岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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氷のように寂しむ歌:斎藤茂吉の短歌

2011年08月12日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・山のうへの氷のごとく寂しめばこの世過ぎなむわがゆくへ見ず・

「白桃」所収。1934年(昭和9年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」179ページ。

 先ず茂吉の自註から。

「現在自分の心の寂寥は高山の上の氷の寂寥のごときものであらうか、その茫々冷酷なる氷原のごとくに、生(せい)の方嚮(ほうこう)もない、光明も慰藉(いしゃ)もない、といふほどの歌で、< ごとく >といふ語を余り使ひたくないのだが、かはるべき善い語がないのでその儘にした。声調に思想的抒情詩としての肝腎を蔵して居るやうに思って棄てがたい歌である。」(「作歌40年」)

 直喩(ごとく)を使う場合、安易・常識的になり易いので「ここは」という時に以外は避けるという態度だ。これは佐太郎のも受け継がれ、「ごとし」を使うのを厳しく戒めたという話が佐太郎門下に伝わっている。その一方「< ごとし >は極意なんだなあ」「< ごとし >はそれ以外表現方法がない時に使え」という佐太郎の言葉が伝わっている。(尾崎左永子・川島喜代詩)

 たしかにそうだ。直喩を使えば楽ができるという面が否定できないので、初心者が多用するのをよく見かける。時には一首の中に、ふたつも「ごとし」があって癖々とした経験を僕もしたことがある。

 塚本邦雄はこう言う。(「茂吉秀歌・白桃~のぼり路・百首」)

「< 山のうへの氷のごとく >は、めりはりの強い、大業(おおわざ)を示した作で、調べもあたりを払ふ風格がある。」

「下句は、生きてゆく途(みち)も、その方角、終点も見定めがたいといふ、・・・(これは)・・・常識を幾らも越えてゐない志向ではあるが、ともかく、圧倒的な律調が、その変わり映えしない発想をも見事に救済して、亜名歌(=名歌に準ずる歌)に変貌させてゐる。」

塚本邦雄は一方でこうも言う。

「思想的抒情詩とは妙な用語で、この一首に< 思想 >があるかないかも、また別に論議さるべきであらう。」

 これは戦争の行方を憂慮する茂吉の意が隠されているという意味で、「思想的」であると僕は思う。茂吉のしては珍しく寓意を含めたのではないか。この作品は1934年のものだが、前年の1933年に土屋文明が代々木の練兵場の騎兵の列を見て、「戦争といふは涙ぐましき」と表現し、のちの「新選土屋文明集」のときは検閲を通らなかったのに思い及ぶ。こういう解釈も成り立つ余地があるだろう。もしそうなら、それは茂吉が常に「からくり」と呼んで退けた表現方法である。だから「思想的」と述べたのではないか。

 佐藤佐太郎は「ごとく」にのみ注目して次のように言う。

「寂しさにもいろいろあるが、< 山の上の氷のごとく >というのは常の状態ではない。血液も鼓動もない非生命的な寒冷である。」(「茂吉秀歌・下」)

 もちろん前年の「精神的負傷」(夫人の「ダンスホール事件」:岡井隆著「茂吉の短歌を読む」)を基調としているが、それに定まり難い戦争の行方という社会的背景も含め、

「公私にわたる茂吉の精神の暗澹たる時代」

と僕は解するのだがどうだろうか。




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