~1フィート運動騒動記~ 11
さあ、これからゾッとする怪談を語ろう。 沖縄には「耳切り坊主」を始め、無数の「怪談」がある。 それらは人間の怨念とか、男と女の愛情のもつれとか、どこにでもある話が源になっていて、教訓が含まれている。 これから話す「怪談」は沖縄の人間を知る上で最も大切な物語の一つだろう。 全てぼくが体験した話だ。 この物語に登場する「幽霊」は新聞やテレビに顔を出したり、大学という名前の学校(伏魔殿)の先生であったりする。 「学校の幽霊」は夜出てくるのが常識だが、この物語では真っ昼間から顔を出す。
この怪談は30年間も続く長い物語だ。 今、最終章を迎えている。 ラマンチャの男=ドン・キホーテにはサンチョ・パンサという従僕がいたが、ぼくはひとりで戦ってきて、今、ようやく味方ができた。 味方とはこのブログの読者の君だ。 ドン・キホーテは槍と盾が武器だったが、ぼくの武器は「真実」だ。 沖縄の「伏魔殿の悪党」どもが恐れるのは「真実」だ。 さあ、「真実」を振りかざして、悪党どもを一緒にやっつけよう。
──あの頃、ぼくは純粋だった。 今でも純粋な人間だが、あの頃は人を疑うことを知らなかった。 皆、世のため人のために尽くすのが人の道だと信じているものと思っていた。 おっと、あの頃とは1980年代に入る頃だ。 ジョン・レノンがダコタ・ハウスの入口で射殺された頃だ。
ぼくは友人たちと「バジル・ホール協会」を作り、川平朝申先生や歴史家の照屋善彦先生らと一緒に旧三月三日に宮古島の八重干瀬(ヤビジ)に上陸した。 そのメンバーには長いこと会っていないが、西平宗秀や石川武男ら一癖も二癖もある楽しい仲間たちもいた。
ぼくらは1796年にヤビジで沈んだプロヴィデンス号の発見というのが、名目だったが、結果としては、ぼくらが初めてヤビジに上陸した観光団だったことになる。
そのバジル・ホール協会のメンバーの一人に市立図書館長の外間政彰という人間がいて、ぼくらは彼の自宅を訪ね、夫人の米子とも知己になった。 外間政彰、米子夫妻は1フィート運動騒動記の重要メンバーで実にトンデモない役割を果たすことになる。
話は前後するが、ぼくは1980年代初期に初めてアメリカの国立公文書館を訪れ、ペリー時代から沖縄戦までの沖縄の地図70枚を入手し、それを新聞社に持っていき、大きく紹介された。 そして、その地図を那覇市立図書館に寄贈し、外間政彰館長と親しくなった、という背景がある。 そして、バジル・ホール協会を作り、楽しく遊んでいたことになる。
ところが、1983年6月1日、ある出版祝賀パーティーが開かれ、ぼくも参加することになった。 そして、見知らぬ男がぼくに近づいて親しげに話しかけてきたのだ。 「上原君、いい仕事をしているじゃないか。 アメリカの公文書館から沖縄の地図をあれだけ入手するというのは、誰もができることじゃないよ。」 その男とのこの会話が1フィート運動騒動記という「怪談」の始まりになるとは誰が想像できようか。その男とは・・・