23日、テレビ朝日系列で放送された「オートバックスM-1グランプリ2007」でサンドウィッチマンが優勝した。
納得できる審査結果だった。9組12ネタを軽食を食べながら観ていたが、一次審査の彼らのネタで、不覚にも笑った拍子に口中の食物を周囲に飛び散らしてしまった(自爆)。二次審査の3組のネタはどれも甲乙付け難かったが、おそらく一次審査の出来も考慮されたのだろう。
上手さだけで見ればトータルテンボスがナンバーワンだったと思う。だがネタの新鮮さで少しマイナスされたのではないかと感じる。数日前に放送された
『アメトーーク!』に歴代M-1グランプリ受賞者が出演してM-1について語った。誰か忘れたが「M-1では他の演芸番組でやるネタではなく、M-1用のネタをやらないと勝てない」と言っていた。
昨日のM-1では、笑い飯やポイズンガールバンド、千鳥のネタは面白いと思えなかった。彼らの従来の持ちネタならば、もっと面白かったと思う。だがM-1だからこそ、彼らは賭けに出て冒険したのだろう。「この笑いは見たことがない!新しい!」と評価されようと……。
かつてフジテレビ系の深夜に、月1回程度『落語のピン』という番組が放送されていた。立川談志師匠を中心に談志一門の落語家が出演していた。その最終回で談志師匠が語っていた話を思い出した。「テレビで落語をやるってのは、奪われる物がでかすぎる」――
落語のレパートリーは限られている。古典はもちろん、新作とてそうポンポンと量産される訳ではない。落語家はそのレパートリーの中から高座で噺を披露する。当然、いくつかの高座では噺がカブることもある。しかし「その噺は前に聞いた」って事にはならない。落語ファンならば噺の内容を知っているのは、むしろ当たり前だ。『寝床』と言えば義太夫節に熱中した若旦那が無理矢理聞かせようとして迷惑がられる話とか、『道具屋』と言えばフリーマーケットみたいな感じで変な品物を売ろうとする与太郎噺……みたいな感じでみんな知ってる。知ってて聞く。ところが不思議な物で、テレビで一度、放送されてしまうと「この噺は前にテレビで見た」となってしまう。談志師匠が言う「テレビに奪われる物」とは、おそらくこの現象ではないだろうか?
そしてこれは落語に限らない。漫才やコントも同様だろう。何度か『エンタの神様』はパワーが落ちてきた――と書いているが、それも当然だ。同じネタを二度できないのだから、必然的にレパートリーが枯渇している。最近の『エンタ』は、どういうネタをやるかではなく、「どういうキャラクターを作るか」が主眼となっている。桜塚やっくんのスケバン恐子やにしおかすみこのSM女王など、毎週のように出演できる芸人はキャラクターを演じる芸人たちである。陣内智則やアンジャッシュなどのように、毎回新ネタを作らなければならない芸人は、毎週出演するのは無理だ。
芸は財産だ。いっぽうテレビはコマーシャルメディアの側面が強い。どんどん新しい物を生産して消費していきましょうというコンセプトでテレビは成り立っている。従ってテレビに飲み込まれると、芸は財産から消耗品になってしまう。ずっと同じ芸を続けているとワンパターンと揶揄され、マンネリと見限られる。芸人までが消耗品として使い捨てになる。にもかかわらずテレビの影響力は大きい。テレビに出ているのと出ていないのでは、営業の集客力が大きく異なる。そのため、多くの芸人は消耗品となることを承知で、財産である芸を切り売りしなければならない。最近の希望は、ネットのコンテンツ配信等で、芸が流されるようになってきたことか?面白いコンテンツにはリピーターも多い。これが芸を消耗品から財産への見直しのきっかけになれば良い。
話が逸れたがM-1の評価基準は様々あろうが、やはり個性、斬新さ……といった物がもっとも重視されると思う。他の演芸番組でできるネタではトップに立てない。そんな部分が出場芸人たちのプレッシャーとなっているのだろう。麒麟やオリエンタルラジオなど、他の演芸番組ならば大喝采を受ける芸人が準決勝で敗退してしまった原因もここにある。実はサンドウィッチマンのピザネタは以前にも見た事があるが、幸か不幸か露出の少なさ(トーテンやキンコンに比べて)が有利に働いた気がする。
そんな意味で言えば、今回のM-1は冒険した芸人よりもしなかった芸人が最後に勝ち残った結果となり、来年からのM-1に影響を与える気がしなくもない。
上手さと新しさを両立させるのは厳しい。