岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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不思議な感覚の歌二首:佐藤佐太郎の短歌

2012年01月08日 23時59分59秒 | 佐藤佐太郎の短歌を読む
・スフィンクスの如き形をしたるもの夕暮の街をひびきて来(きた)る・

「帰潮」所収。1947年(昭和23年)作。同歌集の「補遺」に収録されている。


・ひとしきり乳色に窓かがやきてかたはらに愚かなる猫が居るのみ・

「帰潮」所収。1946年(昭和22年)作。

 
 佐藤佐太郎の第5歌集「帰潮」から二首。この歌集は「純粋短歌論確立期」にはいるとされる歌集。「純粋」というのは政治スローガン的なもの、特定の宗教活動に直結したものを「第二義的なもの」と排し、心情の深い切りこみを目指したもの。叙景歌にしろ、心理詠にしろ、作者の情感を普遍的な形で表すのを特徴とする。

 それが戦後の一時期、「思想がない」「主題がない」などと批判されたが、批判した当事者の作品は残らなかったのに対し、佐太郎の作品は、例えば「岩波現代短歌辞典」(岡井隆監修)の中で引用歌が一番多いなど、表現領域が広く、語彙も豊富。ここから学ぶことは多い。

 その佐太郎の作品の中で、この二首は「不思議な感覚」の歌である。「写実派」でありながら、「写実短歌」らしからぬ作品なのだ。

 一首目。下の句はわかる。問題は上の句。「スフィンクスの如き形をしたるもの」とは何だろう。僕は夏の積乱雲と感じた。ここ何年か、首都圏では感じないが、昔は夏になると積乱雲が垂直に発達して、夕方になると遠くから雷鳴が聞こえ始め、やがて夕立ちがザッと降ったものだった。近年の「ゲリラ豪雨」とは違う、ザッと降ってピタリと止む雨だ。

 その直前の積乱雲は「入道雲」という名にふさわしく、垂直方向に大きく成長している。雷の音も近付いてくる。それが「スフィンクスの如き形をしたるもの」だろう。佐太郎には珍しい表現だ。これが「帰潮」に何時、追加されたか今判断する材料を持ち合わせていないが、多分「前衛短歌」を意識したものだと僕は推測する。

 モダニズム短歌、プロレタリア短歌の台頭に対して、斎藤茂吉が機上詠で応えたようにである。


 二首目。「乳色(ちちいろ)に輝く窓」とは何か。「愚かなる猫」とは何か。「窓」のほうは、歌会の輪読で「すりガラスだ」「結露した窓だ」「いや結露したら輝かないだろう」と議論百出だった。当時の背景をよく知る人の著作によれば、「曇天(=曇り空)を透明なガラス窓を通して見ている」とあった。そう考えれば、窓は乳白色に輝くだろう。

 次の問題は「愚かなる猫」。生物学的に言えば猫に愚かも何もない。おそらく作者の葛藤や心情にかかわりなく、所在なくいる猫を表しているのだろう。これが佐太郎の詩的把握、主観である。

 写実ではあるが「客観写生」ではなく、心情、主観を詠み込む。これが従来の「写実派」になかった特徴だ。斎藤茂吉にもこういった傾向はあったが、佐太郎はそれを受け継ぎ、「新」を積んだ。土屋文明の「写実」(=新即物主義・リアリズム)とはかなり開きがある。

 僕はこれを「客観・主観の一体化」と勝手に呼んでいる。

 写実短歌=「客観写生」と決めてかかって読むと、難解歌の部類に入れられてしまうだろう。実はそこがこの二首の魅力なのだが。




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