上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

さっさと大綱挽を大綱引に戻せ!

2014-10-17 19:00:40 | 告知

さっさと大綱挽を大綱引に戻せ!

─ 沖縄文化崩壊の象徴どころか、歴史的大恥だ ─

 

 1971年10月10日那覇祭りの目玉「那覇大綱引」が盛大に復活した。琉球新報も沖縄タイムスも「那覇大綱引に20万人」と派手に報道した。その日のタイムスのコラムで徳田安周編集委員は「36年ぶりの大綱引の再現」の舞台裏の立役者として第一に友寄英彦さんの名を挙げている。「友寄さんは5,6年前から歯科医の本業もほったらかして、綱引一途に余生の情熱を傾けた」のだ。友寄さんと平良幸一那覇市長の出会いが「大綱引」復活の物語の始まりだが、その「汗と涙と笑い」の物語はここでは省略するが、友寄さんは大綱引実行委員長として多くの有名、無名の人々の協力を得て「大綱引」を大成功に導いたことを伝えておこう。老齢の友寄さんは間もなく世を去り、協力してくれた人々も皆、世を去った。

 今、残されたのは「大綱挽」という醜怪な残骸だ。一体いつから「大綱引」は「大綱挽」に変わってしまったのだろうか。72年、73年も新聞は「大綱引」と報道している。74年は予算不足で「大綱引」が消え寂しい那覇まつりとなった。75年に再び「大綱引」が新聞で報道されたが、新聞記者も誰も知らないところで奇妙なことが起きていた。ある夜、大綱引保存会の面々が集まった会合で、副委員長であった仲井眞元楷先生がとんでもないことを言い出したのだ。「昔の記録によれば、大綱引という字は使われず、大綱挽という字を使っていた。「挽」は重々しいし、これから「大綱挽」で行こう。」

 後年、ぼくにその話をしてくれた委員は次のように語った。「私は変だ、おかしいな、と思ったが大学者先生に反対するわけにも行かず、黙っていた。皆も私と同じように自信がなかったのだろう。反対意見も出ず、あっさり決まってしまったんだ。」

こうして「大綱引保存会」は「大綱挽保存会」となってしまった。だが、新聞はこのことに一切触れず、タイムスは79年まで新報は81年まで「大綱引」と報道を続けていた。両紙とも「おかしい」と思っていたが、調べることはなかった。ただ漢和辞典を引いてみれば、すぐわかることなのだ。タイムス、新報は「赤信号みんなで渡れば恐くない」の道を選んでしまったのだ。学研の漢和大字典を挽いて、いや引いてみよう。

挽 = ①むりにひっぱる。 ②つらさをこらえて、やっと棺の車をひく。 ⇒ 挽歌(死者を弔う悲しみの歌)

ここから日本語では①のこぎりをひいて切る ②石うすで粉にする

解字(起源):無理をして赤子をひっぱり出すこと

 なんと悲しく、哀れなことか。それに気付かず、いや何度注意しても平気で「大綱挽」と使っているおエラ方の醜悪な面々。なんとおぞましいことか。そして大綱を「挽」かされて喜んでいる無知な大衆。なんと哀れなことか。これは沖縄の文化の崩壊どころではない。沖縄の大恥だ。さっさと大綱引に戻せ!

 

2014年10月17日

上原 正稔


ランクアップのご協力お願いします。


沖縄 ブログランキングへ