上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

沖縄をダメにした百人 47

2013-04-11 09:36:19 | 沖縄をダメにした百人

前回の続き

~1フィート運動騒動記~ 20-13

 「未来への墓標」という嘘とゴマカシに満ちた記念誌を閉じる前に、この記念誌に寄稿した人々の氏名を全て挙げておく。 彼らは嘘を嘘と知りながら書いた者もおれば、嘘を嘘と知らずに書いた者もいる。 いづれも1フィート運動をダメにし、沖縄をダメにした者たちだ。 1フィート運動は無惨に壊れた。 しかしその復活を企んでいる者もいる。 とりあえず2013年3月15日を1フィート運動強制集団死の日と受け止めて、ご冥福を祈ろう。

(順不同)

福地曠昭、大田昌秀、中村文子、真栄里泰山、中村節子、大山哲、新崎盛暉、宮城孝子、石原絹子、石川元平、石原昌家、西野浩史、安良城米子、謝名元慶福、山根安昇、まよなかしんや、川端光善、安仁屋政昭、我謝幸男、渡久地昇永、比嘉宏、大浜敏夫、宮城千恵、桑江テル子、田井等啓子、久場千恵、西岡信之、宇根悦子、宇治原睦恵、上地完道、愛川直人、柴田昌平、中松昌次、嶋津与志、大城将保。

編集委員

委員長 石川元平

事務局長 大山哲

委員 山根安昇安仁屋政昭宮城孝子真栄里泰山

題字 大田昌秀

 

合掌


沖縄をダメにした百人 46

2013-04-10 09:16:52 | 沖縄をダメにした百人

前回の続き

~1フィート運動騒動記~ 20-12

 2004年3月1フィート運動事務局に連絡が入った。 講談社から中村文子の「平和運動の姿に感銘した」真鍋和子が「命の重さを伝えたい」という本を著わし、同時に吉川栄治文化賞を授与されたというのだ。 ぼくは「また、無知な出版社が賞を与えて、どうするつもりだ」と不快感を覚えた。 後で図書館で「命の重さを伝えたい」に目を通した。 案の定、真相とは程遠い嘘八百を並べた内容だった。それをそのまま紹介しよう。

