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文化を語る資格なし――デーブ・スペクター

2007年03月05日 07時37分03秒 | 音楽・芸能
川内康範と森進一の『おふくろさん』騒動については、芸能界の痴話喧嘩の色合いが強いのでこれまで当ブログでは取り上げなかった。
しかし今朝の『やじうまプラス』でコメンテーターのデーブ・スペクターが「中身はきちんと歌っているのだから、歌詞の前にちょっと付け加えても大きな問題ではない。イントロの語りみたいなもの」と発言していたので、反論する。

『平家物語』、『奥の細道』、『走れメロス』、『雪国』……これらの作品は、日本人ならばたとえ読んだことが無くても、書き出しを知っているのではないだろうか?
作家が作品を創作するとき、最も気を使うのは最初と最後ではないかと思う。誰だったかは忘れたが、ある作家が長編小説を書いたとき、書き出しを考えるのに何ヶ月も掛かったが、書き出しが決まってしまったら、あとは数日間で一気に数百枚を書き終えたというエピソードを聞いた記憶がある。
『おふくろさん』の歌詞も同様だろう。歌詞も詩という文学の一種である。川内康範は、この歌詞は「♪おふくろさんよ」で始まる以外には考えられないと確信しているとか。確かにこの曲をインパクトの強い作品にしているのは、この出だしだと感じる。森が付け加えた部分は蛇足でしかない。

さっき挙げた文学作品の頭に違う文章を付け加えたら、その後、原典を忠実に再現したところで「台無し」なのだ。文化とはそういう物である。デーブ・スペクターに文化を語る資格はない。

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