・ためらはぬ角度をもちて遠しとも近しともなく稜線は見ゆ・
「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」121ページ。
佐太郎の自註は手元の文献では確認できない。だがこの一首には佐太郎が茂吉から学び、それを自身の中で消化し、茂吉にはなかったものに到達したものが見える。
先ず主観と客観の関係。「ためらはぬ」「遠しとも近しともなく」が主観である。「稜線」が客観である。こうして見ると客観の比率が少ない。意外であるが、これがリアリズムと茂吉・佐太郎の「写実」の違いである。アララギの歌人で言えば、土屋文明と斎藤茂吉・佐藤佐太郎の違いと言ってもいいだろう。
次にその主観の表現のありかた。「ためらはぬ」は擬人法で動作の主体は稜線である。従来の「アララギ派」の歌人はこういう表現はしなかったろう。こういう批評もありうる。「山が< ためらはぬ >というのはおかしい。」と。しかし佐太郎は平然とこう言うだろう。「そう見えたのだ。」これが佐太郎のいう「詩的真実」である。
それから、「遠しともなく近しともなく」の表現。これも土屋文明のリアリズムからすれば、「曖昧な表現だ」となるだろう。ところが佐太郎はまたもこう言うだろう。「だから、そう見えたのだ」と。
つまり佐太郎の作品は、客観的世界を詠みながら、主観が一首の主要部分を占める。こういった傾向はすでに斎藤茂吉にあったが、その傾向をさらに研ぎ澄ましたのが佐太郎である。
佐太郎はこれを「虚と実」とも「客観と主観の一体化」とも呼ぶが、これが茂吉の言う「実相観入」の発展的継承であることは言をまたない。
これが岡井隆が「象徴的写実歌」と呼ぶ所以であると思うが、飽くまで客観が主であることに注目したい。この一首も、客観的に存在する山が一首の中心であって、その山が「作者にはどう見えるか」ということに重点が置かれ、それが読者に伝わるところに佐太郎作品の特徴がある。
「象徴的写実歌」であって「写実的象徴歌」ではないのである。