八〇年代に入り、アメリカへ交換留学した人たちの調査によって、アメリカ国立公文書館に、沖縄戦を撮影した実写フィルムがたくさん保管されていることがわかりました。「このフィルムを私たちが買い取り、全県民の財産にしようではないか。」「なるほど
、それはいい考えだ。原爆を投下された広島では、一〇フィート運動が進んでいるそうだ。原爆で破壊された町のようすをアメリカ軍が写しているんだが、そのフィルムを、一〇フィート一〇〇〇円で買い取ろうという運動だ。」「沖縄県は全県民が戦争被害者
であり、遺族だ。沖縄戦で死んだ人たちと全くかかわりのない人なんていない。親戚だったり、知人、同級生、教え子だったり、とにかくみんな犠牲者とかかわりがある。沖縄は、一〇〇円にしよう。一〇〇円だったら、だれにとっても、身近になる。一〇〇円
で一フィートのフィルムを買い取ろう。」
 八〇年代になると、戦争体験は遠くなり、忘れられようとしていました。テレビや新聞でも、八月十五日の終戦記念日には「戦争はすでに風化」などと言われていました。沖縄でも、戦後世代が多くなり、沖縄戦が何年何月に始まったのか、いつ終わったのか
、どういう戦争だったのか、知らない人たちがふえていたのです。「沖縄戦を経験したわれわれは、どんな戦争だったのか、沖縄戦を知らない世代や子どもたちに伝えていく義務がある。」
 沖縄戦を体験し、戦争にこだわりつづけ、戦後も平和を問いつづけてきた人たちが動きはじめました。そして、沖縄戦のさなかにアメリカ軍が撮影した沖縄戦の実写フィルムを、県民の力で買い取ろうと呼びかけたのです。「いま、世界は戦争への道をたどり
つつある。一フィートは短いが、ひとりひとりの力を合わせると、平和を築く大きな力になる。」
 琉球大学名誉教授の仲宗根政善さんは、くり返しいいました。」
 …
中略
 …
 中村さんは、当時を思いだしながら、赤い表紙の『一フィート運動十周年記念誌』を見せてくれました。「沖縄戦の真実を、一フィート一〇〇円で永遠に語り継ごう。」
 仲宗根政善さんが代表になり、フィルムを購入するための募金活動が始められました。
 この呼びかけに、沖縄県内ばかりでなく、本土の人々にも共感の輪が広がっていきます。「県民の反応はすごかったですよ。貯金箱ごと募金した子どもがいました。ある老夫婦は、ビニール袋いっぱいのカンパを持ってきたり、名まえも言わずに、一〇万円を
置いて帰っていく人もいましたよ。後から追いかけていって、『せめてお名まえをお聞かせください。』と言うと、『長いあいだ、思いつめていたことですから、けっこうです。』とキッパリ言われました。」
 中村さんは目を細めて、会が誕生したころに思いをはせています。 ほとんど語られなかった戦争体験。でも、それはあまりにも悲しすぎたためでした。決して忘れたわけではなかったのです。親、兄弟、親戚たちが、いまだに、どのように死んだのかわからず
、その場所さえもつかめないという現実。遺骨すらもひろえないという苦しみのなかで人々は生きてきました。
 そんななかでも、死者たちの無念の思いを、いつかは語り継いでいかなければ、という痛いほどの思いは、人々の心の奥に、しっかりと抱かれていました。そのこころざしと、一フィート運動の会の呼びかけがようやくつながったのです。
 「一フィート運動の会は、ですから、ひとりの力でできたものではありません。全県民が会員みたいなものです。一フィートずつ、フィルムを買い取っていこうというこの運動は、国からも県からもいっさいの援助を受けないで、沖縄県民をはじめ、日本じゅ
うの人たちからの寄付だけで推し進めてきました。そのために、国民的な運動、草の根の運動となったのです。
 …
中略
 …
  一九八四(昭和五十九)年五月一日に、アメリカ国立公文書館から一二本の沖縄戦未公開フィルムが事務局に到着しました。長さにして九六〇〇フィートです。いずれも保存状態がよく、那覇飛行場が破壊される場面や、日本兵の降伏するようす、戦災孤児を治
療するアメリカ兵などのシーンがあり、四十年前の戦争を生々しく伝えています。
 ところが、買い取ったフィルムというのは、音声は出ない、白黒のラッシュフィルムです。北部のシーンがあったと思ったら、すぐにそのあと、南部を撮影したものなど、だれもがわかりやすいというものではありませんでした。「解説が必要だが、とにかく
、大勢の人たちの力で購入したフィルムだ。すぐに上映会をやろう。」
一九八四年五月十六日、那覇市民会館大ホールで、到着したすべてのフィルムを一気に公開する上映会を催しました。
 真っ暗ななかでフィルムが回りはじめると、会場は水をうったように静まりかえり、かすかにセキの音がひびくだけです。むごたらしい場面には、思わずどよめきが起こり、約三時間、だれひとり席を立つ人はいませんでした。

 ぼくのブログを読んでいる読者はこれがどうしようもない本であることを既に知っているはずだ。

 ぼくは講談社の野間佐和子社長と著者の真鍋和子に事実を簡単に記した抗議の手紙を出した。 二人から返事はなく、出版社の得意技知らんふり」で通している。 だが、この本の再販はなかったことを記しておこう。

つづく


沖縄をダメにした百人 45

2013-04-09 09:48:54 | 沖縄をダメにした百人

前回の続き

~1フィート運動騒動記~ 20-11

 「未来への墓標」のもう一人の編集委員が真栄里泰山だ。 この男も大田昌秀福地曠昭石川元平まよなかしんやに負けず劣らずの良心のマヒした「嘘つき」だ。 編集委員の特権を活かして4つの論説を載せて、「オレはエラいんだ」と威張り腐っている。

 「初代事務局長の外間政彰さん」というタイトルのユクシ(嘘)はオモシロク読ませてもらった。 

外間さんが那覇市立図書館長の定年を迎える頃、沖縄戦フィルムを沖縄で購入する運動をしようとの話が持ち上がり、その事務局長人事の相談があったわけです。 その頃、琉球大学の我部政男さんから当時那覇市編集担当だった私に相談がきたわけです。 即座にこれは外間さん以外に適任者はいないということで一致し、外間さんの事務局長就任を前提に、1フィート運動の会が1983年12月8日発表することになったわけです。」

