岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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雪原の馬の歌:佐藤佐太郎の短歌

2012年04月15日 23時59分59秒 | 佐藤佐太郎の短歌を読む
・雪の原とほどほどほしきに放牧の馬は曇にひたりて立てり・

「冬木」所収。1962年(昭和37年)作。

 先ず語意。

「とほどほしき(=とほどほしき・遠遠し:の連体形)極めて遠い」「曇(=くもり)」。

 雪原が限りなく遠くまで続いている。空模様は「曇り」。おそらく雪雲。そこに放牧された馬がいる。事実としてはここまでだが、「曇(くもり)にひたりて」という主観が一首の見どころだろう。「くもり・に・ひたる」と言うのは現実にはありえない。作者がそう感じ、捉えたということだ。

 奥行のある情景を描写しながら、「馬が曇りにひたる」という作者の主観がはたらいている。事実は、曇の下に馬がいるのだから、「客観写生」の立場では「曇りのした」と表すだろう。

 こういう表現が佐太郎の頭をかすったと思う。だがそれでは面白くない。そこで「曇にひたりて」となったのだろう。事実をそのまま述べるだけでは興味半減である。

 こういう「実景(=客観)」と「心情(=主観)」があわさっているところが佐太郎短歌の特徴の一つである。そして、その主観が「自然と一体化」するかのように表現するのも佐太郎短歌特徴のひとつの特徴だ。「自然・自己一元の生を写す」という斎藤茂吉の「汎神論的写生」を受け継いだものとも言える。

 佐太郎の自註。

「ノサップ崎も根室から雪中をジープで先端へ行ったのであった。・・・半島はいちめんの雪で、ところどころ放牧の馬が立っていた。『とほどほしきに』とか『曇にひたりて』などは、歌であれば当然であるから特にとりたてていうことはない。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)

 「とほどほしき」が実景(=客観)で、しかも「虚語(=副詞、形容詞)」。そして「曇にひたりて」が情感(=主観)である。だから「とりたてていうことはない」どころか、こここそが肝心なのだ。

 納沙布崎の一連は全部で10首あるが、ほかには次のような作品もある。

・雪せまる海のなぎさは沖根婦(おきねっぷ)拾いし昆布(こぶ)をくろぐろと乾す・

・流氷の寄るころ海にただよふを拾えば拾昆布(ひろいこんぶ)とぞいふ・

「昆布」と表記して「こぶ」「こんぶ」と読みわけるのは、定型にこだわりをみせた佐太郎らしい。「沖根婦」は固有名詞か、地方固有の言葉だろう。この二首より冒頭の一首のほうが、はるかに出来がいい。




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