・遺産なき母が唯一のものとして残しゆく『死』を子らは受取れ・
「花の原型」1955年(昭和30年)刊所収。
歌意「死んでゆく私には母として残していく遺産もないが、私の『死』を唯一のものとして受取って欲しい。」
子を残して死んでいく身としては、心残りだったろう。資産家ならまだしも、病気発覚後に離婚して一人で子育てしていた作者だ。その心情は痛々しいまで迫るものがある。
とかく「赤裸々」「自己劇化」「あらわ」「奔放な男性遍歴」と言われる中城ふみ子だが、作品の底流には「愛(いと)おしみ」がある。
それは子らへのものであり、パートナーへのそれであり、何より自分の生への「愛おしみ」だ。女が一人で子育てをする。そういうことが困難極まる時代でもあった。時には「歪んで」見えたこともあろう。
だがそれは中城ふみ子の一面に過ぎない。デビューとなった「短歌研究30首詠」が鮮烈だっただけに、そういった固定感念で見られるのは不幸な出発だったと言えるかも知れない。
中城ふみ子を気取って、夫婦喧嘩の中身まで「あからさま」に短歌の素材にする人がいるが、僕は賛成出来ない。そんなに家庭の事情を晒すなら、スッピンで歩けばよい。
中城ふみ子の次の作品を読めば違う中城ふみ子像が見えてくる。
・悲しみの結実(みのり)の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ・
・陽に遊ぶわが子と花の球根と同じほどなる悲しみ誘ふ・
・ポニーテールの髪のわが娘と草はらに遊ぶ再婚せぬと決めては・
・もはや子を産むこともなきわが肢は秋かぜの中邪慳に歩ます・
・燃えむとするかれの素直を阻むもの彼の内なるサルトル・カミユ氏・
・幼らに気づかれまじき目の隈よすでに聖母の時代は過ぎて・
寺山修司とほぼ同時期のデビューだけに、中城ふみ子も前衛短歌に入れられる場合があるが、前衛短歌は岡井隆・寺山修司・塚本邦雄による男性の運動であり、中城ふみ子はむしろ「女歌」の新境地を拓いたというべきだろう。
「女に前衛短歌はなかった」とは馬場あき子の言葉である。
最後に中井英夫の言葉を記しておく。
「新人五0首の第一回、四月号に私の推した中城ふみ子『乳房喪失』は、同じく6月号の『短歌』に川端康成の推薦で『花の原型』が飾られるに及んで評価を一変し、歌壇の長老がどう罵ろうとも、その声をかき消すまでに無名の短歌大衆から圧倒的な支持を受けるに至った。」(「寺山修司青春歌集」解説)
文壇を唸らせる短歌作家が、現代の歌壇にいるだろうか。