といかにも自分が主導して1フィート運動を創ったようなことを言っている。

 上原正稔が組織の全てを決定したのであり、事務局長は上原ただ一人であり、後は大泥棒軍団にすぎないことを指摘しておこう。 真栄里沖縄大学の理事であり、共産党員だ。 こういった腐り切った男が沖縄をダメにしたのだ。

 上原正稔が創り上げ、奪われたことについては一言も述べず、全く無関係の男が平気で嘘を並べて、「知識人ぶる」。 ぞっとするばかりだ。 ぞっとする怪談の続きの中で詳しいことを述べることにして、真栄里泰山の嘘とハッタリの世界を覗いてみよう。

 彼は全く英語も話せず、アメリカ公文書館に1991年に訪ね、フィルム調査したことを延々と語り、戻ってきたらアメリカについて全てを知ったようなことを書いている。

 「1フィート運動騒動記 20-1」で指摘したが、3月14日の沖縄タイムス社会面は1984年5月16日の那覇市民会館ホールを埋め尽くした観衆の写真を大きく載せ、次のように報じた。

「歴史研究者有志が沖縄戦を考える会を結成した頃、”アメリカ公文書館に沖縄戦のフィルムがある”との情報が入り、『考える会』の真栄里泰山さん(68)は映像を有志で集めよう。 と1フィートの会を1983年に結成し、翌年がフィルムが届き、初の上映会が開かれた、と語る。」

と報じている。

 さらに3月16日の琉球新報

「1983年の会発足後、初の上映会で映像解説した理事真栄里泰山さんは”集まった人は皆、肉親を捜そうと必死に映像を見ていた。 あの光景は何と表現していいのか分からない”と振り返る」

と報じた。

 上原正稔がその上映会を企画し、宮里千里らが協力し、上原が映像を解説し、上原は超満員の観衆の前で挨拶をしたのだ。 1フィート運動の立役者としてそれはテレビの映像に残されている。 新聞紙上でも、記念誌でもこれだけ嘘を並べて、読者を騙しているのだが、この完全に良心のマヒした男は大田昌秀福地曠昭石川元平らと共に精神病棟に閉じ込めるべきだ。 いや、沖縄は既に精神病島(棟)になっているから、その必要はないのか。

つづく

 


沖縄をダメにした百人 44

2013-04-08 09:23:02 | 沖縄をダメにした百人

前回の続き

~1フィート運動騒動記~ 20-10

 「未来への墓標」編集委員の山根安昇が1フィート運動と関わりを持つようになったのはそれほど昔のことではない。 1フィート運動が池宮商会の家賃支払いで汲々としているのを助けてあげたのが山根だった。 しかし、彼が元琉球新報の記者であったことから、沖縄タイムスOB大山哲と共に25周年記念誌の編集委員となっている。 30周年記念誌でも編集委員となっている。 彼とは深い交際はないが、良く知っているつもりだった。 彼と山城興勝(おきかつ)記者が「世界のウチナーンチュ」取材で南米に向かう途中でニューヨークに立ち寄った時、ぼくは彼ら二人の記者にバッタリ道で出会ったのだ。 1984年の4月のことだった。

 ぼくはアメリカのフィルム調査員のリチャード・プレリンジャーからアメリカ公文書館やグリーンバーグ私立フィルム資料館を案内され、12本のフィルムを選び、沖縄に戻る直前だった。 彼はそれまで1フィート運動のことは全く知らず、立ち話でぼくが1フィート運動を始めたことをニューヨークで知ったのだ。 そんな無知な男が20数年後に1フィート運動記念誌の編集委員となっているわけだ。 もちろん、ぼくは「1フィート運動」の醜い内幕については山根に話したことはない。 しかし、昨年の12月27日ぼくが「1フィート運動の会」の解散記者会見に乗り込み、出席していた福地曠昭石川元平新崎盛暉まよなかしんやらを名指しで批判したことは彼の耳にも届いていた。 その後、間もなくしてパレット久茂地の映画館の前で彼と出会った時、彼は「話を聞きたい」とぼくに言った。 そこで後日、「Caf’eにふぇ~ら」という瀟洒(しょうしゃ)な店で彼と会った。 その時、ぼくは江崎孝も呼んで、二時間以上にわたって1フィート運動の醜い内幕を説明した。 ぼくは1フィート運動の会がぼくに謝罪せねばならないと、強く言った。 彼は「そうなるようにしよう」と言った。 ところが、実際には彼は記念誌の編集委員を粛々と務め、嘘八百の「未来への墓標」でぼくの名を少し上げただけで、真相を隠したままにしている。 かれは大田昌秀嘘つきであることを知りながら隠している

