で昭和天皇は終始無言だったが、これは天皇に責任が及ばぬようにとの内大臣木戸幸一の助言に基づくもの。しかし、その会議の直前に交渉継続を求める参謀総長と、交渉打ち切りを求める首相が相次いで天皇への奏上を求めたが、昭和天皇は、参謀総長に先に会うのを退け首相に先に会い、ここで事質上会議の決定がなされた。(藤原彰・吉田裕ほか著「天皇の昭和史」)

 戦争の見通しについては次のようなもの。

「杉山元陸相が事変は二ヶ月で片づくと天皇に上奏したり、戦線が拡大したのちも参謀本部では< 南京を占領すれば国民政府は抗戦を断念する可能性が多いと判断 >」していたのも安易な見とおしに立っていたからであった(「昭和史・新版」)というお粗末なものだった。

 また正式な宣戦布告はなかったものの、事質上の宣戦布告(「日本の参謀本部」)は出されている。

「帝国としては最早隠忍其の限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。」(1937年8月15日・帝国政府声明)

 先程の奉勅命令の全文は五味川純平著「戦争と人間」の資料編と映画化された「戦争と人間・第二部・愛と悲しみの山河」(山本薩夫監督)に紹介されている。(史料監修・澤地久枝)


「昭和13年9月27日

 奉勅

 支那駐屯軍司令官ハ平津地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方ノ主要各地ノ安定ニ任スベシ

    参謀総長閑院宮載仁」


 もはや「事変」ではない。「日中戦争」である。政府と軍が「事変」と言い張ったのは、国際法上の「戦争」となると第三国からの軍需品・軍需資材の輸入が困難になるためであった。だが実態は「戦争」というのが正確なところだろう。これが歴史学の成果だ。だからもし、「支那事変」「大東亜戦争」など当時の呼び方で叙述してある書物があったら、それは歴史学の学問的成果を知らないか、無視した書物と言わざるをえない。歴史学は単に事実の集積をする学問ではない。

 とにかく天皇の名で戦争は始められた。それを止められるのは天皇だけだった。ずるずると先の見通しもない「泥沼戦争」の始まりだった。軍の暴走というより、軍の一部の暴走を、政府と宮廷グループ(内大臣・侍従長ら)が積極的に利用し、それを唯一とめることのできた天皇がとめようとしなかったのである。(藤原彰著「天皇制と軍隊」)


 この戦争で斎藤茂吉は膨大な戦争詠(時事詠)を発表し、戦後責任を問われる。それがまた占領政策の転換(冷戦激化・朝鮮戦争)によって、茂吉は「国民歌人」としてまつりあげられる。

 塚本邦雄はこの戦争中の茂吉を「茂吉混沌」と呼ぶ。(「茂吉秀歌・白桃~のぼり路・百首」)

「いよいよ< 国体明徴 >の合言葉が高圧的に押しつけられ、敵性語がその筋の神経に触って、すべて日本語に改正< 悪 >を迫られつつあった。・・・しかも作者自身がことわるまでもなく、たとへば、この4歌集(=「白桃」「暁紅」「寒雲」「のぼり路」)における、あまりにも程度の低い、地歌とも思へぬ凡作の混入は、愛相の尽きる思ひがする。にもかかはらず、その大凡作あってこそ、マリア・グレナダもアナクレオンも精彩を加へる不思議、これこそすべての歌人の、以て範とすべきところか。」(同書・跋)

 この見方は岡井隆が永田和宏・小池光とともにひらいたジャムセッションで発言した内容と同じである。(岡井隆ほか著「斎藤茂吉-その迷宮に遊ぶ-」)


*付記:参考文献・江口圭一著「二つの大戦」、藤原彰著「日中全面戦争」「天皇制と軍隊」、古屋哲夫著「日中戦争」、藤原彰・吉田裕「天皇の昭和史」、遠山茂樹ほか著「昭和史・新版」、大江志乃夫「日本の参謀本部」、井上清著「天皇の戦争責任」。




最新の画像もっと見る