上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

その時、慶良間で何が起きたのか 1

2013-03-25 09:24:50 | その時、慶良間で何が起きたのか

 ぼくは2007年6月19日から琉球新報夕刊の長期連載「パンドラの箱を開ける時」の第2話「慶良間で何が起きたのか」を発表することになっていたが、琉球新報の前泊博盛、枝川健治、上間了、玻名城泰山(現編集長)の4人の記者が自社に「都合の悪いこと」を封殺しようとして、大喧嘩になった「リンチ事件」によって、読者に伝えることができなくなった。 その時、琉球新報が封殺し、読者が読むことのできなかった最初の1週間の原稿から始めて、その全容をここで発表することにしよう。 タイトルもちょっと変えて「その時、慶良間で何がおきたのか」とする。

 

-イスラエルの東端に“生”を拒絶する塩の湖“死海”がある。その死海の南東岸にまるで巨大な戦艦と見迷うマサダ要塞跡がある。要塞の周囲には数百メートルの断崖聳り立ち、正に難攻不落と見える。マサダ要塞は紀元前四世紀ヘロデ王が宮殿を創り、要塞化し、その後ローマ軍とイスラエル軍が覇権を争った舞台だ。紀元七〇年ローマ軍はエルサレムを占領し、最後のイスラエルの要塞マサダを攻略することになった。しかし、二年間もマサダを包囲しながらも女、子供を含めてわずか千人のユダヤ教徒に対し、一万五千人の大軍から成るローマ軍は歯が立たない。ローマ兵が岩山を登っても、次々、突き落とされたのだ。ついに司令官は更迭された。新任の司令官ジャイル将軍は断崖の一角に山のように石や土を運び、岩山の頂上まで積み上げ、傾斜路を造った。紀元七三年四月十五日、ローマ軍は傾斜路を登り、マサダの頂上に攻め寄せた。しかし、千人のユダヤ教徒らは自ら命を絶つことにした。“集団自殺”を決行したのだ。敵の死体の山を見て、叫んだ。「なぜだ。なぜなんだ!」-

 

-つづく


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