 「未来への墓標」の中で、彼は二つの論説を発表している。 「1フィートから学んだこと」と「沖縄戦とメディアの変遷」だが、大山哲と同じく、沖縄戦については「硬直した反戦主義」を凝りもせず繰り返しているだけだ。 

「1フィート運動はウチナーンチュの心の叫びを伝えた、という点でその功績は計り知れない。 ・・・1フィート運動は歴史の逆説として日本という国のあり方まで照射した。 ・・・私たちの日本軍の亡霊との戦いはまだまだ続く。1フィート運動がそのことを教えた。」 

こういう無意味な言葉を踊らせて、自分を鼓舞しているだけだ。 彼はインターネットも知らず、世界も知らず、自分たちが1フィート運動を破滅させたことも知らず、「元新聞記者」の肩書だけで生きている。 いや事実上、死んでいるのだ。

─つづく


沖縄をダメにした百人 43

2013-04-07 09:29:07 | 沖縄をダメにした百人

前回の続き

~1フィート運動騒動記~ 20-9

 1フィート運動は破滅すべくして破滅した。 「未来への墓標」を読むとほんとにそう実感する。 寒々とする。 そこには自画自賛の虚しい嘘八百が並び、罪の意識も反省もない。

 その1フィート運動を受け継ぐのが、チュチェ思想の申し子である石川元平と反省しない悪党ども(名前はこれから明らかになる)だ。

 NPO1フィート運動の会を解散するには県知事に届け出ねばならず、1フィート運動という名前を残すにしても新たな理事と組織を県知事に届けねばならないのだ。 ぼくは近々、県庁に問い合わせに行くつもりだ。

 「未来への墓標」の編集委員である琉球新報OBの山根安昇沖縄タイムスOBの大山哲は虚偽の報告書を編集したことで断罪されねばならない。

 編集事務局長の大山哲は「上原正稔が1フィート運動を創設し、奪われたこと」には一切触れず、自分が編集した「未来への墓標」の中に、「牧港篤三さんの想像力」「アジアの目線に向き合う」、「右傾化の潮流に警鐘」と三つの自作の論説を入れている。 三つとも1フィートの中身には全く触れず、集団自決(強制集団死)を巡って沖縄タイムスが歴史修正グループに対抗して論陣を張ったとか、「挑まれる沖縄戦」を展開したとか自慢している。 沖縄タイムスのキャンペーンは2007年の教科書検定意見の撤回を求める県民大会に11万3千人(実数は1万5千だ)が集まる原動力となったと自慢している始末だ。 このような愚かな新聞記者は赤松嘉次さんや梅澤裕さんという二人の人間が戦後「集団自決を命じた悪徳軍人」との汚名を着せられて苦しんだことを考えようともしないのだ。

 こうした「自分は正しい」と信じている新聞記者が全てというのが沖縄のメディアの現状だ。 「自分は正義」であることを証明するためには「上原正稔」という「変人」を犠牲にしても痛くもかゆくもないのだ。 赤松さんや梅澤さんら「軍人は悪人」だから、なおさら痛くもかゆくもないのだ。

 大山哲は1992年9月大田昌秀がハーバービュー・ホテルで上原に対して酒乱狼藉を働いた時、牧野浩隆と共に目と鼻の先で一大事件を目撃していた。 その夜、上原と大山牧野の三人は桜坂の酒場に行き、大田の悪口を並べ合ったものだが、大山は新聞記事にもしなかった。 それどころか、その年ぼくが沖縄タイムスで連載していた「続沖縄戦トップシークレット」に大田昌秀知事の意を受けた知事公室長の高山朝光大山に電話し、「上原の連載を終わらせろ」との一言でトップシークレットが中断した。 新聞記者が権力に屈した瞬間だった

つづく 


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