「うた新聞」
「巻頭評論」
1、 『戦後』記憶の再分配に抗してー「埃吹く街」再読(松沢俊二)第15号
「現首相の唱える『戦後レジュームからの脱却』という言葉が具体的に何を指すのかわからないのだが、ただ明確なのは首相を含む一部の人々にとって『戦後』とは積極的に忘れさられるか、または修正されるべき対象であるということだ。彼らにとっては、おそらく、この国の憲法や教育体制が再解釈の対象なのだろうが、しかし、いずれにせよ『戦後』が戦争を前提とし『戦前』と不可分な言葉でであるかぎり、たとえ国民の『民意』を得たとしても、かかる再分配は許されるべきでは無いだろう。・・・・このようなことを考えさせてくれる歌集として近藤芳美『埃吹く街』がある。・・・多様な主体性により生きられた、それぞれの『戦後』は『埃吹く街』のような歌集からも確かに創造しうる。それらを再読することで、例えば沖縄の『屈辱の日』を『主権回復の日』と定めるような鈍感さから逃れられることができるかもしれない。」
(=僕も「埃吹く街」を読んだが、戦争という狂気から解放された時代性が、明確に刻印されている歌集である。近藤の代表歌集であり、代表作も含まれている。「カテゴリー作家論小論の「近藤芳美論」「私見、近藤芳美の短歌の特色」{短歌史の考察「近藤芳美ー斎藤茂吉以降の注目歌人」を参照されたい。)
2、口語の水脈(小島ゆかり)第18号
「文語文体の作品の一部に口語が入り込む、これは、前提となる文語文体があってはじめて表現のディテールとしての口語が生きる。つまり表現法の問題だからだ。文体としての口語と表現法としての口語は役割が異なる。歴史をもたない文体としての口語が、今後どのような深化を遂げるのか。また、表現法としての口語がどのような力を持ち得るのか、もう少し時間をかけて見ていかなければならない。・・・文体と表現の両面で、一首一首がていねいに吟味されなければならない。」
(=口語短歌の弛緩・ゆるみが指摘されて久しい。くわしくは、カテゴリー近現代短歌の一首の「カップヌードルの歌:穂村弘の短歌」、カテゴリー短歌史の考察「ライトバースについて」、カテゴリー新聞や雑誌の特集から「短歌は抒情詩である」を参照されたい。)
3、メディアにのぞむこと(三枝昂之)第20号
「(歌壇の問題として)一つは歌壇という枠のなかでだけでなく、もう少し広い視野を意識した作品と短歌論を促してほしいということである。私たちは歌壇という枠の中でいままでと違う新しさをどう出したらいいのかということに日々苦心しながら歌作している。しかしそれがジャンルへの信頼に繋がるかといえば、必ずしもそうではない。・・・(「短歌研究」の評論賞の応募作で)短歌の基盤は文語であると断じた一人がいて注目した。その判断の背後には、歌壇内部ではなく、すべての文藝ジャンルを横並びにしたときの短歌の根拠は文語定型であるという強い意識がある。・・・もうひとつは時評の充実である。そのときどきの情報を整理し、問題の核心を提示するのが時評の醍醐味だが、情報過多時代にはその役割はいよいよ大きい。」
(=前半は小島ゆかりと軌を同じくする。「口語自由詩が作れないから、短歌の世界で暴れてやろうという口語短歌は滅びてゆくだろう」と馬場あき子が、穂村弘に「星座」10周年記念会で諭していたことが重い出される。後半。僕の近著「斉藤茂吉と佐藤佐太郎」は、僕が考える、歌壇への問題提示のつもりで書いたものだ。)
4、牛飼の万葉調ー伊藤左千夫の処女作を巡って(牧野博行)第21号
「『風雅』をもてあそび、伝統的な『優雅』さを歌う、当時のいわゆる旧派(多くは公家や上流階級)『和歌』に対し、『牛飼』が歌を詠むのは、明らかに文学の担い手の意識改革にあたる。新しい庶民が作者になるという自覚である。その新しい担い手によって新時代の歌が興り、開拓するのが新派『和歌』(武川忠一氏)という。確かにその通りである。完全な近代短歌はここに出発するのである。」
(=旧派和歌のような、言葉遊びの短歌は滅びて行くだろう。)