上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

沖縄をダメにした百人 37

2013-03-31 09:32:12 | 沖縄をダメにした百人

前回の続き

~1フィート運動騒動記~ 20-3

 3月14日の琉球新報は「1フィートが30年誌 ─未来への道標─ 解散前に活動総括」、沖縄タイムスは「1フィートの会集大成の記念誌」の見出しで「未来への道標」の発行を大々的に報じた。 両紙共写真付きで、そこには石川元平を中心に山根安昇安仁屋政昭の3人が編集委員としてウス笑いを浮かべている姿が紹介されていた。 石川元平山根安昇上原正稔と仲間たちが1フィート運動を創って、乗っ取られた経過を全く知らず、安仁屋政昭はぼくが委員に選んだことを隠す奴だから、初めから信用できない。

 こういう連中が編集した記念誌だから「自分たちに都合のよい」本に仕上げていることは想像がつく。 といっても、実物を見ないことには批判できないので、3月28日泉崎の旧琉球新報本社ビル5階の元「1フィート運動事務局」に出かけ、「記念誌」を1部貰うことにした。 その入口にはなんと解散したはずの「沖縄戦記録フィルム1フィート運動事務局」の看板がそのままデンと置かれ、中には石川元平と女子事務員が電卓で何やら帳簿をイジくっている。

 ぼくが入室して「記念誌をくれないか」と言うと、石川は不快感を丸出しにして「君にはやれない。 君は邪魔ばかりしている。 私は忙しんだ、出て行ってくれ」と言う。 ぼくは「ほう、帳簿の誤魔化しで忙しいのかい」と皮肉を言うと、石川は気色ばんで「ここは私が家賃を払っているんだ。 出て行ってくれ。」と言う。 ぼくが「君は一体いくら1フィートに払って権利を買ったのか」と質問すると、「そんなことを君に言う必要はない。 さあ、出て行ってくれ。」 ぼくは更に「君らが使っている電話は君らが30年前に盗んだままだ。 ぼくが1フィートを創ったら、乗っ取られたんだ。 返してくれないか。」と突っ込むと、 石川は「君が12月27日に言ったことは嘘だ」と更に声を荒げる。 ぼくは「そうか、君らの態度はこれではっきりした」と言って記念誌も得ずに部屋を出た。

 記念誌のことは気にならなかった。 気になるのは、画家の小橋川肇が善意で作ってくれた看板と電話だ。 この2つは小さいが、1フィート運動の犯罪のシンボルだ。 赤字倒産した1フィート運動の借金を埋める形で1フィート運動の看板と権利をそのまま使い続けることは目に見えている。 彼らは間もなく「1フィートを若者たちが継続」の名目で記者会見を開くだろう。 道具は揃っている。 まだ公表されていないNHKから贈呈された660本の沖縄戦DVDが隠されているのだ。 これを利用していくらでも「反戦平和」のDVDが作れる。 これこそ石川元平と偽善者仲間が狙っているということだ。

 これは正に「大犯罪」だ。 金も名声も得られるというわけだ。

つづく


その時、慶良間で何が起きたのか 7

2013-03-31 09:17:11 | その時、慶良間で何が起きたのか

前回の続き

 

 俺たちが姿を見せると、手投げ弾が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。 想像を絶する惨劇が繰り広げられた。 大人と子供、合わせて百人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。 慶留間の時と同じだ。 規模がすさまじい点が違うだけだ。 俺たちに強姦され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。

 年配の男たちが小ちゃな少年と少女たちの喉(のど)を切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが、何の効果もない。 俺たちはナイフを手にしている大人たちを撃ち始めたが、逆効果だった。 狂乱地獄となり、数十個の手投げ弾が次々と爆発し、破片がピュンヒュン飛んでくるのでこちらの身も危ない。 全く手がつけられない。 おれたちは「勝手にしやがれ」とばかり、やむなく退却し、事態が収まるのを待った。 

A中隊の医療班が駆けつけ、全力を尽くして生き残った者たちを手当したが、既に手遅れで、ほとんどが絶命した。

 1日か2日後、工兵隊がやって来て、川岸に爆薬を仕掛け、惨劇の現場を埋めた。

 数ヶ月後、故郷へ帰る途中、俺がカルフォルニアでヒッチハイクをしたとき、年輩の男が拾ってくれた。 その時、彼は俺がオキナワ戦に参加したことを聞くと、自分の息子はトカシキという島に行った将校だが、息子の話では、豪雨の後、無数の人骨が川を流れ落ちて来たそうだが、アメリカ兵が多数の住民を虐殺したせいらしい、と語った。 俺たちが殺した。とは参ったね。 もちろん、本当のことを話してやった。 

つづく


沖縄をダメにした百人 36

2013-03-30 09:20:36 | 沖縄をダメにした百人

前回の続き

~1フィート運動騒動記~ 20-2

 3月16日の琉球新報は社会面で「1フィートの会解散」を白々しい嘘で飾り立てる一方で、「100人委員会19日発足 ─大学人ら沖縄問題解決目指す」ことを小さく報じた。 会の発足に向け、大田昌秀元知事、石原昌家上里賢一比屋根照夫高良鉄美照屋寛之名誉教授の肩書き持つ者や候補者らが名前を連ねている。

 ぼくはオヤッと思った。 かつて何を成したのか、はっきりしないまま、消えてしまった「平和100人委員会」を思い出したからだ。 今回はぼくがいつも「人間のクズだ」と呼んで軽蔑している大田昌秀が仕切っていることは明らかだ。 彼は閑古鳥が鳴いている大田平和総合研究所を改名して国際平和研究所にしたが、それでも相変わらずガラガラだ。 彼が自分の研究所を存続させる唯一の目的であることは一目瞭然だ。 大学の教授、名誉教授というロクでもない肩書きを振り回すのは学校内でしてくれればよい。 大学の先生は社会の先生ではないことを自覚すべきだが、そんなまともな人間は教授あるいは名誉教授には一人もいない。

 3月20日の琉球新報は「平和創造へ英知結集 ─100人委員会発足」と報じたが、3月19日大田昌秀沖縄国際平和研究所に集まっていたのは、大田昌秀石原昌家上里賢一比屋根照夫高良鉄美の5人と身元不明の女性4人だけであり、この100人委員会が1フィート運動を潰した福地曠昭中村文子が負け惜しみで言う「発展的解消」を遂げるのは目に見えている。

 発足人のメンバーを見ると、ぼくがよく言うように大田昌秀は「沖縄の政治と文化をダメにした男」であり、石原昌家大田が上原正稔から奪い取った「沖縄戦メモリアル」を改名した「平和の礎」建設委員会の代表を嬉々として受け、大田に頭が上がらない「ダメ人間」であり、しかも安仁屋政昭と2人で強制集団死という言葉を発明し、悦に入り、沖縄タイムス琉球新報が無批判にその言葉を乱用している始末だ。 比屋根照夫は1フィート運動と関係ないということで、ぼくが選んだ「沖縄戦メモリアル」委員会のメンバーだったが、大田昌秀知事から上原のメモリアル委員会から手を引けと言われて、手を引いた情けない男だ。 一度、ぼくが道で会った比屋根に「君は恥ずかしくないのか」と怒鳴りつけると、顔を真っ赤にして逃げていった。 時々、沖縄県公文書館でぼくの姿を見ると、知らぬふりをして逃げていく。 そんな「ぐうたら人間だ。 高良鉄美はいつもボロ雑巾を頭に巻いているまよなかしんやと同じく、いつも帽子をかぶって離さない。 帽子100個集めることを人生の目標にでもしているのだろう。 「沖縄の平和創造と人間の尊厳の回復を求める100人委員会」より意味があるだろう。


つづく


その時、慶良間で何が起きたのか 6

2013-03-30 09:09:38 | その時、慶良間で何が起きたのか

前回の続き

 

 3月27日、夜明け前、またおれたちA中隊の出番だ。

 A中隊は渡嘉敷島の最南端の海岸線に音も立てず上陸した。 辺りはまだ暗い。

 俺たちの役目は、午前8時の上陸前艦砲射撃までに阿波連村落の裏側の尾根を占拠することだった。 つまり、艦砲射撃を避けて逃げてくる日本軍を待ち伏せしようという狙いだ。

 そううまくいくはずはないと思ったが、実際その通りになった。 3月27日予定通り、おれたちは午前8時、目的地に到着し、着色発煙手投げ弾を爆発させ、上空の偵察機におれたちの位置を知らせた。

 すぐに、艦砲と野戦砲が発砲し、砲弾が眼下の阿波連村落に降り注いだ。 しばらくすると、退却する日本兵らが山を駆け上がってきた。 およそ半時間、日本兵らは飛んで火に入る夏の虫とばかり、狙い撃ちにされた。 200人のジャップをやっつけたとだれかが言った。おれが見たのはせいぜい50人ほどだ。おれたちの損害は2,3人の戦死者と5,6人の負傷者だけだった。

 ※(注) これまでのいかなる戦記にも渡嘉敷の最南端の浜(ヒノクシ)にアメリカ軍が上陸したことは書かれていない。 ところが昨年筆者が渡嘉敷村の金城武徳さんから入手した「渡嘉敷第三戦隊の陣中日誌」に「三月二十七日…第一中隊は阿波連より撤収するも渡嘉志久峠の敵に阻止され、突破すること得ず東方山中に潜伏…」との記録を発見した。 第三戦隊はアメリカ軍が裏をかいて、渡嘉敷最南端から闇(やみ)を突いて上陸し、待ち伏せしたことを知らなかったのである。 

「山を下りて阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。 山を下りる途中、小川に出くわした。川は干上がり、広さ10メートル、深さ3メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。

 

つづく


その時、慶良間で何が起きたのか 5

2013-03-29 09:30:06 | その時、慶良間で何が起きたのか

前回の続き

 

今でもおれのまぶたの裏に焼き付いて離れないのは、あの若い母親の顔だ。 自分の腕の中で死んでいる子供を見つめる母親の目。 何てことだ。 殺すことなんてなかったんだ。

 民政班から、鉄条網で囲われた収容所を用意したので住民を村に連れ戻せ、との命令が下った。

 おれは90歳くらいのとても小柄な老女の襟(えり)首を掴(つか)んで、山道を下った。 その老女はひざまで届くジャケット(ちゃんちゃんこ)を着、黒いだぶだぶのズボン(もんぺ)をはいていた。

 途中、おれたちは日本兵の死体のそばを通った。 こいつは米袋を担いでいる際に撃ち殺されたらしい。 銃弾で袋が切り裂かれ、米粒が道路に散乱していた。 老女は俺の手を振りはらって、泣き喚(わめ)きながら米粒をかき集め始めた。 死体なんて全く眼中にない。

 村に着くと民政班は収容所に配給食糧のケースと飲み水の缶を積み上げ、住民のためのテント設営の最中だった。

 日本軍に虐待されたフィリピン住民はなんと言うだろう。 まさに雲泥の差の待遇だ。 おれたちはもう一度山に入り、日本兵を捜すことになった。

 山から見下ろすと、海岸線に野戦砲が設置され、ちょうど一マイル離れた島に砲弾を撃ち込んでいる。あの島が、明日、おれたちが上陸する渡嘉敷島だ。

 

-つづく


ランクアップのご協力お願いします。


沖縄 ブログランキングへ